Side F 42(Fumine Hinokuchi) 至高の演技

「えっ?」

「いいから」

 完全に脚本とも原作とも椎葉美砂とも無関係ではないか。しかし、吉海さんの表情は真剣そのものだし、カットの掛け声もない。

「そ、そうっちゃね。最初はあたしにできないと思ったけど、みんなの支えでちょっとずつできるようになってきたかも」

 普通なら、女優の大先輩として敬語を使うべきだが、撮影で、母娘おやこという設定なのだ。タメ口を使わなければ不自然だ。でも、不思議なことにタメ口を使うことに違和感がなかった。奇妙な感覚……。美砂が憑依しているわけじゃないのに、自然と懐かしき実母と重ねてしまっているあたしがいた。

「身体は壊してないと?」

「それは大丈夫。みんな身体を気遣ってくれる優しい人ばかり」

「──楽しか? 高校で親元を離れて不安はないと?」

「不安はないと言ったら嘘になる。壁にぶつかることもあるし、うまく行かないこともある。でも、あたしがこの道に進むって決めたかい、迷いはない。それがいちばんの親孝行ば思っとる。だから、絶対いい結果が出たら報告するよ」

 アドリブのまま進行している。脚本にこんなやり取りはない。でも、強がりでも綺麗事でもなく、あたしの女優生活の本音がするすると出ていた。

 いや、これは、紛れもなく吉海さんがあたしから引き出したんだ。優しかった日のお母さんに見える。離婚する前のお母さん。お父さんと仲の良かったお母さん。あのときは、熊本じゃなかったような気がするけど、何のしがらみも不自由もなく平穏に和気藹々わきあいあいと日々を送っていたような気がする。

 気付くと涙が自然と出始めていた。

「──ぃたい」

 ダメだ。こんなセリフ言ってはいけない。でも……。

「……ぉ父さんに会いたい。お父さんとお母さんとあたしと、幸せな3人の生活に戻りたい」

 止められなかった。とうとう言ってしまった。撮影だということも忘れて、ただ閘詞音の心情を吐露してしまっている。しかし……。

「会えるよ。必ず」

 短い言葉だったが、母になりきった吉海さんからは、慈愛のもった優しい言葉が返ってきた。あたしには、この言葉だけで救われたような気がした。

「ぁ、ありがとう……!」涙が吹きこぼれるようにあたしの頬を流れ落ちてきた。


「──はい、カット!」

 ここでようやく、武蔵監督の声がした。何と一発OKだった。

「えっ? 何で?」

 涙でくしゃくしゃの顔できょとんとしてしまった。OKテイクのはずがない。いますぐ謝ろうとしてたところだったのに、何と現場ではスタッフたちが拍手をし始めたのだ。


「閘詞音さん、だね?」吉海さんは、あたしを本名で呼んだ。

「……は、はい。そうです」

 もう撮影中ではないので丁寧語で返す。不思議なことに、吉海さんは撮影中とは別人に見えた。

「素晴らしい演技だったわ。武蔵が見込んだのも納得できる」

「あ、ありがとうございます……。でも──」

 褒められたのは嬉しいが、戸惑いのほうが大きい。あたしが進化を発揮すると言えば、役が憑依するときだ。でも今回は、一度も憑依していない。の自分なのだ。あれはただの閘詞音。演技とはもはや言えないだろう。

「武蔵から聞いてます。役を演じるのではなく、役に自分の身体を取り憑かせる天性の女優だと」

「あ、ありがとうございます。憑依型と言われました」

 むしろ、憑依せずに演技ができるとは到底思わなかった。

「でも、武蔵はこうも言ったのよ。詞音さんは、憑依しているように見えて、カットごとにちゃんと憑依と解脱げだつを切り替えている。憑依してしまうと、撮影が終わっても憑依したままの俳優も多い中で、うまくコントロールしている。つまり、実際は無意識なうちに、自分の中でベストなパフォーマンスを見極めてるんじゃないかと。むしろ、自分は憑依していないと演技にならない思い込んでるんじゃないかと」

「あたしは憑依型ではないということでしょうか」

 褒められているのはずなのに、少しショックもあった。今村さんが羨むほどの天賦の才だと誇りに思っていたのだから。

「ショックに感じなくていいよ」吉海さんは、あたしの胸の内を読むかの如く言った。「憑依型でもあるし、建築型でもある。つまり合体型ってことよ」

「建築型? 合体型?」鸚鵡おうむ返しに聞いてしまった。

「あ、両方とも私が勝手にそう呼んでるんだけどね。建築型は自分で役を作りにいく。多くの俳優さんがこっちじゃないかな。合体型ってのは、役を自分の肉体に預けるんだけど、自分の意思でも役を操作できる。正直いちばんの才能じゃないかな」

「そ、そうなんですか」実感がないから、なるほど、と合点はいかない。「で、でも、今回は確かにあたしに椎葉美砂は憑依しませんでした。でも、それでもいい演技ができたというのなら、まちがいなく吉海さんのおかげです」

 実は、あたしは、演技中の吉海さんに、自分の優しかった頃の実母を重ねた。いや、重なってしまったのだ。

「嬉しいこと言ってくれるじゃないの。確かに、あなたのお母さんの特徴をなるべく捉えようかなとは思っていたけど。でも間違いなく、あなたは憑依せず、閘詞音として最高の表現をした。途中からはアドリブなのに、見事だったわ」

「ありがとうございます」再三褒められて嬉しいのだけど、やはりピンとこない。

「つまり、あなたの表現力の豊かさは、憑依の力じゃなくて、自分の力なのよ。本当に高校生なの、というくらい。あたし自身が、本当の娘に見えたくらいだもん」

「そう……なんですね」

「あなたに足りないのは経験。これは仕方のないことだけど、もっと足りないのは自信よ。あなたには、あなたも知らない潜在的な表現力があると思う。自信がつけば、どんな役でも演じきれるくらい、七色に輝く女優になれると思います。だから、自信持って。傲慢ごうまんになっちゃダメだけど。これからも頑張って!」

「あ、ありがとうございます……!」

 ベテラン女優からもらった過分な褒め言葉。今度は戸惑いよりも痛み入る思いが上回った。七色に輝くだなんて、面映おもはゆい。でも大女優の言葉だと、不思議と胸に響くような気がした。


「おつかれさん」今度は武蔵監督の声だ。「僕からも礼を言うよ。最高の演技だった」

「ありがとうございます」

 演技なのか。美砂じゃなくての自分だったので、やはり違和感はあるのだけど、やはり嬉しい。

「君のお母さん、来てるぞ」

 そこで、急に我に返った。撮影現場に来ていることをすっかり忘れていた。

「な、何か言ってましたか?」と、あたしはおそるおそる聞く。

「何だ。白々しいな。直接話せばいいだろう」

 そう言うと、別室からお母さんが入ってきた。数か月ぶりの再会だった。神妙な面持ちで、歓迎されているのか否定されているのか、表情だけではどう思われているのか判然としない。


「本当だったのね。いままでどこか、半信半疑だったけど、あなたが女優としての道を歩んでいるのは分かったよ」

 喜んでいるのか悲しんでいるのか、いきどおっているのか許容しようとしているのか、やっぱり分からない。

 お母さんは続ける。

「実は、これまでの撮影の様子を、武蔵監督から聞きました。撮影中、あなたはどんな感じだったのか」

 急に、あたしの中では緊張が高まった。いくら、吉海さんが認めようと武蔵監督が認めようと、お母さんに拒否されたら、これ以上女優の道を続けられないかもしれない。それどころか、水道橋高校の演劇部を辞めさせられるかもしれない。


「あなたを、『門河かどかわ詞音しおん』を、初めてちゃんと応援する気持ちになれたよ。これからも女優の道で頑張って」


 聞き間違いではない。確かに、お母さんから「女優の道で頑張って」と背中を押された。

 歓喜よりも先に、涙が溢れ出てきた。さっきあれだけたくさんの涙を出したばかりなのに。

「ぁ……、ありがとう」

 涙で声にならない声で、それでも声を振り絞って、お母さんに感謝を伝えた。真心で感謝を伝えたのは、久しぶりかもしれない。


 しかし、次にお母さんから出てきた言葉は、意外なものだった。

「私はね、あなたをどうしても科学者として大成させたかったわけでも、女優として活躍することが嫌だったわけでもないの」

「どういうこと?」

 お母さんの言葉が、咄嗟とっさには理解できなかった。

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