Side F 40(Fumine Hinokuchi) 最後の提案
翌日も天候に恵まれた。バルセロナの夏は快適だ。暑いには暑いが、気温で見る数値ほど不快じゃない。
サグラダ・ファミリア周辺は、大勢の観光客で
美砂もしっかり帯同させた。昨日の美砂よりも、幾分しおらしさを取り戻している。
「詞音、大丈夫? 今日は」今村さんは少し心配そうな眼差しを見せた。
「大丈夫なはず。二度と昨日のようなヘマはしない」
「珍しいね。詞音が自信たっぷりに断定するなんて」
「虚勢を張ってるわけでも、気休めを与えてるわけでもないよ」
「詞音を信じるよ」
結論から言うと、昨日の不調が嘘のように、OKテイクの連続だった。
ここでは、バルセロナに着いて、サグラダ・ファミリア観光を通じて、アントニ・ガウディ特有の感性に基づく自然と幾何学と融和の妙を
スペインではバルでの撮影も行われた。タパスやパエリアを食べ、ワインに似せたジュースで、まるで撮影だということも忘れて、これまでの心の隔たりが嘘のように分かち合った。
この後の物語は、この旅行を契機に研究が軌道に乗り、完璧で近付き難かったキャシーと、最高の研究仲間となる。そして、天王星探査機を作り上げ、長年の謎だった異色の太陽系惑星の謎の解明に迫る。研究を通じて、モーリッツは美砂に恋心を抱くようになり、意を決して、思い出の場所のバルセロナに誘い、ついに愛の告白をする。美砂はモーリッツの想いを受け容れ、2人は結ばれるというシナリオだ。
作中2回目の渡航のシーンも撮った。『現を抜かした閘詞音』ではなく、しおらしさを残した椎葉美砂をモーリッツはエスコートする。包み込まれるような彼の優しさに触れ、彼の告白に応え、恋が成就する。原作を再読したおかげで、美砂としての自然体で演技ができた手応えはあった。
「はい、カット!」
軽快な武蔵監督の声から、それだけでOKテイクだと分かる。あたし自身自覚できるくらい、昨日の美砂とは別人だった。これも、アレクさんの助言のおかげだった。あれで、あたしは初心を思い出せたのかもしれない。
『アレクさん、ありがとうございます!』
あたしは、相手が外国人だということも忘れて、思わず頭を下げた。
『今日の詞音の演技は、本当に小説から飛び出てきたかのように美砂そのものだったよ。僕自身も、まるでモーリッツが乗り移ったかのように、演技にのめり込んでしまった。こちらこそお礼を言いたい。アリガトウ』
最後だけ日本語で、アレクさんまで頭を下げてきた。ドイツ人なのに。
『そんな、頭を上げて!』
『お辞儀は日本の文化のはずなのに、ドイツ人の僕でも、心の底から感謝すると自然と頭が下がるんだということが分かったよ』
そう言うと、頭を上げて、いつものアレクさんらしく、ウインクした。
『あとちょっとで撮影終了だね。頑張ろうね』
†
残る撮影シーンは、日本でのシーンだった。しかも、美砂の出身地である九州に帰郷するところだ。
「えっ? 熊本?」
「そうだよ」
「原作じゃ宮崎じゃなかったでしたっけ?」
『ハーシェルの愁思』のヒロイン、椎葉美砂の出身地は宮崎県の山村という設定となっている。ネーミングも
しかし、武蔵監督から出てきた言葉は、あたしの予想とは違った。
「実は、篁未来は、本当は宮崎ではなくて熊本出身にしたかったというんだ」
マジですか、と思わず、心の中で呟いてしまった。
故郷を離れて5ヶ月が経過しようとしているが、まさかこんな形であたしが熊本に帰るとは。
「篁未来によると、椎葉美砂という人物には、明らかなモデルがいるんだそうだ。その人は、偶然にも熊本出身だそうで……」
「でも椎葉美砂の椎葉って苗字は、椎葉村からついてるんですよね?」
「確かに、椎葉さんは宮崎県のご当地苗字だけど、実は熊本県にも多い苗字なんだ」
「えええ?」
ということは、椎葉美砂が熊本県出身でも不自然じゃないということか。
「それでだ、詞音」武蔵監督の顔つきがより真剣な目つきになった。
「は、はい」ちょっと
「お母さんに、経過報告するぞ」
「えっ?」
「実は、僕はクランクアップを、君の故郷である熊本でしたかったというのもある。仕事と撮影を両立させるという約束がある以上、どうしても帰省が難しくなるだろう。だから、撮影を利用して帰るんだ」
熊本と聞いて、お母さんのことを思い出し、どこか消極的になっていたが、その予想が的中した。
「いや、お母さんは──」と、止めようとしたが、それを振り切るように武蔵監督は続ける。
「イレーナ。君の親御さんにも挨拶をする」
「ありがとうございます!」両親との
「具体的には、撮影のシーンを、できればクランクアップのシーンを見てもらおうと思っている」
まじか。あたしは思わず天を仰いだ。
お母さんは、あたしが女優となることを歓迎していない。撮影を妨げるような行動に出ないだろうか。いや、それ以前に、お母さんの前で美砂を憑依させられるだろうか。
あたしは、意を決して物申した。
「今村さんのご両親はいいです。でもあたしのお母さんは、あたしが演技の道に進むことに、いまでも反対してます。あたしのお母さんは、や、やめた方がいいと思います」
しかし、そんなこと百も承知と言わんばかりの武蔵監督の表情だ。
「大丈夫だ、詞音。君の演技を見れば、お母さんは必ず応援してくれるようになる。それくらい、君の演技には観る者に感動を与える確かなパワーがあるんだ」
そう言われても、残念ながら説得力がないように感じた。他ならぬ、あたしとあたしのお母さんのことだから。
「それに、君は自覚がないかもしれないけど、最初に出会ったときから、短時間ながら女優としての風格がぐっと出てきた。演技にも深みを増している」
嬉しい言葉だけど、やはり不安は払拭しきれない。
「お母さんを前にして、憑依させられるでしょうか……」
「君は、美砂を憑依させるが、思い切って、
まさかの提案だった。あたしの頼みの綱である、憑依を捨てるとは。しかも、敢えて、
正直、監督ながら何を考えているのか分からなかった。
「君のありのままを出しなさい。女優としての風格が伴った君なら、君自身を表現しても、原作どおり、いや原作以上のものを作り出せる」
†
実のところ、いくら武蔵監督が呼びかけたところで、お母さんが撮影現場に来てくれることはないだろうと高を括っていたが、予想に反して来ると返事をしてきたそうだ。
撮影の日は日曜日。仕事もなかったのが、見学を可能にしたか。
熊本は、それこそ、高校生になってからは初めてだった。多くの寮生は、土日とか3連休などを利用して帰省している。どんなに遠方の生徒でも、ゴールデンウィークや夏休みを利用して一度は帰省しているのだ。今村さんも、ゴールデンウィークに帰っているし、それ以外も頻繁に両親とテレビ電話をしている。
帰省もせず、電話も必要最小限の、不届きな子どもは、あたしくらいではなかろうか。
熊本での撮影シーンは、実家に帰って、母の作る郷土料理を懐かしむという設定になっているが、閘詞音のままでは、無味乾燥とした感情しか湧き上がらない。感動も何もないシーンしか撮影できないだろう。
このときばかりは、監督の提案に背いて、いつもどおり憑依させて臨もうか。じゃないと、いつまで経ってもクランクアップできない。そんなもやもやを頭に巡らせていた。
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