Side F 39(Fumine Hinokuchi) 憑依の誤謬

『確かにいつもの詞音じゃないよね』

 今村さんにまで言われてしまった。眉をひそめている。ついさっきは褒めてくれたのに。

『何かね、威風堂々としてんのよ。一見気付かないくらいの微妙な変化なんだけど、立ち振る舞いの端々に、これまでの美砂と比べてみると違和感があるの』

 今村さんはつとめて冷静に評価した。アレクさんにも分かるように英語で。

『僕は、自信に満ち溢れた美砂も魅力的だけどね』

『アレクは黙っとこうか』と、すかさず今村さんは制御する。

 アレクさんは剽軽ひょうきんな態度こそ取っているが、要は彼にも変化を見抜かれているということだ。


ダメだ。ここに来てから、一度もOKテイクがない。

「詞音、いい?」

 今村さんは、今度は日本語であたしに話しかける。アレクさんに茶々を入れられないようにするためか。表情は真剣そのものである。

「あのね、単刀直入に言うと、あなたのイメージする美砂が別人になってる。言い換えると、美砂自身が成長しちゃってて、その直前のシーンと繋がらないんだよ」

「えっ」

 あたし自身は正直自覚がなかった。撮影期間に入ってからあたしは、ずっと美砂という人物像を結像させ続けている。あたしの中で美砂のイメージは変えていないつもりだ。

「この映画は、海外での撮影もあるし、撮影の順番はストーリーの順番どおりにならない。ストーリーの中で美砂は成長するけど、スペインでのシーンは映画全体の中盤よりちょっと前でしょ。だから、このシーンでは、成長する前の美砂に戻さなきゃいけないんだよ」

 言われていることは理解できるし、それを心がけているつもりだが、監督や共演者らから見るとそうじゃないらしい。無自覚にそうなっていたということは、きっと、あたしの中で美砂が成長させたままになっていたのだ。

「憑依型のデメリットが出てしまったか」今度は武蔵監督が入ってきた。「憑依型は、自分は役の中に身を置いている。だけどその役がひとりでに成長してしまうことがあって、いまの詞音がそうだ。君は、憑依させる能力も、作中の登場人物の感情の機微を読み取る能力も長けている。もちろん、それを表現する能力も。僕自身もそこに惚れ込んで、出演を打診したんだ。しかし、まだ経験の浅さかな。イメージの微修正が必要なようだ。そして、残念なことに、経験上、微修正は憑依型俳優の方が、そうでない人よりも苦労している印象がある。まして、日が浅い詞音が、ごく短時間でそれを行うのは難しいと思う。今日の撮影はこれで終わりにしよう。明日もう一度チャレンジして、難しい場合は、仕切り直しも必要かもしれん」

 あたしはそれを聞いて、ハンマーで頭を殴られたかのようなショックを受けた。それくらい監督の言葉は重かった。

 仕切り直しとはどういうことだろうか。いまの口ぶりからすると、このシーンの撮影は諦めて、一度日本に戻るということだろうか。そして、あたしを役から降ろして、代わりの女優でリテイクするということだろうか。


 それだけは、いちばん描きたくないシナリオだった。役者の世界は言わずもがな、厳しい競争社会だ。プロスポーツ選手と同じで華がある仕事は、その裏に日の目を見ずに夢を断たざるを得ない人が五万といる。あたしのようなの駆け出しが、オーディションを受けずにいきなり主演に抜擢されるシンデレラ・ストーリーなんて、極めてイレギュラーなのだ。だから、この1回のチャンスを棒に振ると、あたしが檜舞台ひのきぶたいに立てる可能性はぐっと減るだろう。


 明日までに何とか美砂を結像しなければ。そう頭を抱えていたときだ。あたしの隣に誰かが座ってきた。

『あんまり、深く考えすぎない方がいい』アレクさんの声だ。英語だが、口調から優しさが伝わってくる。

『……ありがとう』

『僕もね、若くして、とある有名な監督に使ってもらって、でもそのときは僕も生意気だったから、自分を貫こうとした。でも、延々とOKとならず、とうとう別の人に交替させられそうになったんだ』

『アレクさんも?』

『そうだよ。いま考えると、俺もバカだったよ。でもそこで、もう一度その監督と話したんだ。どこがいけなかったのか、と。そうしたら、監督に言われたんだ。「原作者を尊重しろ。原作者の伝えたいこと、想いを大切にしろ。自分を貫くことは悪いことではないが、役者である以上、原作者の代弁者の一人なのだ。浅はかに捻じ曲げて自分色に染めすぎると、きっと作品は壊れてしまう」と。その監督は、武蔵監督もそうだけど、特に原作を大事にする人だったからね。だから、僕は原作をもう一度読み直した。不思議なことに、改めて読んでみると、自分が演じようとしていた登場人物とは、かなりかけ離れた性格のように見えたよ。もっと、この人は奥ゆかしい人なんじゃないかと。君は篁未来のファンだというから、きっとこの作品を読んでいるのだろうけど、役者になって、もう一度読んでみると、頭にイメージされる美砂も変わってくるんじゃないかな』

『そうなんですね』

 あたしは過信していたというのか。穴が空くほど読んだお気に入りの作品なのに、篁未来の、武蔵監督の思い描く椎葉美砂を共有できていなかったというのか。

『僕は若輩者だけど、君よりはほんの少しだけ先輩だから伝えておくよ、詞音。役者の僕からしても君は無限の可能性を秘めている、女優としての魅力に溢れている。でも経験だけは足りないんだ。自分の役柄に迷ったら、原点回帰しよう。どんなに好きな作品でも、役者として演じようとしてから改めて見てみると、何かしらの発見がある』

『はい。ありがとうございます』思わず頭を下げてしまった。

『そんな、畏まらなくて良い。僕は共演者であり、同時に君のファンでもあるんだから。役者としても異性としても』

『え?』私は、思わず身体が熱くなった。

『僕はこんな性格だけどお世辞は言わない主義なんだ』


 アレクさんには失礼な感想だが、思いのほか真面目なことをいう人だなと再認識した。それまでは、お調子者のイメージだったからだ。最後は、日本人が聞くには恥ずかしい発言もあったが、あたしへの忠告のときには、至って真剣な眼差しを見せた。あの澄み切った瞳に、嘘や出まかせを疑う余地は見当たらなかった。


 その日の午後、ホテルに戻って『ハーシェルの愁思』を手に取った。何度も何度も読んでいつも持ち歩くほどの愛読書。ブックカバーがぼろぼろになっているが、その手触りや質感があたしを安心させる。そんな手に馴染んだ書籍だったが、再読すると驚いたことに、あたしが憑依させていた椎葉美砂とはやはり微妙に違っているように感じられた。

 書籍からあたしが感じ取ってイメージした世界と、実際の撮影セットや現地の風景とは、どうしても完全には一致しない。仄暗ほのぐらい現場だと思ったら、もっと明るかったり、温かいと思ったら涼しかったりする。そして、中学生のときに読んだ印象と、自分が演じるつもりで読んだときの印象とも異なる。

 アレクさんの言ったとおり、確かに印象が違った。ごく僅かな変化だったが、おそらく観る者に違和感を植え付けるには充分なほどの差異なのだろう。

 具体的に言えば、バルセロナに着いた時点では、まだ美砂は内向的だった。最初は行くことすらも消極的だった。初めての異国の地で、会話さえ不自由する環境で、いちばんの安らぎは1人で引き籠もっているときだった。そんな美砂が、研究員の同僚とは言え、旅行で簡単に気分が昂揚こうようするとは思えない。きっと、億劫な気持ちで臨んだに違いない。

 だから、バルセロナの道中で徐々にテンションが上がっていく可能性はあるにしても、着いただけであそこまで開放的になれるかと言えば、否だろう。サングラスをかけているものの、おそらくオシャレのためではなく、表情を隠すためのアイテムなのだ。もうちょっとセリフの端々に、おっかなびっくりな感じがあっても良かったかもしれない。表情に戸惑いがあっても良かったかもしれない。あのとき憑依させていたと思っていた椎葉美砂は、椎葉美砂ではなく『うつつを抜かした閘詞音』だったのだ。


 それを認識した瞬間、急に恥ずかしくなった。なぜなら、撮影前、キャシーの人物像をイメージさせていた今村さんを、あたしは偉そうに諭していたのだから。それにも関わらずあたしは同じ過ちを犯して、見事に監督、今村さん、アレクさんに看破されていたのだから。

 でも、焦ってはいけない。ここで焦ってしまうと、また、他の撮影シーンと整合性のない椎葉美砂を召喚してしまうかもしれない。

 それまでのOKテイクを振り返る。あのとき、あたしに憑依した美砂はどんな立ち振る舞いだったか。どのような声遣こわづかいだったか。

 キャシーやモーリッツとの中でバルセロナ旅行の話が持ち上がったときの美砂は、どんなテンションだったのか。

 最初は乗り気じゃなかったが、明るいモーリッツの勢いに押され、丸め込まれるように承諾した。でも、ケプラー博士が、塞ぎ込んでいた美砂の背中を押すように旅行を促した。休むことも、良い研究成果を上げるためには肝要なんだよ、と。そのテイクは、クランクインして間もないときだったから、はるか前のことのように感じるが、実際にはまだこの夏休みの出来事なのだ。


 もう一度、瞑想するようにあのときの美砂を呼び起こしてみた。眼裏まなうらに結像させる。そして心の中で対話する。まるで副人格サブパーソナリティーだ。でも、その成果あってようやくイメージできた。原作を再読したときのイメージとも相違ない。でも、バルセロナに着いて、ひょっとしたら出発前よりテンションは上がっているだろう。この美砂が飛行機の中でどのように過ごしたか必死にイメージした。

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