Side F 38(Fumine Hinokuchi) NG

 情熱の国、スペインのイメージゆえ、さぞ暑いかと思いきや、バルセロナの夏は乾燥しており、最高気温も28℃程度だという。連日の真夏日、猛暑日も珍しくなく、雨が降ればゲリラ豪雨。加えて、浴室の更衣室のようなジメッとした日本とは、全然違う。

 エル・プラット空港と呼ばれるバルセロナの国際空港から、市街地までは地下鉄で繋がっているくらいでさほど遠くない。

 今回の目的地は、サグラダ・ファミリアである。

 研究所のメンバー、モーリッツと椎葉美砂とキャシーが、息抜きで海外旅行をするのだ。原作の小説の中でも登場する。

 サグラダ・ファミリアは、アントニ・ガウディ没後100年に当たる2026年に完成することを見込んでいたが、新型コロナウイルス感染症の影響による都市封鎖ロックダウンや、観光客減少による資金源などで工期が遅れ、完成も遅れてしまったという。

 しかし、待ち望んだ分、観光客は一気に押し寄せ、竣工から10年経過してもなお、観光客数は高水準を維持している、と聞いた。経済効果か、街は活気に溢れている。


「すごいね。私もバルセロナは初めてだよ。素敵なところね……」

 海外渡航の経験値の高い今村さんも、テンションが高い。

 現地の人々は、今村さんのように、顔立ちが整っている人が多い。それでも、肌の白さは、今村さんのほうが白く、美しい輝く明るめのアッシュブラウンの髪は、現地では珍しいのか、若い男性陣の気を惹いていた。


 ボストン、バルセロナと2国、2都市しか渡っていないが、既に海外の壮大さ、楽しさに心を躍らせる。熊本と東京(水道橋限定)しか知らないあたしは、まさしく井の中のかわずだったかもしれない。日本にいるときは、別に海外になんて行きたいと思わなかったけど、実際に来て、街並みや道行く人々を見て、日本に留まっていることが、いかに視野を広がらないことなのかという、大仰な感想を早くも抱き始めていた。


 サグラダ・ファミリアはバルセロナ都心部にあった。それこそ、東京タワーの横に芝公園があるように、サグラダ・ファミリアの横にも公園があったが、世界文化遺産ゆえ、その壮大さ、荘厳さが、東京タワーには非常に申し訳ないが、雲泥の差を感じてしまう。

 そんな有名な世界遺産が、地下鉄の駅になっているのだから実に不思議なものだ。

 富士山や屋久島に地下鉄が走っているようなイメージだろうか。そんな途方もないことを考えていた。


 情熱の国、スペインだから、あたしは気分がハイになっていた。でも、観光目的ではなくて、撮影目的だ。仕事に来たのだ。ここでもいつもどおり憑依させなければならない。美砂はバルセロナの空気に触れると、開放的な気分になるのだろうか。小説では、少なくとも開放的になっていた。そして原作を重視した武蔵監督の脚本でも、美砂は研究所にいるときよりも心を開き、メンバーとの距離を縮めていく。憑依した美砂はスペインの地でどう自分を表現するのだろうか。演じるのは間違いなく自分のはずなのに、憑依して委ねているせいで、自分でも想像がつかない不思議な感覚だ。


『詞音、君のそのメイクもめちゃめちゃ似合っているね! すごく美しいよ!』

 英語で気障きざなセリフを恥ずかしげもなく言ってくるのは、アレクさんだ。

 英語ならではと言うか、日本語で言うと、やれセクハラだとか、やれ恥ずかしくないのかとか言われるような発言も、許されてしまう傾向がある。しかも、ここはスペインだから余計にそうさせているかもしれないし、あたし自身、不快な気にはならない。

『ありがとう。でも、いつもと一緒でしょ?』

 そう問うと、現地在住のメイクさんが代わりに答えてくれた。彼女もまた、武蔵監督の知り合いらしい。

『そんなことないわ。スペインの明るい風土に合わせて、いろいろチークとかアイシャドウの色を変えてみたわ』

 あまり気にしていなかったが、確かに鏡を見ると、少し小麦色の肌になっている。ストレートの黒髪も、少しウェーブをかけてくれている。マスカラも、しっかりと目元を引き立てている。

『これでサングラスをかけてもらおうかなと思っている。ほら』

 高校1年生で、物心ついてから羽目を外すこともなかったあたしが、サングラスというアイテムとは無縁だった。しかし、かけてみると不思議なことに、自分でもアクセサリーとして自分を際立たせているような気がした。


 心なしか衣装も露出が多い。これまでは研究員という役柄で、オフィスカジュアルコーデというおおよそ普通な格好をしていたが、バルセロナでは完全にプライベートなシーンである。事実、このカットは、真面目だった美砂が、渡米して初めてのバカンスということで、研究員たちと急激に距離を縮めるシーンでもある。そして、新しい一面にモーリッツも美砂のことを意識し始める転換点でもあるのだ。さらに、物語の終盤では、再度バルセロナに渡航しモーリッツとデートするシーンもある。オシャレを強調した服装で撮影に臨む。


「詞音、ヤバいね! 化けるねぇ」

 今度は、メイク室に入ってきた今村さんに言われた。

「そ、そっかな?」何か照れくさくなってきた。

「そんなにキレイになるなんて、同じ女として嫉妬するくらいだよ。日本人女性は性格でもルックスでも、外国の男にモテるんだから」

「今村さんだって、日本人でしょ?」

「いやいや、いくら日本国籍でも性格きつそうな外国人顔じゃ寄り付かないよ。実際、アレクだってあんたのこと口説くどいてるわけなんだし」

 今村さんの指摘に、あたしは思わず身体が熱くなった。鏡に映るあたしの顔も紅潮している。

「も、やめてよぉ」

 スペインに来て、みんな気持ちがハイになっているのか。あたしを見ては、何かと持ち上げてくる。お調子者なところのあるアレクさんは良いとして、同性の今村さんに褒められるのは素直に嬉しかった。

 あたし自身、コスプレをしているかのように、気分がハイになっていた。


 サグラダ・ファミリア前のガウディ広場の一角を一時的に封鎖して撮影を行うらしい。場所が場所だけにこれとて相当なお金がかかっていることだろう。ついつい開放的になるが、迷惑がかからないようにNGを出さないように引き締めないといけない。


 いつも通り、あたしは美砂を憑依させる。

 カチンコが鳴る。陽射しと同時に、映画撮影だと気づいた観光客ないし通行人が、足を止めて遠目にこちらを見てくる。写真を撮っている人もいる。

 ロケーション1つで、こういった視線が、自分でも不思議なことに快感になっていく。美砂がオーディエンスに、私を見て、と言っているようだ。


 モーリッツとキャシーと3人で、サグラダ・ファミリアを間近に見てテンションを上げているシーン。

「カット!」

 同時にカチンコの音。

 しかしながら、武蔵監督の表情は渋い。

「もう一回、撮ってみようか」

 なぜだろう。自分の中では、特にNGになる要素は見当たらなかったが。

 再び撮影に入る。しかし、あたしの中では完璧だったにもかかわらず、何度トライしても、OKテイクとはならなかった。

「詞音、ちょっといいか?」とうとうあたしは武蔵監督に呼び出された。「どうした。いつもとは別の美砂が憑依しているかのようだ」

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