Side P 36(Moriyasu Agui) 千載一遇の人事

「突然呼び出して、申し訳ない」

 大月理事長とは、一緒に大臣に説明に行ったとき以来の再会だ。ちなみに南雲部門長も同席している。


 一介の研究員にすぎない俺が、理事長に呼ばれることなんてまずあり得ないことだと思うのだが、現に呼び出しを受けているということは、それだけただならぬ案件だということが窺える。

 少なくとも不祥事は働いていないはずだが。


「今日ここに来てもらったのは、他でもない。NASAが、先生たちのプロジェクトの研究のことが注目し、興味を持ったようで、誰かポスドクで来てくれないかとのお声がけがあったのです」

「えっ!? NASA?」

 ただならぬ案件ということは予期していたが、それでも想像以上の大きな案件に、思わず驚きを隠せなかった。

 日本において宇宙に携わる仕事として筆頭に上がるのは、やはりJAXAだろう。しかし、世界的に見ればやはりNASAだろう。俺自身NASAに詳しくないが、人員も予算規模もNASAの方がずっと上なのは間違いない。


「私も驚いています。日本人でNASAの職員になる例ももちろんあるが、NASAが直々にJAXAに打診してくるなんて、おそらくいままでなかったことです」

 すごいことだ。NASAに自分たちの研究が評価されるのは、いち研究員としてこの上ない喜びである。


「ここにお呼びがかかったことのは、前向きに考えてほしいということですか?」時任先生が問う。

「そうです」

「候補となる研究者はいるんですか?」

 時任先生は単刀直入に切り込んだ。プロジェクトチームとしては、未来に情報を送る技術を確立したということで、1つ目処が立ったところではあるが、まだまだ道半ばだ。過去への送信技術の確立、というもっと大きな目標に向かって歩みだしているところなのだから。

 数秒、黙考して、理事長は口を開いた。

「安居院研究員にその役を受けてもらえないかと思っています」

 話の流れから覚悟していたが、やはりそうだった。

「私ですか」

「そうです。研究員としての経歴と年齢、プロジェクトチームとしての実績、南雲部門長から聞き取った人物像、アメリカに移住できるフットワークなどを加味した結果です」

 

 考えたら、ここに呼ばれている時点で白羽の矢が立ったのが私になるのは、明白だった。理事長は遠回しに言ったが、アメリカに移住できるフットワークとは、要は俺が独り身であるということだろう。こんなところで離婚したことが影響するとは。

 ポスドクとは、一言でいうと任期付きの研究員である。大学を卒業して研究者を目指す過程で、博士後期課程修了者が通る道の1つだ。任期付きなので、決められた期間である程度の成果を上げなければならない。


「期間は?」

「最低2年。1年間延長可で最大3年間です」

 最大3年間か。ポスドクは一般的に安定したポストではない。収入としてもきっといまの収入より下がることだろう。それでも、宇宙に携わる研究者として、NASAは魅力的だ。あまり欲は示さないほうだと自認しているが、キャリアアップに無関心ということでは決してない。


 独り身だから、3年なら詞音の養育費を払ったとしても、何とかやっていけるのではなかろうか。問題は、ポスドク後の処遇が安定しているかだ。任期付きと言えど、一旦はJAXAを退職することになるはずだ。となると、任期を終えて、JAXAに再度雇用してもらえるか、だ。さもなくば、無職となってしまう。

 しかし、その予想はある意味で良い方向に裏切られた。

「で、ポスドクの後のことを気にしていると思いますが、実は、これも異例なことだと思うんですが、ポスドク後、NASAの正規職員としてどこかに充てがう内約をすると言ってきています。それだけ、NASA側が、このプロジェクトを評価し、人材を渇望しているということになります」

「ということは、NASAに行ったまま帰ってこない可能性もあると……」

「そういうことになります」


 つとめて私は平静を装っているが、内心は喜びと戸惑いが混在した非常に複雑な気持ちになっている。理事長が言ったとおり、たぶん極めて異例な人事だ。

 宇宙研究に対する野心は少なからずある。世界最高峰の宇宙研究機関に勤めてみたいという気持ちもないわけではない。そして幸か不幸か、離婚して自由の身。心配された処遇面も、3年程のポスドクを乗り切れば、然るべきポストを与えられそうだ。確約とまではいかないまでも、JAXAのトップに話す内容なのだから、信憑性は高かろう。

 宇宙に想いを馳せ、情熱をたぎらす者にとって、NASAは憧憬そのものだろう。きっと、志すも断念せざるを得ない者の方が、はるかに多いことだろう。そして、理事長の期待。NASAの期待。断る材料が思い当たらない。ここで断ったら、二度と訪れることのない千載一遇の大チャンス。

「お受けしたいと思い──」俺が言いかけたところだった。

「少し考えさせていただいてもいいでしょうか? 他所属の私が言うのは僭越せんえつですが」

 時任先生だった。意外だ。きっと先生なら、教え子がNASAに行くことを誇らしく思って、背中を押すに違いないと思っていたからだ。

「確かに、唐突すぎましたね」と、理事長は頭を掻く。

「いえ、NASAの打診を無下に断るのは、JAXAの面子メンツを潰すことになりましょう。だから、然るべき人間をNASAに送ることには賛成ですし、ポアン、あ、いや、安居院先生ならその期待にきっと応えてくれましょう」

「ありがとうございます」理事長は静かに礼を言う。

「ただ、そのためには確かめないといけないことが2つあります。理事長も部門長もご承知のとおり、B世界、すなわち地球が救われる世界に向かって我々は動いています。いま知り得るB世界と齟齬そごがないことを確認させてください。それが1つ。もう1つは、NASAに身を置きながらも、我々のプロジェクトチームの研究に手を貸していただきたい、ということです。B世界では、過去に情報を送信する技術が確立されています。そして、我々のチームはその技術の確立に、いちばん近いところにいます。そして、その鍵を握るのは、安居院先生です。安居院先生をNASAに行きながらも、共同研究者として我々のプロジェクトへの参画を続けて欲しい。それが条件です。差し出がましいことは重々承知ですが、ご理解いただきたいと思います」

 普段のおちゃらけた時任先生ではなく、凛とした表情、歯切れの良い口調で、理事長に訴えた。

 時任先生の言うことは、実にもっともなことだった。私情で浅はかに受けようとした俺の発言を恥じた。

 しかし、1つめの条件は良いとして、2つめの条件はどうだろうか。

「なるほど。分かりました。では、まず1つ目の確認事項をクリアしたら、早急に教えてください。2つ目の確認事項については、飲んでもらえるか、飲んでもらえず話がなかったことになるか分かりませんが、真っ当な理由であることは先方も分かってくれるはず。先方にしっかり伝えましょう」

「ありがとうございます」

 時任先生は畏まって頭を下げた。



 確かめたいことの1つ目に関して、結論から言うと、B世界から来たメールとは、明らかな齟齬はなかった。つまり、NASAに行っていないとか、ずっと日本で研究を続けてきたとか、そういう記述はなかったのだ。

 すぐに、部門長にまず話をして、理事長の秘書にその話を伝えた。そしてその日のうちに、NASAには2つ目の条件をメールにて問い合わせた、と返答があった。さすが、行動が早い。

 NASAはどういう回答をするのだろうか。仮にOKだったとしても、NASAにおける研究テーマが分からない以上、二足の草鞋わらじを履く行為がどれくらい自分にとって負担になるのかは未知数だ。



 そして、2日後、NASAから返事があったと理事長室から連絡があった。慌てて、再び襟を正して、時任先生と俺は、理事長室に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る