Side F 35(Fumine Hinokuchi) 憑依の強制解除

 ボストンに着いたときには、日本を出て半日以上経過していた。

 ヒューストンでトランジットを経験したが、日本の空港と比べてかなり大きい気がした。乗り継ぐだけなのにモノレールで移動しなければならないのだ。あたし1人だったら、迷って、目的の飛行機に乗れなかったかもしれない。

 入国審査では、両手バンザイで、レントゲンでも撮るかのごとく厳つい装置が、入国者を隈なく調べ上げる。さすがアメリカへの入国は厳しいというのか。どれもこれも初めての経験で緊張していたし、思いの外アメリカの航空会社の飛行機はシートがコンパクトで、なかなか旅程を楽しんだりリラックスしたりすることはできなかった。


 ボストンのローガン国際空港から地下鉄でも目的地に向かえるらしいが、武蔵監督の現地の友人らが、迎えに来ている。

 友人らと言っても、数人は付添人のように見えた。おそらく、その真ん中にいるサングラスの人物が、武蔵監督の友人だろうか。何というかオーラが出ている。

「紹介しよう。僕の同業者のトム・バートンだ」

「ト、トム・バートン!?」

 映画に詳しい今村さんが、目を見開いている。それはそうだ。映画にさほど詳しくないあたしですら、知っている映画監督だ。

「数日間だけど、アメリカ滞在中は、彼の家で世話になる予定だ」

「マジですか!?」

 またとない僥倖ぎょうこうだが、緊張は尋常ではない。元はと言えば、あたしのお母さんが、メリーランド州へ行くことを拒否したためにこんなことになった。


 恐縮という言葉の最上級だ。本当に申し訳ない。

 改めて、武蔵監督の大物っぷりを感じさせられた。さすが、武蔵監督の力を持ってすれば、お母さんの小さなワガママなど、蟷螂とうろうおのを以て隆車りゅうしゃに向かうか如くの行為だろう。

 何だかとてもちっぽけで、恥ずかしくなってしまった。


 トム・バートン監督の家は、ボストンの近郊のウェストンという高級住宅街にあるという。有料道路を西に進み、現れた邸宅は高級住宅街の中でも際立つ豪壮な邸宅だった。熊本ではこんな立派な家、ちょっと見たことがないと思う。今村さんでも歯が立たないレベルではなかろうか。

 敷居が高いとは、まさにこのことを言うのだろう。今村さんですら借りてきた猫のように恐縮しながら、大理石の玄関に踏み入る。


「さすがはシロウだ。彼女たちは、僕が見ても引き込まれる魅力がある」

「それは光栄です、トム。実は、最初に彼女たちを引っ張ってきたのは、僕の息子なんだ」

「素晴らしいな。さすが、血は争えないな!」

 英語で談笑しているが、英語の脚本、外国人との共演、アメリカという環境からか、ある程度の会話内容は、注意すれば聞き取れるほどになっている。武蔵監督のことを本名の『紫郎しろう』で呼ぶくらいの親交があるようだ。


「ちょっとの間だけど、くつろいでいってくれ。シロウの映画は僕が見ても素晴らしい。そのためにも旅の疲れを癒やして撮影に臨んでくれ」

「ありがとうございます」

「僕は、彼の同業者だけど、彼のいちファンでもあるんだ。作品を楽しみにしているよ」

 バートン監督は恬淡てんたんとしていて優しかった。武蔵監督と似ているかもしれない。そういう意味ではありがたかった。


 広すぎる部屋には、今村さんはともかく、私は終始慣れなかったけど、バートン監督が言うように、少しでも休まないと、いい演技ができないような気がした。つとめてリラックスして、あたしは眠りに就いた。



 夏のボストンは、東京と比較にならないほど涼しかった。街並みは綺麗で、学術都市だからか、思い做しか理知的な情景に見える。

 ショウマット・アベニューと呼ばれる通りを使うという。派手さはないし広くもないが、赤レンガの建物が左右に居並び、それだけでどこか異国情緒を味わわせる。


 想定は、研究所から帰路に就くシーンを撮影するという。思えば、野外での撮影は初めてだ。撮影許可は市から許可を得ていると言うが、それでも、ちょっと離れたところや建物の窓には、撮影とは無関係の一般人の姿もあり、映画の撮影という非日常に気付いたか、あたしたちを見ている。


 このような、初めての環境で、うまく憑依できるか一抹の不安はあったが、椎葉美砂との付き合いも長くなってきたせいか、あたかも交代人格サブ・パーソナリティのように、そしてそれを自分の意志でび起こせるようになってきた。


 今日も頼むよ、美砂。あたしは心の中で、に話しかけた。


 研究室では、キャシーに苦手意識を抱いていた美砂。文化の違いから来る孤独感から、最初は1人で家路につく日が続くが、アレクさん演じるモーリッツが美砂を案じ、声をかけ、同僚のキャシーとの関係を取り持つ。ギクシャクしていた関係は、少しずつ軟化していき、徐々に完璧を絵に描いたようなキャシーにも、美砂と同じ、孤独を感じながら日々の実験や研究に勤しんでいることを悟る。

 モーリッツの提案で、キャシーと美砂と3人でスポーツ・バーに行ったときに、国の期待という名の重圧に打ちのめされそうになっていることを察する。美砂と同じ苦悩や葛藤と闘っていることから、一気に2人は距離を縮め、お互いの欠点を補完し合う、最高の相棒バディーとなり、前半の不調が嘘のように、実験で良い成果が次々と出始める。


 対人関係の成長は、研究室の外で形成される。実験の成功の鍵を握る、非常に重要なシーンだ。


 美砂目線で描かれる作品であるため、最初はあたし1人での演技である。

 よし、しっかり憑依させた。最近では憑依した美砂の肉体を俯瞰ふかんするように、憑依という事象を認識することができるようになってきた。

 まるで、詞音自身が、撮影スタッフの一員になったかのように。


 海外初日の撮影は順調に進み、その日のロケはつつがなく終了する──かに見えた。そのとき、一気に憑依を強制的に解除させる、衝撃的な光景が視界に入った。

 あたしは、気付くとその景色の方向に走り出していた。


「どうした!?」

 当然ながら、撮影スタッフは驚き慌てる。何か門河詞音に異変でも起こったかと、思ったことだろう。

 そう思われていることを自認しつつも、どうしても走り出すことを止められなかった。


 視界に映ったのは、ある人物だった。

 その人物は、あたしを見ていた。そして、なぜか、あたしから逃れようとその人物も走り出している。いま追わないと、もう会うことが叶わなくなるかもしれない。

 色々な人に対する裏切りと強烈な後ろめたさを感じながら、それでもなおその人を追いかけた。

 一方で、その人が本当にかという不確定さも残る。なぜなら、実に久しぶりだったから。それでも、不確定ながらも、感覚的な自信があった。

「お、お父さん! 待って! 詞音ふみねだよ!!」

 しかしながら、大きな通りに出ると、その人物は、数多いる雑踏に紛れてしまい、姿を確認できなくなってしまっていた。

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