Side F 34(Fumine Hinokuchi) 海外渡航

「はぁ~」思わずついた溜息ひとつ。

 電話を切って、どっと疲れが湧いた。親との会話でこんなに気を遣うとはどういうことだろうか。


 正直、武蔵監督にこんなことで連絡を取ることは、めちゃめちゃ気後きおくれする。撮影のネックが、パスポート申請に親が承諾をしないことだなんて、我が家の恥だ。でも、連絡しないわけにはいかない。バッドニュース・ファストだ。傷が大きくなって取り返しがつかなくなる前に……。


 武蔵監督は、こんな呆れるような相談に真摯しんしに耳を傾けてくれた。

『よし。さっそく、僕から君のお母さんに連絡を取ろう』とまで、言ってくれた。

 頼もしいことこの上ないが、お母さんの面倒臭さは、武蔵監督も肌で感じている。一筋縄ではいかないはずだ。


 お母さんの電話番号を伝える。お母さんには、武蔵監督から電話があるから知らない番号でも着信には出るように伝えた。

 いまこの場に、お母さんも武蔵監督もいない以上この先は祈るしかない。

 果たして、お母さんから『人類が滅亡するから、娘にパスポートはやれない』だなんて聞かされたりしたら、絶対ヤバい奴だと思うに違いない。いろいろ状況を想像するだけで、不安だけが増していく。


 一方でよくよく考えると、最初に篁先生に会ったとき、なぜあたしの本名を知っているのか問うたときのあの不自然な態度。お父さんに監修も頼めるくらいの仲なら、両親が離婚したこと、ひょっとしたらお母さんの情報やあたしの情報を知っていてもおかしくはない。それにもかかわらず、篁先生は、監修がお父さんであることを言わなかった。あれは、隠していた態度だろう。何かしらの理由で、あたしがお父さんと接触することを拒んでいた裏付けになる。理由は分からないけど。

 お母さんが言っていた荒唐無稽にも思えるあの発言は、本当なのだろうか。でもそんな話を武蔵監督が聞いてどう思うだろうか……。憶測と不安が頭の中をぐるぐると巡る。


 30分後くらいに、武蔵監督からあたしに電話がかかってくる。吉報なのか凶報なのか。心臓が口から飛び出そうだ。

 指をブルブルと震わせながらも、ようやく電話をとる。

『大丈夫だ。パスポートの代理人になってくれるぞ』

「良かった……!」その言葉だけで涙が溢れてきた。

『いやー、危なかったよ。でも、撮影場所を変えると言って何とか折れてもらった。君がお父さんに会う可能性は限りなく低い』

 その瞬間に、今度は申し訳ない気持ちが押し寄せてきた。

「本当に、すみません。こんな気難しい母で」

『なに、撮影にトラブルや不運の1つや2つ、つきものさ。それに、やっぱり途中まで撮影してみて思ったけど、「ハーシェルの愁思」のヒロインは君以外ありえない。君以外の他の誰かで、いま撮影しているものよりも上出来なものを作ることが想像できない。それくらい、僕のイメージに近いんだ。僕がここまで思うことは正直言ってあまりない。お世辞じゃないよ、これは! だから、君の演じる椎葉美砂でクランクアップするためなら、あらゆる手を尽くそう』

 もう、感謝してもし尽くせないほどだ。ありがとうと何度でも言いたいのに、涙と嗚咽おえつで、言葉にできない。

『ま、とにかく、今日は疲れただろうから、早く寝なさい。スケジュールはタイトだし、宿題もあるから、休めるときに休んでくれ。じゃあな』

 そう言って、武蔵監督は電話を切った。



 そして翌日。今回の撮影もJAXAだ。

 武蔵監督に会うや否や、あたしは駆け寄って、コメツキバッタのように頭を下げた。

「だから、そんな謝らんでいいよ」

「そんな、武蔵監督に何と言ってお礼を言ったらいいか……」

 あたしはイジメを受けていた過去や、お母さんの愛情不足もあって、こういう献身的な優しさに本当に恐縮してしまう。

「こっちも視線が痛いのよ。だからもう頭を上げてくれ」

 振り返ると、その場にいる共演者やスタッフが、あたしを見ている。かなりのっぷりだったらしい。

「でね、後でみんなに言おうと思ってるんだけど、代わりの撮影地は、ボストンにしようと思ってる」

 当初の予定はNASAのゴダード宇宙飛行センターのあるメリーランド州。州の最大都市はボルティモアだが、どうやら治安がイマイチらしく、未成年のあたしや今村さんに何かあったらいけないということで、有数の高級住宅地であるベセスダで撮影する予定だったようだ。しかし、お母さんは、でもあたしとお父さんが鉢合わせすることを強く拒んだらしい。メリーランド州以外の地で撮影することで、ようやく承服してくれたのだ。

 ボストンは聞いたことくらいはあるが、アメリカの何州なのか、どのあたりにあるのかは調べていないのでよく分からない。しかし、武蔵監督によると、現地に強力なツテがあるらしく、ボストンの一角をロケ地として使うことに協力してくれそうな人がいるとか。

 加えて聞いた話では、学術都市としても名高く、物価は高いがその分治安も良いことも、白羽の矢が立った理由だった。撮影は、研究所の外の光景らしいから、別にメリーランド州に固執する必要はないという。

「ボストンはいい街だぞ。歴史を感じさせるし、綺麗だし、それに、昔レッドソックスで大活躍した日本人メジャーリーガーもいてな、親日的なんだ」

 それを聞いて、とても安心した。やはり、武蔵監督を慕ってきて正解だったかもしれない。



 数日後、『閘舞理』の法定代理人署名の入った旅券申請同意書を入手することができた。いろいろとトラブルはありながらも、何とか前に進んでいる。

 クランクアップまで、このまま突き進みたい。良い作品に仕上がれば、自分が監修を務めた作品なら、きっとお父さんも観てくれるだろう。

 ここでふと、あたしが『門河かどかわ詞音しおん』という芸名にしてしまったことを、少し後悔した。少しでも、他人の空似そらにではなく、安居院守泰の娘であることをアピールするためにも、『安居院詞音』にすれば良かったか。でも、離婚したのが幼少期過ぎて、お父さんの苗字なんて分からなかったし、仮にそれに変更した暁には、お母さんは何と言うか分からないけども。

 お母さんの言葉を信じれば、あたしは若いころのお母さんに瓜二つらしい。確かに、あたし自身、お母さんに似ていると思う。であれば、きっと、映画を観たお父さんは、リアクションを示すかもしれない。自分が監修した作品なら観てくれるだろうから……。



 そして、いよいよあたしの人生初の海外渡航。

 ボストンは緯度が高いから8月でも涼しいらしい。猛暑日続きの日本とは全然違うとのこと。

 そのあたりは、海外経験の豊富な今村さんにアドバイスを乞いながら服を用意した。と言っても、あたしの私服は大して多くないのだけど。

 飛行機自体は、羽田‐熊本間のみであるが乗ったことはある。成田空港からヒューストンを経由してボストンに行くらしい。

 撮影スタッフの他、ロケ機材も積んでいるのでワンボックスカー複数台で移動する。


 出演者で渡航するのは、シリングさん、アレクさん、今村さん、あたしの4名。本来ならシリングさんのような大物俳優をワンボックスカーに押し込むのは、失礼なんだそうだが、シリングさんは珍しいことに倹約家で、わざわざ専用車など用意してくれるな、という人物だ。むしろ、若い共演者とわいわいやりながら、移動したいという、良い意味で庶民的な感覚の持ち主だ。

 そして、敢えてワンボックスカーで移動させてしまうのも、シリングさんと武蔵監督の仲だからなし得る技かもしれない。


 この車に、まさか大物俳優が乗っているなんて、隣を走る車の運転手もまさか思わないだろう。改めて、シリングさんのうつわの大きさに感心した。

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