Side F 08(Fumine Hinokuchi) 憑依
それからあたしは、もっともっと脚本を読み込んだ。脚本の中の『ヒパティア』像をあたしの頭の中で結像させる。
相手はアンドロイドだが、見た目は人間とそっくり、性別は女性で博士のことが好きで仕方がない、感情の機微に富み人間くさい温もりもある。だけどアンドロイドだから、思いの伝え方が少し不器用なところもあったり、イントネーションが独特だったり……。脚本にないところは、あたしが想像してキャラクターを補完した。このあたりの助言は、千尋さんからもらったものだ。
どんな衣装を作るか美術係に聞いてみないといけないが、少しずつぼんやりとだが、イメージが湧いてきた。考えてみれば小説だって、挿絵がなければそれぞれの読者の頭で像が補完されるのだ。言及されていない部分のキャラクターは読者が好き勝手に思い描くのだ。それと同じことを脚本でやるだけの話だった。読書の好きなあたしにとって、いつもやっている作業をもう少し深く掘り下げてやるだけの話だった。
その結像させたアンドロイド『ヒパティア』にあたしの身体を与えてやる。言い換えれば『
脚本を隅々まで目を通して、セリフをインプットする。あたしは『ヒパティア』のキャラクターを脚本から読み取っているので、結像の仕方が精緻であればあるほど、そのセリフは自然に出て来るはずだ。
人生において、ここまでイメージトレーニングをやったことはあっただろうか。普段の読書なら感情移入で済むだけかもしれないが、それを極限まで追究した行為のような気がする。
一通りそれに専念したところ、現実のあたしに戻るのに一定時間を要した。そしてめちゃくちゃ疲れた。しかし、意外にも嫌な疲れではなかった。
†
翌日もまた放課後に千尋さんの家に向かう。
「詞音ちゃん、今日えらいやる気とね?」
「千尋さん、あたしやるよ! 『ヒパティア』になりきるよ。悪いけど本番に近いメイクをして欲しいの!」
「……いいよ。それにしても何かあったんかな?」
家に着いてさっそくメイクをしてもらった。彼女の魔法で、またあたしは美しく生まれ変わる。
「ありがとう、でもいつも千尋ちゃんの化粧品でメイクしてもらうの悪いから、何を使ってるのか教えてもらってもいい? せめて物だけはあたしが用意するから」
「いーよ、そんなこと」
あたしのやる気の入りようにちょっと
あたしは昨日のイメージトレーニングをもとに、さっそくアンドロイド『ヒパティア』を呼び出して『憑衣』させる。2、3分ほど目を
「『博士! アナタが私に諦めないチャンスをくれた! そして12年ぶりに地球に戻ってこれた! アリガトウ!』」
「『地球以外の星に行くことはできても、暮らすことは自分のことを必要としてくれる人がいないとダメ。それは私の場合、博士なんだ』」
「『私、博士が好き。絶対離れない。私を造ってくれた大切な人だから……!』」
普通なら顔から火が出るようなセリフだが、感情豊かな『ヒパティア』ならきっと言いそうだ。
『憑衣』させたあたしはそのセリフに心を乗せる。あたしが創ったアンドロイドには、たとえ『命』はなくても『魂』は宿している。気付くとあたしは脚本どおり、大粒の涙を流していた。
「す、すごい。昨日とはまるで別人。本当に『ヒパティア』がいるようやった……」千尋ちゃんは目を丸くしていた。
「ありがとう。千尋ちゃんが教えてくれたからだよ。『自分の身体を貸すと思って演じれば、セリフも動きも自然になる』って。だからやってみたんだよ」
『ヒパティア』を見事演じきったあたしは、汗だくになっていた。
「いやいや、頭で分かっちょっても、なかなかできるもんじゃない。やっぱり部長が見込んだとおり、詞音ちゃんには演技の才能あるよ。いや、大女優になれる素質があるのかもしれない」
「本当に? ありがとう。でも楽しいね。自分が自分でなくなるみたいで。あたし、読書くらいしか趣味がなかったから、それ以外のことにこんなに夢中になったのってはじめて。もっともっと『ヒパティア』になれるようにがんばる!」
あたしは本心からそう言った。
「マジで? 詞音ちゃんならできると! あたしもがんばるよ!」
「劇の楽しさ教えてくれてありがとう!」
「それなら部長に言ってあげないとね」
「そうだね」
あたしは、中学校に入ってはじめて心から楽しんだ。いじめられていた学校生活が嘘みたいに、まるで地味だった
†
それから数日。あたしは劇のために没頭した。千尋ちゃんにお願いして、実際の劇ではどんな衣装なのか、宇宙船はどんな形をしているのかなどを教えてもらい、イメージをもっと精密なものに昇華させていった。
おかげさまであたしの中の『ヒパティア』はますますはっきりと像を結んでいった。
そして、約束の日がやってくる。
†
1週間ぶりに演劇部の部室を訪れた。心臓がバクバク高鳴っていることが自分でもわかる。
既に今村さんはメイクを始めていた。もともと今村さんはメイクが得意なのか、それとも自分がイメージした確固たる『ヒパティア』像があるのか、自分でメイクを施していた。
あたしも千尋ちゃんにお願いして『ヒパティア』に身体を貸す下準備を始める。メイク道具はバッチリ揃えてもらっている。
今村さんがメイクを終えると、部員のみんなもあたしも嘆息するくらい美しくなっていた。いや、元から日本人離れした美人だけど、中学生らしからぬ大人の色気まで感じた。それこそ、テレビに出てきてもおかしくないくらい。
「あら、あんたも園田さんの力を借りれば、そこそこになれるのね」
どこか高圧的で見下した言い方。むかつくけど見た目で勝負するんじゃない。演技で勝負するんだ、と言い聞かせる。でも、あたしを見て「綺麗」とか「めっちゃ美人じゃん」とか「本当にあの閘さん?」とか、そんな感想が漏れ聞こえてきた。もともと綺麗な今村さんよりも、もともとが没個性的なあたしの方が、ギャップでは勝っているかもしれない。メイクをしてくれたのは千尋ちゃんだけど。
「ありがとう。期待してくれたみんなのためにも、あたし頑張るよ。見た目では今村さんに叶わなくても、演技では負けたくない」
「へぇ、あんた変わったね。演技未経験のあんたが1週間でどこまでできるのか、楽しみにさせてもらうよ」
その間に、小道具係が部室内に簡単な舞台をセッティングする。宮本先輩も遅れて登場した。
「千尋から聞いてる。すごい頑張ってるそうじゃん。君ならできると期待してる。がんばって!」
宮本先輩も簡単ながらメイクを施した。博士役の宮本先輩は、大人の男性に変身していた。やはりイケメンだ。さすがにドキドキした。
「は、はい。やれる限りやってみます」
演劇部内のこぢんまりしたキャスティングの選考会なのに、
「はい、ただいまから『ヒパティア』役の選考会を始めます。エントリーナンバー1、二年A組、副部長の今村英玲奈さん!」
あたしはその間に、『ヒパティア』になれるように準備をした。全神経を集中させる。イメトレの成果あって、最近は1分くらいでできるようになってきた。
しかし、今村さんの演技はそれを邪魔するかに観る者を惹き付ける。まるで
「ダメだ。集中できない……」
あたしは、今村さんの演技の完成度の高さと『憑衣』ができないことに焦り始めていた。
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