22.深い霧の中で④
森には深い霧が出ていた。視界は極めて悪い。
ただ、〈探知〉の異能を持つ羽犬塚明にとってはあまり問題はなかった。「あまり」というのは、彼に〈探知〉できるのはあくまで生命だけだからである。つまり、生命以外の脅威には対応できない。考えうるのはブービートラップくらいで、広大な森の中に罠が的確に仕掛けられている可能性は低いように思えたが、警戒を緩めることはできなかった。先も罠にかかり、生き埋めとなって死にかけたばかりだからだ。
ゆえに、その動きもまた罠として警戒せざるを得なかった。
「いる。というか、こっちに来てる……?」
「なに?」
羽犬塚は歩みをとめ、煉獄もそれに倣った。羽犬塚は意識を集中させ、該当の動きをより正確に追った。
「まだ距離はある。ようやく範囲に入ったくらいだ。南西の方から……さすがに俺たちの位置がわかってるわけじゃない、と思うけど……」
「待て。誰の話だ」
「桜佐武郎だよ」
彼らが追うのは事件の首謀者と思われる桜佐武郎。羽犬塚の〈探知〉をもってしても正確な位置は掴めていなかった。彼が〈探知〉の範囲を出たからである。わかっていたのは、おおよそ南に向かったということ。つまりは南に向かって歩けばそのうち見つかるだろうと思っていた。
だが、さすがに移動したらしい。二日近く生き埋めになっていたのだから無理もない。足跡も残されていなかった。森を歩き回り、途方に暮れ、今は一息を入れている。
羽犬塚が彼の気配を察知したのは、そのときだ。
「桜佐武郎は……羽犬の異能を知ってるはずだよな?」
「多分ね。生徒会にいたし、実際に会ってもいる。別れたあとも動きを追ってたけど、あれは“知ってる”動きだった」
「俺たちを警戒していないのか?」
「俺がまだ煉獄と共に行動しているのを知らないだけかも」
「あー、それもあるか。で、どこに向かっている?」
「……あ」
「どうした」
「いやこれ、向かってきてる。間違いない。迷いなく一直線に、ここに向かって」
彼らが今くつろぐのは「もしも」のときの
頂点に立ち、ゆえにすべての勢力から狙われる立場となったメテオ。彼らの講じた対策が、
「なるほど。たしかに、
そのうちの一つは部外者によって暴かれ、利用されていた。
「ひとまず、出ようか。また生き埋めにされるかも」
二人は
「桜佐武郎の異能は……わかんねえよな」
「うん。正直、推定の材料すらない」
「しかし、
「たまたま見つけるってことも……なくはない、とは思う。“ある”と思って探せばね」
「俺もあんときはなかなか見つけられなくて死ぬところだった」
「え?」
地下室の入り口となる落とし戸は土を被せて隠蔽してある。隣の木に簡単な印が刻まれているだけだ。あるいは、桜佐武郎の異能がそれを発見せしめたのかもしれない。
「俺たちの
「しっ。もう、かなり近くまで来てる」
以降は声を抑え、羽犬塚は手振りで伝える。静かに息を潜め、待つ。
そしてついに、その男が姿を表す。防空壕の上に立ち、あたりを軽く見回していた。
死んだように澱んだ目をした、短髪の男。生徒会の制服であった学ランを未だに着ている。一見して覇気はなく、しかしその無造作な立ち振る舞いに、隙はない。
彼こそが、桜佐武郎である。
「いつまで隠れている。星空煉獄とあろうものが、俺ごときに警戒しすぎだ」
佐武郎は声をかける。「いるかもしれない」相手にではなく、「いる」と確信して、方向まで的確に。
(なぜわかった? 桜佐武郎の異能は感知系か……?)
警戒は緩めない。煉獄は手振りで羽犬塚には留まるよう指示し、一人で木の陰から出て行った。
「まさか探していたのか? 俺を?」
自らのポイントを根こそぎ奪った男と、煉獄は初めて対面する。これまでの
距離は30m未満。いつでも殺せる。
「お前こそ、俺を探していたはずだ。なにが起こったのか。どうすればいいのか。知りたいはずだ」
すべてを見透かすような態度に、煉獄はさらに警戒を強めた。なにか罠があるはずだと思った。
「俺が生きていることには特に驚きもしないんだな。埋めたくらいで殺せないのは想定内か」
「なに?」
佐武郎の表情がわずかに歪む。その微表情は、あたかも身に覚えのない指摘をされた戸惑いである。
「変なところで惚けるんだな。あの罠のことだ」
「罠? ……なにがあった?」
「地下に仕掛けられた爆弾だ」
「……地下。そうか、なるほど。イリーナが生きているというのは本当らしい……」
「さっきからなにを言っている?」
「互いに持ってる情報に齟齬がある。立ち話もなんだ、中で話さないか?」
そういい、佐武郎は
「いや。お前の誘いに迂闊には乗れない」
「たしかに、三人が入るには狭すぎるかもな」
佐武郎は当たり前のように羽犬塚の存在を仄めかした。潜んでいるのに気づいていた以上、人数を把握していてもおかしくはない。羽犬塚を後ろに控えさせたのは後方からの援護のためだ。たとえば、対面を条件に発動する類の異能であった場合の警戒である。
「俺の異能を警戒しているのか。だが、まあ、俺の異能は実演できる類のものじゃない。信用してもらうのは難しそうだな」
「信用だと? それなら質問に答えてもらおう。なぜ俺からポイントを奪った?」
「なるほど。なぜ、と問うか」
「お前はまだ二年生のはずだ。あと一年も1000Pt以上を抱えて生き延びる自信があるのか?」
「まずその誤解から解こう。俺がポイントを奪ったというより、俺はポイントを押しつけられたんだ」
「なんだと?」
「さっきお前がいってた……罠を仕掛けたというのもそいつだ。そいつの名はイリーナ・イリューヒナ。ロシアからの留学生であり、ロシアの
「……ふむ? まあいい。続けろ」
煉獄にとってはわかるようなわからぬ話だが、ともかくは話を聞くために桜佐武郎を追っていた。まずは話を聞かねばなにもわからない。
「この前も中国軍に命を狙われたはずだ。
「俺を直接殺すのではなく、ポイントを奪うことで卒業させないようにしたのか」
「そうだ。ゆえに、本来であれば俺がそのポイントを得る必要はなかった」
「だったら、なぜ現実にはそうなっている」
「俺の存在もまた、ロシアにとっては邪魔だったからだ」
「……“もう一人”については、そういうことか」
煉獄は独り言のように呟いた。時計塔地下の管理室には争った形跡があった。佐武郎の話を信じるなら、それは桜佐武郎とイリーナ・イリューヒナが争った形跡だということになる。
「お前の話に一定の信憑性があるのは認める。つまりなんだ、お前は俺たちにとって“敵”ではないと言いたいのか」
「そうだな。俺は敵じゃない。当初は
「急に胡散臭い話になったな。一応聞こうか。なにをすればいい?」
「イリーナ・イリューヒナを殺せ」
わかるような、わからぬ話だ。煉獄は頭を悩ませた。桜佐武郎は、虚実を交えてなにか別の目的のために誘導しようとしているのではないか。そのような疑いがあったが、見当もつかなければそれを見破る手段も思いつかなかった。
「盛り上がってるみたいだね。俺も話に混ざっていいかな」
見かねて、羽犬塚が姿を見せた。
「話を整理しよう。君とイリーナは煉獄の卒業を妨害するために送り込まれたロシアの
「ああ。その通りだ」
「いくつか疑問がある。まずは……そうだな。そういう不正があって、それが発覚したらどうなる? 卒業式はやり直しという形になるんじゃないかと思うけど、どうなんだい?」
「ロシアの介入が認められたのならそうなるだろう。ただ、“日本人である俺”が犯人であった場合は話が別だ。日本側の責任となり、不正の結果はそのまま正式なものとなる」
「なるほど。君が裏切られたというのはそういうことか。どう見ても日本人なのにロシアの
「気づかなかった。それがイリーナの異能だからだ」
「うーむ」
煉獄は黙ってその様子を眺めていた。この手のやりとりはやはり羽犬塚に任せるにかぎる。
「その状況を脳内で
つまり、戦闘の跡も含めて偽装である可能性がある。イリーナと桜佐武郎が対立していると思わせ、佐武郎は“味方”として取り入り、機会を見て隙をつく。そのような筋書きも想定できた。
「説明すべき前提が多くて難しいな……。まずはイリーナの異能だが、これはおそらく思考力を奪うような精神操作の類だ。俺はこのために最終的にイリーナに切り捨てられる可能性に気づけなかった」
「で、直前で気づけた?」
「気づいたのは俺じゃない。なんというか、俺は幽霊のようなものに憑かれていてな」
「うわ、急に胡散臭い話になったね」
いったい、どこからどこまでが真実なのか。霧はより深まる。
「羽犬。こいつの話は……」
「んー、一度は生徒会を裏切ってるやつだからね。今度はメテオに取り入って裏切るつもりなのかも」
「……信じて欲しい」
羽犬塚は煉獄に軽くアイコンタクトを交わした。
嘘をついている態度は見えない。話にも筋は通っている。だが、信じるには弱い。
「まあ、ロシアだのイリーナだのというのが初耳だからね。君がロシア語を話していたのも状況証拠にはなるけど。そうだ、ロシアといえば……彼はどうなんだい?」
「彼?」
「ロシアの留学生はもう一人いたろ。ヴァディムだよ」
「あいつに関しては俺も知らない。正規の留学生だと思っているが……」
「だったら、彼はなぜ今ここに向かって来ているんだい?」
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