18.図書館③
「“桜佐武郎はどこ?”――だって。二ノ宮綾子はまだ動かないつもりだ」
細目の男は床に耳を当て、べったりと寝そべった姿勢のまま、そう告げた。
知識が質量となり積み重なった本棚が円周に林立する――学内で最も静寂であるべき空間は、卒業式も終盤を迎え落ち着かない空気となっていた。図書館は、その厳粛さを外圧によって押し潰されようとしていた。
「おいおいおい。動かねえぞ。長谷川よ、てめえの読みも結構外れるもんだなあ?」
中央のソファに腰掛けるのは金縁の丸眼鏡に無精髭を生やす男。図書館を守る〈障壁〉を維持する、長谷川傑である。
その顔を覗き込むようにして絡む長身の男は、テンガロンハットを目深に被り、ニタニタと笑みを浮かべている。〈契約〉の異能者、樋上董哉である。
「桜佐武郎さんは、まだ見つかりませんか」
図書館は複数の索敵・感知系異能者を抱えている。
一人は、壁や床に耳を当てることで「耳」を潜行させる〈壁耳〉の異能者。盗聴器やレーザーマイクによって代用できる異能であるが、盗聴器と異なり優れている点は仕掛ける必要も回収する必要もないこと、どこにでも潜入可能で決して感知されないことである。この異能による盗聴を防ぐには生徒会が保有するような〈遮蔽〉の異能によるほかない。いま図書館は、この異能によって玄関前に居座る二ノ宮綾子の声を聞いている。
または、似たように「目」を飛ばす〈投視〉の異能者。自由に視覚だけを遠距離まで飛ばす。いわば不可視のドローン、あるいは幽体離脱のようなものである。範囲は極めて広いが、「視点」の移動速度は徒歩と同程度になる。発動条件として使用者自身は目を瞑る必要があるため無防備となる。さらには、手を繋ぐことで他者とその視覚を共有することもできる。この特性は他の視覚系異能と合わせることで応用が利く。いま図書館は、この異能によって桜佐武郎を探している。
「“ランキングに従って卒業するはずの五名全員が卒業手続きに現れなかったら、どうなるのかしらね”――だって。ワァオ、脅迫じゃん」
「ぶはっ! なりふり構わねえな二ノ宮も。長谷川、お前殺されるってよ。〈障壁〉はあとどんだけ保つんだ? ん?」
「連続で二十時間は展開できます。休憩を挟めれば数日でも持続できますが……」
二ノ宮綾子はその隙を与えないだろう。もっとも、「休憩」の代用として図書館は〈恢復〉の異能者も抱えている。
彼女がこうして訪れることは図書館も予想していた。図書館も事件の全容を把握してはいないが、桜佐武郎が生徒会を裏切ったのは確実であり、生徒会は桜佐武郎を追うだろう。しかし、生徒会に索敵系の異能者はいない。情報を得るためには図書館を頼るしかない。また、長谷川傑がランキング上位に入ったため疑いをかけられることも考えられた。
ゆえに、図書館は備えていた。生徒会――二ノ宮綾子が欲する情報を、ランキングの推移から予想できる結果の裏取りをしていた。
二ノ宮狂美はヴァディム・ガーリンに捕らわれている。ヴァディム・ガーリンは〈奪食〉の異能者である。彼に食われれば異能を奪われる。すなわち、〈不死〉である二ノ宮狂美も死ぬ。
(この情報で、二ノ宮綾子さんは動いてくれると思っていたのですが……)
図書館が彼女の要求通りに桜佐武郎の情報を提供しないのは、単にまだ見つかっていないからである。そして、できることなら二ノ宮とヴァディムをぶつけておきたいという魂胆もある。
だが、それは必ずしも図書館の総意ではない。
「二ノ宮の目的はなんにせよ状況の正常化なわけだ。なあ、長谷川。不正は正されるべきだよなあ?」
二ノ宮と同じ0Ptとなった樋上からすれば、二ノ宮が正常化の手がかりを掴み、さらにはそれを成し遂げるというなら願ってもないことだ。協力を惜しむ理由はない。壊滅は免れても、内部での利害対立は確実に残っていた。
「ただ言われるがままに情報を差し出す、というのも屈辱ではありませんか? なにか対価を得られるとよいのですが」
「対価、ねえ……」
「いずれにせよ、桜佐武郎さんもまだ見つかっていませんから、二ノ宮綾子さんとはお話する時間があります」
「あの女を下手に怒らせんなよ?」
その結果、得られた返答は。
「“あなた以外を殺すわ”――だって」
剥き出しの殺意である。
「……むちゃくちゃ言いやがるな。あの女」
これまで軽口を叩いていた樋上も、これには唖然とした。
「おそろしいですね。こうなると、やはり……彼女には卒業していただくのが望ましい。我々にとってはある意味で星空煉獄より危険な存在です。もっとも、私の安全は保証されるようですが」
「本気で言ってんのか?」
「冗談ですよ。まずは彼女の信頼を得ましょう。正直に“桜佐武郎はまだ見つかっていない”と告げようと思いますが、いかがでしょう」
「……いいんじゃねえのか。むしろ、生徒会とはガッツリ協力するくらいでいいと思うぜ。今はそういう異常事態だ」
「問題は、正常化したあとです。卒業式は従来通り十月には終わるのか。あるいは、その期間も延長されるのか。終了まで猶予があった場合、このような持久戦で攻撃を仕掛けてくるかもしれません。その備えが必要です。ゆえに、情報面では優位に立たねばなりません。私もこの学園は長いですが、このような事態は初めてですので」
「はん。そうだな。
「加えて、こちらの手の内を隠すことも肝要です。“下手に手を出すべきではない”、“あえて手を出すほどの価値はない”――そのような綱渡りで我々は生き長らえています」
「で、桜佐武郎は見つかり次第すぐ二ノ宮に伝えるのか?」
「いえ。少し時間をおいて、見つからない場合でも適当な憶測をさも事実にようにそれらしく伝えるだけで十分でしょう」
「あ? てめえ、また冗談か?」
「彼女はヴァディムのもとへ向かいます。まだ間に合うと思える時間であれば、ですが」
「なにを言ってやがる。その読みはもう外れただろうが」
「弱みを見せたくないだけですよ。わかりやすく大慌てでヴァディムのもとへ向かっては、
「なんだそりゃ。妹の情報を無視したのは見栄のためだってのか?」
「彼女がどのようなつもりかはわかりませんが……彼女が妹さんを見捨てることはありません。そのことを、彼女自身まだ気づいていないのかもしれません」
「だが、それだと正常化はどうする? 桜佐武郎を見つけたあとなにをすればいい? あいつを捕まえないことには始まらねえだろ。俺たちが動いて捕まえるのか?」
「特に、なにもする必要はありません。
「あいかわらず、てめえは……」
「心配いりません。卒業式は正常化しますよ。そのために日本政府が動いています」
「ほぉー……?」
「なので、我々にすべきことは特にないのです。強いて挙げれば、防備を固めることです。ポイントという指標が失われたことで各々の勢力の思惑が読めなくなりました。二ノ宮綾子さんのように、強硬に図書館を突破しようというものも現れるかもしれません」
「防備……あれのことか。役に立つのか?」
「戦力としては頼りになるはずです」
「おろ? いたいたあ。桜佐武郎見つかったよお」
〈投視〉の異能者より報告。事態が動く。
「おろ? 足跡が見つかったから追ってたけど……これは範囲外だねえ」
「範囲外、ですか? 視村さんが?」
「巡視範囲外で規定範囲外って意味。別に行けなくはないけど……普段はこんなとこまで見なくていいからねえ。一応見てみる? 森の……かなり南だねえ」
「南……なるほど。発着場でしょうか。システムが死んでるので反則を検知できないのでしょうね」
「オーケィ。要するに見つかったってことでいいんじゃねえのか?」
「いえ。やはり情報は正確でなければならないでしょう。視村さん、目視をお願いします。どのくらいかかりますか?」
「え? 別にそんなにはかからないよ」
「ですが、すごく疲れたりはしませんか? そうですね、休み休みで、一時間くらい」
「そうだねえ。そうかもしれないねえ」
「なるほど。それでは、二ノ宮綾子さんには一時間後に伝えてあげましょう。仕方ありませんよね」
そして一時間。図書館は適当に談笑しながら過ごし、二ノ宮綾子を待たせた。
(坂本タカシさんは、無事桜佐武郎さんと接触できたようですね)
図書館は二ノ宮綾子の重圧から解放され、ほっと息をついた。ただ、長谷川傑が動くのはここからだ。
「失礼。席を外します」
「あ? どこへ行くつもりだ」
「閉架書庫まで」
長谷川は立ち上がり、奥の棚まで歩いていく。本の抜き差しを繰り返すと、本棚が両側に開いて扉が現れる。隠し扉である。誰もその先まではついていかない。閉架書庫は、長谷川傑の空間である。彼自身を除き、二人の初期メンバー(
その先の部屋にも本棚が並ぶ。表側の空間より遥かに高い密度で、際限なく増え続ける本をかろうじて押しとどめているようである。
その隅に、絨毯に隠された落とし戸がある。知らなければまず気づけない巧妙な偽装だ。彼はさらに奥深くへ進んでいく。
梯子を下り、地下室に降り立つ。照明の乏しい静かな空間で、コンクリートの床は足音がよく響く。埃のにおいが鼻についた。
第二閉架書庫。レール上の移動式の本棚にはぎちぎちに本が詰まっている。その奥には、粗末な椅子に座る一人の女がいた。
「大変みたいだね。特に樋上くん」
彼女は、背を向けたまま長谷川にそう話しかけた。
「私に100Ptを与え、樋上董哉さんからはポイントを奪う。“敵”は
薄暗い部屋だ。彼女の顔は見えない。
「やっぱり?」
「逃亡を。できうるかぎり迎撃はしますが、果たして敵うかどうか……」
「弱気すぎない? わたしは、図書館がそんなに弱いとは思わないけどな」
「万が一のためです。貴女には、子供もいるのですから」
「んふ。まーねー」
長谷川傑は九年間に渡り学園に在籍している。すなわち、学園事情について最も詳しく知る生徒である。
彼は多くの秘密を持ち、多くの嘘をつく。図書館の仲間に対しても例外ではない。そして彼らも、長谷川傑が抱える秘密について深入りすべきでないと心得ている。
彼はその「秘密」を守るため、図書館を長らく「無敵」の組織として運営してきた。
しかし。
二日後、図書館最大の試練が訪れる。
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