第56話 たとえ雨が止めども。4/4


 そんな最中さなか、様々な表情を見せる三人、いや寝姿を含むデュエラを含めた四人を見つめてカトレアは重苦しい口を開く。



「——……それにしても、あのジャダの滝で育った少女ですか。ただ話しているだけだと、そのような暗い過去があるとは到底思えませんが」


激しい雨音が背に押し寄せる息が詰まるような、ある意味で逃げ場のない牢獄の中に居るような状況で、独りその場に居る者に深く関わらず居たバツの悪さに声を上げたのかもしれない。


自身の騎士としての愛剣の手入れを一区切り、さやに刃を納めた彼女は眠る少女に神妙な眼差しを送る。



すると、コーヒー豆を挽き終えたイミトが言った。


「暗い過去があるから、明るく振る舞えるんじゃねぇの? そういうもんだろ、不幸を知らなきゃ幸せが分からねぇのと同じだよ」


火の付いた赤く小さな魔石を用いた装置の上に置かれる小さなヤカンが湯を沸かすまで、見通し甘くもうしばらく。お湯を注いで抽出する工程の用意を整え、振り返らぬままに腰に手を当てて一息を突く。



「……分かったような口を利くものだ」


「まぁな。そういや、カトレアさん。十何年か前にジャダの滝で起きた戦いの事、何か知ってるか?」



やがてクレアの深い溜息に、ようやくと彼は振り返り——ヤカンが噴き出し始めた、ほんの僅かな蒸気の音に耳を傾けながら思考した。



「割と激しい戦争で、死体そのまま取り残された兵士も相当いたみたいなんだが」


しかしイミトが耳を傾けているのは、疲れ果てた死神の涙の如き嵐雨らんうとそれらを受け止めさせられる大地の嘆きの調しらべなのかもしれない。



クレアとイミトが出会った地でもある壮大な滝がそびえる景色の下、腐敗を越えて風化した歴史を語る——物言わぬは、かつて国のためにと戦った王国の騎士たち。


「そうですね……バジリスクとツアレストが争った最新の記述は確か十九年前。それ以降は当時としても異例である魔物との不可侵協定をツアレスト国は結び、ジャダの滝との国境に巨大な要塞が作られたのだと士官学校で学んだ記憶があります」



外様とざまのイミトがうたつぶやきでも伝わる程の哀愁あいしゅうに、時代も立場も違えど、守られた王国の騎士の一人カトレアは当事者として己の記憶にある所を真摯しんしに探る様子で語らって。



「当時、家の者もバジリスクの戦争には出兵しておらず私も生まれたばかりでしたので詳しい経緯までは。近隣の者や近辺の生まれの者に聞けば何か分かるかもしれませんが」


そして鞘に納めた剣を傍らに置き、有益ではない情報しか与えられないと言った様相で瞼を閉じて、小さな息を吐き、罵倒も覚悟の上と再びイミトの顔に視線を送る。



「不可侵協定ねぇ……それが破られてたんだとしたら、やっぱり約束なんてのは腹下しの下剤みたいなもんだって話だな。クソしか出ねぇってよ」


だがそんな覚悟を知るよしもなく、コーヒーをれる作業に戻って背を向けていて、程よく沸いたヤカンの中の湯を、粗く挽いたコーヒー豆を流し入れておいた細い穴が底に開いたコップのような形状の物が乗ったコーヒーポットに注ぎ始めたイミト。



一度、僅かに湯を注ぎ——粗挽きのコーヒーの粉の表面から染み込ませていく。


ゆっくりと、ゆっくりと——コーヒー豆の秘めたる味わいを湯で静かにさらって行くが如く透過法と呼ばれる工程を重ねるイミト。その口が吐く、汚物を彷彿ほうふつとさせる言葉はともかく、とても静かに背筋を伸ばしてコーヒーポットに漆黒のしずくを抽出していく姿は礼節儀礼を重んじる風貌ふうぼうであった。



「蛇の魔物は智に長けるが狡賢い姑息な連中だ、信じるに足らん。早々にどちらかが滅びるまで戦を続ければ良かったものを……脆弱な者どもは直ぐに問題を先送りしようとして愚かな選択をする」


故に足し算引き算の中和が起きたか単なる慣れか、誰もがイミトの言動を気に留めず話は進み、愚痴を溢すようなクレアの言葉に視線は集まって。



「そうせざるを得ない状況で、自分たちにはどうしようも出来ないから御大層な未来に賭けたんだろ、押し付けられた方はたまったもんじゃないけどな」


湯が昇り始めると共に、ほのかに薫り始めた蒸されたコーヒーの香りを背に、沸かした湯を注ぎ終えたイミトが一息を突いてクレアの愚痴に応える。


背後でコーヒー豆の地に沈み行く透明だった湯が黒く染まりながらコーヒーポットにしたたり落ちていく中で彼は細やかに人を嗤い、そしてそれを解らぬクレアの自負を笑うのだ。



伝わるかどうかも分からぬけれど——全く以って、凄い奴だと言わんばかりに。



しかしその言葉の矢たちは、聞く者によっては鋭く深く突き刺さる。

カトレア・バーニディッシュにとっても、恐らくそうだったのだろう。



「一人の国を守る騎士としては耳が痛いな……しかしバジリスクの勢力は一国の軍事力に引けを取らない強大さだ。バジリスクのマザーを討伐するとして、どうするつもりなのかイミト殿の展望を聞きたい所ではあります」



悩ましげに肩を落とした自嘲の笑み。けれどそこから一転しての真剣な顔色は、後世を憂い、世界を責め立てる雨のようでもあって。


そんな彼女の問いに、イミトはコーヒーポットの具合に気を取られつつ思考する。



「んー、そりゃマザーを暗殺して残党狩りをツアレストに押し付けるのが理想だけどな……俺の目的はマザーだけだし? 作戦自体は、状況みないと何とも言えねぇよ」



やがて何の罪悪感も負い目も無く、思考を続けながらに平然と答えられる返答。

己すらも未だ明確に答えが出せない問題を、棚を眺めつつ俯瞰して眺めるように彼は言葉を紡ぎ、もう直に淹れ終えるコーヒーをカップへと注ぐ用意を始める。



「ジャダの滝の地理に詳しいデュエラがおるなら、近づく事自体は不可能では無かろうがそれでも茨の道である事には変わらぬ。奴等は群れで動いておるから激しい戦闘は避けられまい」



「内心で、お前が楽しみにしている感じが伝わって来てるから俺もそう思う」


「……退屈を持て余しておる事は否定せぬよ。貴様の予想の裏付けをするははばかられるが、確かに遥か遠方にいくさの気配はしておるしな」



「さいですか。だがまぁ……そこまで辿り着けるかも分からねぇ話だ」


問題を提起したカトレアを他所に、クレアと延長線上の会話をしながら並べられたカップは三つ。しかしその話題にも心ここにあらずのイミト、それは彼がコーヒーを淹れる事に執心していたからだけでは無い事は明確だった。



「俺の勘じゃ——近々、来そうな気がするから」


「——……奴等か」


湿度の高い洞窟の中でさえ白煙をくゆらせるコーヒーの平穏な薫りに混じり込む、蒸されたような冷ややかな土の臭いに鼻をなぞる。



「まぁな、そういう奴も居るだろ。雨が止んだ天気の良い日にさ……甘ったるい糖尿混じりの立小便で虹でも作ってきそうな気がしてな」



「期待外れの杞憂きゆうで無ければよいがな」



「かっ、杞憂に越した事は無いだろ。相変わらず意見が合わねぇな、ウチの御姫様とは」



「「……」」


たとえ嵐が過ぎ去り雨が止めども、この湿り気は暫く続くと暗に示した二人のデュラハンの軽々白白けいけいはくはくなやり取りを、二人の人間は意味深く受け取り——何も知らぬ少女は尚も静かに寝息を立てる。



だが本来、その場に居る誰もが未だ知る由は無いのだ。


この瞬間にも燃え盛る怨嗟えんさの眼差しが、その邂逅かいこうを待ち望み、静かに瞼の内に封じられている事を。


しかし知る由も無い事を思いつくのも、また人か。


見た事も無い亡霊について語らうように、やがてその呪いで穢れきった悪辣な魔人は黒いティーセットに似合わぬ漆黒のコーヒーを注ぐのである。

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