第18話 凶兎博徒。1/4


「……下ごしらえとやらは終わったのか?」


 しばらくの時が過ぎ去り、背後から台座へ足音を立てて歩み寄る影にクレア・デュラニウスはまぶたを静かに開き、そう尋ねた。アウーリア五跡大平原に吹く一陣の風は、さわやかであれど虫の報せなるものが含まれているかの如く不穏。


「ああ。夕飯の支度から燻製の下味までバッチリ、な」


 クレアの問い掛けに、一仕事終えた様子で肩を回しながら首をかたむける。真上に昇りかけていた太陽が斜陽へと向かう頃合いに至るまで、彼は幾多の作業を成し遂げて疲労の色を滲ませていて。


「まったく……時間を取らせおって。くだらぬとは言わぬが」


「姫様一行の荷物が幾らか無事で助かったぜ。おかげで少し幅が増えた」

 「ふん……流石の我とて貴様の都合で振り回される奴らが不憫ふびんでならんよ」


 無論、クレアが呆れかえる様子を見れば、さして重要な事柄ではなく、湯を沸かす焚火や黒い厨房に積み重なる器の数々。イミトがこなしてきた作業は全て、料理に関するものである事は明白であった。


「じゃあ、さっさとこっちも片付けるとしますかね、クレアさん」


 しかし、だからこそ落ち着いた様子で準備運動のように体を曲げ伸ばすイミトの作業終わりの動作の一段落は、彼らがこれから行おうとすることが料理とは全く関係が無い事も同時に示唆している。


「うむ。早う我を持て、我も退屈を持て余しておる。存分に暴れてくれるわ」

 「はいはい……っと」


 黒い魔力に包まれ鎧兜を纏ったクレアに促され、イミトはクレアの頭部を両手で持ちあげて左脇腹に抱える。そこから、


「「……」」

 置いたのは一考いっこう——、一考の間である。


「馬クサイ‼」


 鎧の左腕に抱えられ、クレアが叫ぶ。嗅覚を驚く程に刺激する強烈な異臭に心どよめいて。


「き、貴様! なんだ、この獣臭は! 嫌がらせか‼」

 「……そりゃ馬一頭解体すればな。俺だって湖でひと風呂浴びたいんだ、我慢してくれ」


 イミトの左腕を動かし、出来る限りイミトの体から自分を遠ざけて非難するクレアに、イミトも辟易ウンザリした様子で首を上向きに傾げ目線を天へと逸らす。イミト自身、自らが放つ呪いの如く染みついた体臭を自覚していた。


 けれど、そんな事を気にしている場合では無いと判断していたのである。


 悪臭を嫌うクレアとの口論の予感、そんな空気が漂う最中、


「ふひゅー、サッパリしたのです。あ、そろそろ始めるので御座いますか、お二方様」

「「……」」


 鎧が動く足音と共に、空気を読まない呆けた声が響き、爽快感に溢れたデュエラが颯爽さっそうと歩み寄ってきて。イミト達は、そのさまに一瞬で言葉を失い、唖然とした。


「デュエラ。因みに貴様、何処に言っておった」


 イミトに至っては咄嗟にデュエラから顔を逸らす始末。


「あ。はい、湖に服の洗濯と水浴びに行っていたので御座いますよ。気持ち良かったのです」

 クレアからの質問に平然と楽しげにニコリと答えながら、濡れた髪を顔布が外れないように気を遣いながらタオルで丁寧に拭く。そんな水が滴るデュエラは、


「服、着た方が良い」


 走ってきた覆面の魔女・セティスが背伸びをしながら全力で手を伸ばし、身に着けていたマントで勢いよく隠す程に見事な全裸である。セティスの魔力感知で世界においてもはそうだったのであろう。


「あ! そうだったで御座いますね! ど、どうしたら……」


 正確に言えば足首から下はクレアが作った鎧の靴を履いていたのだが、ほぼ全裸には違いなく、彼女は先程学んでいた男に裸体を見せてはいけない常識を思い出して慌てふためく。


「クレア。替えの服、作ってやれよ」


 その頃のイミトは、首が痛かった。他の誰かに非難される前に捩じり切れるのではないかと思える程に首を捩じり、デュエラから目線を逸らしつつ、痛みに耐えながらクレアへ救護措置を求めて。


「ちっ! しようもないボケどもめ!」


 これからの緊張感から一転、気が抜ける混迷に変わった状況と尚も薫るイミトの悪臭に悪態を吐き、クレアはセティスの掲げるマントの裏に隠れたデュエラの頭上に黒い魔力の渦を作り出す。


「??」


 ポロリと空から落ちるデュエラの新たな衣服、デュエラはセティスのマントから顔を覗かせてキョトンと呆けるばかりであった。


 そして、茶番の如き展開の終わり——


「あの……皆様、そろそろ始めるので御座いますか?」


 それを確認したマリルデュアンジェ姫が、遠慮がちにクレア達へと話を掛ける。不安げな顔色、傍らにカトレアの姿が居ない事を彼女は一度、改めて確認してイミトの顔色をも伺う。


「ああ。そろそろ魔石の魔物を結界で抑えるのも限界だろうから」


 するとデュエラが衣服を急いで身に纏う気配を確認したイミトがマリルデュアンジェ姫の問いに応えた。首を元に戻す途中でチラリと横目に映したのは、平原の少し離れた位置にある黒い囲い。


 その中には、カトレアが自らの剣と語らうような佇まいが一つ。覚悟を整える様子に、イミトはその時、ただ息を吐いて。


「手早く終わらせるぞ、我もそう長く、このニオイに耐えられそうに無いのでな」

 「ああ……そうだな」


 そこに聞こえるは、不快を音に込めるクレアの言葉。嫌味が一つあったものの、イミトはそれに意趣返しすることも無く頷き、静かに瞳を閉じる。


 クレアの頭部を脇腹に納め、その身に鎧を構築しながら歩き出すデュラハンの肢体を、この瞬間——誰が動かしているか知る者は彼ら以外居なかったが、彼らが何処に向かうかを場の誰もが知っていた。


「……あの! カトレアの事、どうか……よろしく御願い致します」


 無論、その意味も。故にマリルデュアンジェ姫は祈るように手を胸の前で組み、溢れる涙を抑えるべく瞼を閉じる。


「——デュエラ、セティス。姫様の事を頼むな。それから」


 イミトはマリルデュアンジェ姫には振り返らなかった。保証できぬ願いに神が振り返らないのと同じく。しかし、デュエラとセティス両名に振り返り、


「そこにある下味付けている際中の食材の方は死んでも守れ、絶対に動かすなよ」


「はい、なのですイミト様!」

「姫よりも食材。酷い人」


 厨房に向けて指を指して指示を出す様は明瞭なイミトなのであった。


 ——。

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