終章 淀屋は滅びず

              終章 淀屋は滅びず


 同じ宝永二年の秋のことである。

 淀屋五代目にして「闕所追放」の憂き目にあった岡本広当は、下村个庵と名を変えて、元手代の勘七とともに山城八幡の草庵に隠棲していた。ただしここでは下村个庵という名前ではなく、岡本広当のままで物語を続けることにしたい。

 その草庵に向かって伸びている畦道を山伏姿の男が歩いていた。

 日ごろは山野に起き臥しする身だとはいえ、その男の身体は尋常ではないくらいの垢と埃にまみれており、着けている装束は上から下までまるでぼろ雑巾のようだった。八幡の里にはいまを盛りと女郎花が咲き乱れている。その黄色い花の群生を見つめながら、男は目を細めてぽつりとつぶやいた。

 「まるで素月さまのようだ…」

 男はその女(素月・もと)に密かな想いを寄せていた。だが女は盟友の妻だったから、どうなるものでもなかった。それで男は旅の宿で抱いた一夜の愛人との間に生まれた娘にその女と同じ名前をつけた。「もと」である。いま思えばまことにひどいことをしたものだと思う。当の一夜の愛人ばかりか誰から見ても人でなしの所業だと言わねばならない。だがそれもこれもすでに遠い昔のことになる。 

 そのころ勘七は草庵の中で拭き掃除をしていた。

 汚れてしまった手桶の水を芋畑に捨てようと庭先へ出かかった。すると門口に大きな男がのそりと立っている。思わず正面からぶつかりそうになって、勘七はその場にたたらを踏んだ。反動で汚水が手桶の中から溢れ出て足もとを濡らしたので、強く非難するような目つきになってその大男を見あげた。

 しかし見あげたその目はたちまち涙でぼやけてしまった。

 「これは・・。仁右衛門さまではありませんか…」

 息を呑んだ勘七はそう相手に問いかけるのが精一杯だった。

 「長らく苦労をかけたな、勘七…」

 すぐに駆け寄ってひしと勘七の肩を抱いた牧田仁右衛門がそう応えた。

 「滅相もございません。大坂を出てからというもの、いつか必ず私たちを探し当てていただけるものと、一日千秋の思いでおいでになる日を待ち焦がれておりました」

 「遅くなって済まない。して広当さまはお達者か」

 「それはもう…」

 懸命に気を取り直した勘七は手桶を足元へおろしながらそう応えた。

 仁右衛門の山伏姿が、ぼやけた勘七の脳裏に、波瑠を支えながら歩んだ戸倉峠の雪道を、早春の日本海に浮かんだ廻船を、霞に煙った東条湖を、そしてなつかしい波瑠の姿を次々によみがえらせた。

 「もし、旦那さま。広当さま。大変でございますよ」

 そしてその場でいきなり踵を返すと、勘七は草庵の中へ駈け込みながら、庭で遊んでいる鶏が驚いて跳びはねるほどの声で叫んでいた。

 同じとき、広当は自室で書見をしていた。

 ところが門口の辺りが妙に騒がしい。やがて自分の名を呼ぶ勘七の叫び声が聞こえてきた。それで広当はしかたなく目を通していた書物を横に置くと文机の前から離れた。そして玄関の式台のあたりまで出てくると、うんざりしたような声で答えた。

 「いったいどないしたというんや勘七、そないに慌てふためいて。また山から猪が出てきて芋畑でも食い荒らしていったんか」

 「いえ、そうではありません。ただいま門口に…」

 勘七はそこまで言っただけであとは門口のほうを指さした。

 「門口に? ははあ、珍しい客人でも見えたんやな。どなたはんかは知らんけど、お前のその慌てぶりから察すると、あんまり歓迎できる筋の人ではなさそうやな」

 広当はものぐさそうにそう呟くと、書見で疲れた目をすぼめて門口のほうを透かし見た。そこには背後から秋の白い日ざしを浴びて大きな男が突っ立っている。それはまるで四天王寺の仁王さまのようだった。 

 「これは、仁右衛門どのでは…」

 そう呻くように言っただけで広当はその場に崩れ落ちた。

 すると仁右衛門は持っていた錫杖を庭先へ放り投げると、素早く式台のそばへ駈けよって広当の手を取った。汚れたごつい手と長い指の華奢な手がお互いの体温と気持を伝え合う。重ね合わせた手の上に涙が落ちかかった。

 広当は泣いていた。だがそれは勘七が流した涙とはまた異種のものだっただろう。  

 勘七はそんな二人をしばらく心配そうに見やっていたが、目覚めたように足元の手桶を門口に放り出すと、せわしく草庵の内外を走り回った。まずは裏庭へ走り出るや柴と薪を運んできて風呂の火を焚きつけた。風呂が沸きあがるのを待つあいだに、七輪に炭火を熾して目刺しを焼き上げ、さらに鉄瓶で白湯を沸かせた。そのあとは納戸へ駈け入ると、お櫃の蓋をあけて残っているご飯の量を確かめてから、香の物を俎板で切り刻んで湯漬けの準備をした。

 いっぽう、ようやく冷静さを取り戻した広当は、それまで書見をしていた自室へ仁右衛門を招き入れた。だが祖母の妙恵から深窓で猫可愛いがりに育てられ、世知にはまったく疎かった広当には、こういう場合、どのように客人をもてなせばよいのかまるで見当がつかない。それまで自分が使っていた一枚きりの座布団を頻りに勧めてみたり、ちらかった書物や書き物をあたふたと片づけたり、用もないのに勘七がいる納戸のほうを覗きにきたりと、終始落ち着かない様子である。かたや広当の部屋へ入った仁右衛門は、まず負い函を背中から降ろしたあと、襤褸のようになった手甲と脚絆を外しにかかっている。すると畳の上にぱらぱらと砂粒がこぼれ出て、脚絆にくっついていた草の実が音もなく剥がれ落ちた。

 湯漬けの膳部を運んできた勘七がそれを見て言った。

 「仁右衛門さま。着替えのほうは風呂から上がってからになさいませ。そのほうがずいぶんとさっぱりいたしますよ」

 「いや、こんな装りのままではくっつき虫だけでなく蚤や虱までもが飛び出るでな。この家に住み着きでもすれば大ごとじゃ」

 仁右衛門が苦笑してそう応えると、広当がすかさず言い添えた。

 「いやいや、勘七の言う通りですよ。むさ苦しい男所帯にそのような気がねは無用です。それよりまずは熱いうちに湯漬けでも召し上がってください。そのうち風呂のほうも焚きあがりましょうから」

 「ではそうさせてもらうか」

 仁右衛門は二人の勧めに従って、湯漬けを旨そうに二杯食ったあと、勘七に導かれるまま風呂へ入った。糸瓜や糠袋を使って身体中にこびりついた垢を落とし、伸び放題だった無精髭も剃刀で丹念に剃り上げた。そして広当が用意してくれた洗い張りの着物を身につけると、いかにもさっぱりとしたという顔で部屋へ戻ってきた。

 「これはこれは先ほどより十歳は若返られましたよ。それに広当さまのお召し物がよく似合っておられます」

 その姿を見た勘七がすかさずそう声をかけると、

 「これ、勘七。こんな年寄りをからかうものではない」

 と仁右衛門は長いざんばら髪を掻きあげながらしきりに照れた。

 「いや、私もそう思いますよ。父の享年などとっくに過ぎておられるというのに、仁右衛門どのにはいまだ壮年の覇気が感じられます」

 大きく頷いた広当は心からそう思って言った。

 二人とも大柄な体躯だから着物の寸法はぴったり合っている。だから若向きの色と柄さえも、いまや老境にある仁右衛門をかえって引き立てていた。

 「広当さままでがそんなご冗談を」

 続けさまの誉め言葉に仁右衛門はやれやれと溜め息をついた。

 「決して冗談など申しておりません。その伸び切った髪を切られたらもっとお若く見えましょう。勘七、明日にでもざんばら髪を切り揃えたうえ、髷を結ってさしあげておくれ」

 「はい。手前もそのつもりでおりました」

 ひとときの和やかな時間が流れた。めっきり短くなった秋の日が草庵の軒先から後退しつつある。勘七が淹れ直した茶が冷えた外気に会って白い湯気を立てている。

 そのとき、いきなり仁右衛門が畳の上に手をついた。そしてひさびさに耳にする独特の野太い声に戻って言った。

 広当さま。倉吉へ出張るなどと皆を欺いて勝手に江戸へ下りましたばかりか、本来ならお店の危急に際してただちに大坂へ立ち戻るべきところ、闕所追放となりました際には何ひとつお力添えもできませんでした。このことに関しましては、この仁右衛門、幾重にもお詫び申し上げます。きつくお叱りを賜りますよう」

 のんびりと茶を喫していた広当は吃驚して居ずまいを正した。

 「何を言われますのや。私が阿呆なばっかりに二人の異見も聞き入れず、挙げ句、こういう情けない結果を招いてしまいました。謝らんと、いや叱られんとあかんのは私のほうです。ですからお願いです。どうかその手を上げてください」

 広当がそう言うと、素早く傍へにじり寄った勘七が主人に代わってその手を取った。仁右衛門はおとなしくそれに従った。

 「有り難うございます…」

 壮年期に比べるとかなり肉付きが落ちたとはいえ、相変わらず分厚い胸板をいつものように反らせると、仁右衛門はこの四ヶ月を振り返りつつ話しはじめた。

 「…まことに僭越な判断ではございましたが、あのとき江戸にあった私は、これから急ぎ大坂へ立ち戻っても間に合わない、と判断致しました。そこで手下の千次や金太たちの身柄を自由にしてやったあと、護持院の隆光さまが江戸城内より下がられるのをお待ちして、その後の淀屋の行く末をご相談したのです。するとこの件に関して何ひとつご存知でなかった隆光さまは、このような事態を招いてしまったのでは泉下の重当どのに対して顔向けができない、せめてもの罪滅ぼしにこれからは少しでも広当どののお役に立ちたい、と涙ながらに約束してくださいました」

 「大僧正さまがそんな有り難いお言葉を…」

 感にたえないという表情で広当は言った。

 「はい。確かにそのように申されました。私はその言葉に勇気づけられて江戸を離れ、中山道から北陸路、また山陰路を経て伯州倉吉に立ち寄ってきたのです。というのも先に大坂へ帰した千次から、倉吉の店は無事だ、という報せが入っていたからです。そして一刻も早く広当さまを多田屋へお迎えできる準備を整えるようにと、孫三郎を督励してまいったという次第です」

 「そうだったのですか。それで倉吉はいかがでございました」

 勘七はまたもや波瑠の顔を思い浮かべながらそう訊ねた。

 孫三郎が用意した別宅の裏手を流れていた天神川のせせらぎの音は、いまもなおこの耳の奥にはっきり残っている。だが一朝のうちにして石もて大坂を追われることになり、大和竜田から山城八幡へと慌しく流れてきた身には、倉吉の店のその後など知るすべもなかったのだ。

 「むろん彼の地にも淀屋闕所の報せは早々と伝わっていた。孫三郎たちもずいぶん動揺もし、心配もしたようだ。いつ公儀の手がここまで伸びてくるか、と気が気でなかったと身震いしておったわ」

 「それはそうでしょうとも。あれだけの厳しい処断を下しておきながら、その後の詮索や追及となるとこれほど手ぬるいとは手前にも予想の外に思われましたから」

 「公儀はひたすら淀屋橋本家を取り潰すことだけに腐心したのだ。つまり淀屋という鯛の大骨を取り除いたら、小骨などには目もくれなかった。いかにも小役人どもがやりそうなことだ」

 「取り除きそこねたその小骨が、いずれおのれの喉元へ突き刺さる日がくるのだということを、やつらへ存分に思い知らせてやらねば、こちらの気が済みません」

 「よく言った。その通りだよ、勘七。倉吉の多田屋をまずはその小骨に育て上げて反攻に転ずるのだ。広当さま、大坂を離れて僻遠の地へ落ちのびられるのはさぞやお辛いことだとはお察しいたします。なれどそれは暫時のご辛抱でございます。多田屋は千把扱きの商いでかなりの財力を既に蓄えており、いずれは大坂へ本拠を移さんものと抜かりなくその準備もしてまいりました。広当さまの追放刑さえ解かれれば帰坂とてもただちにかないましょう」

 二人の思いは同じだった。だが意外にも広当の答えは違っていた。

 「口惜しい思いは私も二人と同じです。いつか公儀を見返してやりたいとも思っています。ですが私は倉吉へはまいりません」

 「えっ。それはまたなぜ…」

 湯呑み茶碗を取り落としそうになって勘七が訊いた。

 「多田屋はすでに牧田家のお店です。仁右衛門どのは一緒にお聞きになっていますが、父の重当が遺言でそのように言い置いたのです。ですからその倉吉へ行くつもりなど私には端からありません」

 「ですがそれは本家が無事ならばの話…」

 あわてて仁右衛門が反論しようとすると、

 「しかし父から数々の遺言とともに託されたその本家は、誰あろうこの愚か者の私自身が潰してしまったのです」

 と広当は仁右衛門の言葉を制して悲しげに答えた。

 「いや、いや。このように突然で予想外の厳しい事態はきっと先代が御存命でも避けられませんでした。またその先代から後事を託された私の力が足りなかったのでございます。決して広当さまの責任ではありません」

 「どこまでもそう言って私を気遣ってくれる二人の気持はとてもありがたいのですが、その種の慰めはもういりません。それよりも私は肝心の淀屋本家の再興を目指して努力していくつもりでいます」 

 「えっ、本家の再興ですって…」

 またもや意外な答えに接して勘七は目を剥いて驚いた。

 「そうです。赤穂の大石(内蔵助良雄)さまが、はじめはあくまで藩主ご舎弟による浅野家の再興を目指されたように、私も淀屋の再興にはかない望みをかけてみようと思っています。それこそが放蕩三昧で商売を顧みず、店の者たちを路頭に迷わした愚かな私に課せられた罰であり、せめてもの罪滅ぼしだと考えるからです。とはいえこんな大それた望みは恐らく叶わないでしょう。そのときはどうか、倉吉の多田屋が隠れ淀屋になって、私や店の者たちの仇をとってもらいとうおます」

 ゆっくりと、だがきっぱりとした口調で広当は言った。

 激しやすい性向で人より何倍も癇症の強かった広当だとは、とても思えないほどの変わりようだった。 

 「なるほど、よくそこに気づかれましたな。実を申せば江戸の隆光さまも広当さまと同じお考えでございました」

 「えっ、それはまことですか」

 「はい。今後は広当さまのお力になりたいと言われた隆光さまは続けてこのように言われました。お前たちは倉吉に拠って淀屋の再起をはかるのだ、拙僧は江戸にあって公儀の恩赦をうるべく渾身の努力をするであろう、と」

 仁右衛門の話を聞いて広当はふつふつと希望が湧いてくるのを感じた。

 開け放った障子の外には稲刈り前の水田が広がっていた。まだ少しばかり青みを残した稲の葉が風にそよぎ、重さを増した穂が頭を垂れている。畦道では羽虫を追う雀の子が軽やかに跳ねていた。

 そんなのどかな田園風景を眺めながら広当は言った。

 「事件の騒がしさも幾分か収まりましたし、こうして仁右衛門どのにお会いすることもできました。もはや上方にいる必要はありません。私はこれから江戸へ下ろうと思います。そして米津出羽守の屋敷へ世話になりながら、公儀に対し淀屋再興の嘆願を続けていくつもりです。闕所追放いらい何度かの書面のやりとりで、米津家とはすでにその話し合いはついているのです」

 田盛が大坂城番を勤めた米津家は重当の先妻、日円(えん)の実家にあたる。後妻であり広当の母である素月(もと)の実家ではないのだから、おそらく広当は肩身の狭い思いをすることになるだろうが、彼が江戸で頼れる縁戚となると恐らくそこしか無かったのだろう。ただ米津家は悲運に見舞われた広当に深く同情して、そういう関係を超えた協力を申し出てくれているのだという。

 「もうそこまで手を打っておられましたか。江戸ではその米津家に加えて隆光大僧正さまのお力添えがあります。またいまも変わらず淀屋に恩義を感じていたり、密かに朝廷に通じているお大名がたも多くおられます。あながちこれははかない望みとは言えぬかも知れませんぞ」

 仁右衛門がそう言い終わるや、勘七が膝を進めて申し出た。

 「そういうことならば江戸へは手前がお供いたします。仁右衛門さまは倉吉で孫三郎さんが首を長くしてお帰りをお待ちですが、広当さまは米津家の皆さまがおられるとはいえ、たった一人の江戸でお寂しい思いをなされましょうから」

 そう言って語気を強めた勘七の勢いに気圧されたわけではないだろうが、まるでその言葉尻を追いかけるように草庵の外で激しい鳥の羽音が立った。同時に、それまで畦道を伝いながら長閑に草の実を啄んでいた無数の雀の子が狂ったように四方へ飛び去った。というのも大きな鳶がさっと日を翳らせて大空から舞い降りてきたからである。鳶は溝川に棲息している蛙でも狙ったのだろう。だが急降下してきた鳶は逆に雀の子の狂乱に惑わされたのか、溝川の獲物を捕らえることもなく地上すれすれで空しく弧を描くと、ふたたび空の彼方へと飛び去っていった。 

 その一部始終を凝っと見守っていた広当は勘七に視線を戻して言った。

 「ありがとう、勘七。そやけどお前にはお前の将来がある。つい好意に甘えてここまでついてきてもろうたが、淀屋に縛られ通しの生き方はもうこのへんで終わりにしてほしい。残された時間は少ない。これからは自分のために生きておくれ」

 「そんな…。手前にはとても納得がいきません。ならば仁右衛門さまはどのようにお考えかご意見をお聞かせください」

 困り果てた勘七はすがる思いで仁右衛門に助けを求めた。だがその答えも彼の期待に反するものだった。

 「私も広当さまと同じ考えだ。お前はすでに四十歳を過ぎている。この先まだ何年かかるか分からない淀屋の戦いに加わり続けるのはいかにも厳しい。だからな勘七、こうしてはどうだろう。お前は隆光さまとは縁戚の間柄で親しいが、広当さまはあいにく隆光さまとまだ面識すらない。だからお前はとりあえず江戸までお供をして、お二人のあいだを取り持つ役目を果たすのだ。その役目を終えてからじっくり自分の身の振りかたを考えればよかろう」

 言われてみればその通りだった。広当の身の回りの世話をすると言っても、あと十年もすれば自分の足腰は弱ってしまうし、病の一つも抱え込んでしまうことだってありうる。そうなれば世話をするどころか逆に広当の足を引っ張ることにもなりかねないのだ。勘七は拳で涙を拭いながら渋々承諾した。

 「よく分かりました。ではお二人のご意見に従います。ですが手前からお二人に一つだけお願いがあります。どうかどちらかのお手で必ず淀屋を再興してくださいまし。またそういう日がまいりましたなら、たとえこの身が冥界にありましょうとも、きっと駈けつけてまいりますから」

 「分かった。約束しよう」

 そう言って仁右衛門が勘七の手を取ると、広当もその上に熱い手を重ねた。

 重ねた手とともに三人の心が初めて一つになった。しかしそれは余りにも遅過ぎた心と心の通い合いだったといえる。だからそれは三人にとって最初で最後の手重ねになってしまった。

 それから四日後に牧田仁右衛門は倉吉へ帰っていった。

 またさらにその二日後には岡本広当と勘七が江戸へと旅立った。

 そして約束通りに広当と隆光栄春のあいだを取り持った勘七は、しばらくは江戸に留まって主人を蔭ながら見守っていたが、間もなくいずこへともなく姿を消した。勘七のその後の消息は不明である。

 運命的な出会いをした淀屋重当と牧田仁右衛門は、生涯を通じて日と影の関係であり続けたことで、公儀の謀略や横暴を阻止することに成功した。ところが、たまたま同じ屋根の下で暮らした広当と勘七は、ついに最後までそういう関係にはなりえなかった。いや勘七のほうは仁右衛門に倣ってつねに影となって広当に付き従おうと努力したのだが、広当のほうがとうとう父のような日輪にはなりきれなかったのだと言うことができるだろう。

 公儀はその隙を突き、淀屋は潰えたのである。

 余談ながらその後、彦六、与兵衛、富川らは捕らえられて島送りになった。東西の奉行としては、ならず者や不逞浪人を二股間諜に仕立てるという汚い手を使った痕跡を、確実に消しておく必要があった。だから市中のどぶ浚いという名目で三人を捕らえて、その口を封じたのである。彼らはもともと脛に傷をもつ前歴者であり小悪党だった。罪咎などいかようにでもつけられる。 

 むろん斎藤町家の安左右衛門にも苛酷な運命が待っていた。

 安左右衛門は島送りなどの口封じにこそ遭わなかったものの、事件のあとは世間から白い眼で見られ続けた。奉行たちは知らんぷりを決め込んでいる。もちろん、淀屋本家を潰せばあとはお前にくれてやろう、などといった口約束も果たされなかった。腹は立つけれども、騒ぎ立てれば抜け荷の古傷を持ち出されて、ひどい目に遭うだけだ。つまり安左右衛門には本家を裏切った恩知らず者という烙印と、天王寺屋を騙して二千両を借り受けたという悪評だけが残ったのである。義父である斎藤町家の常隆から、養子縁組の解消と、ともとの離縁を言い渡されて、着の身着のままで追い出されたのは言うまでもない。そして安左右衛門はその三年後に、原因不明のまま急逝してしまうのである。


 明くる宝永三年(一七〇六年)、柳沢美濃守吉保はついに大老まで上りつめる。

 だが皮肉なものでその権力は頂点に達したところで早くも翳りを見せはじめていた。それは間部越前守詮房が急速に力をつけてきたからである。

 貨幣の改鋳はなおも続けられていた。改悪の権化といわれた「宝永通宝」が企図されて、庶民からの猛反発にあって中止へと追い込まれたのもこの頃である。物価の騰貴も相変わらずだった。

 加えて天変地妖がすさまじかった。

 富士山の大噴火が起こって関東一円に広範な被害をもたらし、新山(宝永山)を生んだ。続いて浅間山が噴火して全国では大地震が頻発した。たとえば大坂では民家一万六百戸が倒壊して、三千人の死者を出した。暴風雨、洪水、大火などは引きもきらず、そのうえ疱瘡が大流行して多くの病死者を生み、さらには巷間に流言飛語が闊歩して人心を不安に陥れた。

 こうして宝永六年(一七〇九年)の年の始め、将軍綱吉が天の声に促されるように麻疹に罹って死去すると、代わって家宣が六代将軍となる。続いてその六月には、綱吉という後ろ盾を失った柳沢吉保が退隠を余儀なくされて退くと、間部詮房と新井君美(白石)の時代へと移行することになるのだ。

 さらに三年後の正徳二年(一七一二年)には、勘定奉行だった荻原重秀が罷免される。御用商人から多額の賄賂を受け取っていたという嫌疑によるもので、荻原重秀と深く結びついていたとされる京の中村内蔵助は淀屋と同じように闕所追放となり、紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門といった豪商も没落していくことになる。

 ただ中村内蔵助は賄賂という明白な罪による処断だったが、同じ闕所追放でも「驕奢僭上」という曖昧な罪で断罪を受けた淀屋事件は、その曖昧さのゆえにかえって商人たちを震え上がらせたと言えよう。またそれは御用商人であることの限界をも教えてくれた。だからこの事件を他山の石と捉えた住友、三井、鴻池などの新興勢力は、以後、家訓や家憲を厳しく遵奉して内部の結束をはかり、公権力の介入を許さない自立的な商業組織を作り上げることになる。その点でも淀屋事件は近世商業史における転回点になったと言えるのである。

 このように権力者たちが交替し、時代が推移していく中で、淀屋の戦いはなおも続けられていた。

 岡本広当は虎ノ門にある米津家に逗留して、幕府へ淀屋の再興を訴え続けた。再興が叶わぬのならせめて財産の一部を返して欲しいと願い出た。隆光大僧正や朝廷の意を受けた有力者たちが後押しをしてくれた。それでも嘆願の一部すらなかなか通らなかった。たとえば家宣の将軍宣下にあたっては大赦が行なわれている。このときは流人や入牢者が対象だったのだが、追放刑に服している広当にもその権利があったはずである。だがそうはならなかった。綱吉という後ろ盾を喪った隆光大僧正の権力もまた、柳沢吉保と同じように急速に衰えていたのである。

 その事実を示すように、隆光栄春はやがて新政権から退隠を命じられて、大和国の超昇寺へ帰ることになる。隆光が書いた『護持院日記』によれば、別れを惜しんだ広当は大和へ帰る隆光の長い行列に従って品川宿の外れまで送っていった、という記録が残っている。権力の常とはいえこれは広当にとって大きな痛手だった。

 幕府から岡本広当へようやく没収財産の一部が返されたのは、事件から十年以上も経った正徳六年(一七一六年)のことである。この年、日光東照宮の創建百年を祝う大祭があり、それにともなう大赦があったのだ。ただこのときに還された財産はわずかに山城八幡の田地山林と知行地だけである。淀屋岡本家は皮肉にも東照宮が創建された百年前の姿へ戻ったに過ぎなかった。

 この結末に落胆したのだろう、淀屋の最後の当主となった岡本三郎右衛門広当(下村个庵・通称辰五郎)は、まだ三十五歳の若さにもかかわらず、大祭による大赦直後の享保二年(一七一七年)十二月二十一日、山城八幡の草庵においてひっそりとその生涯を閉じる。

 法名は潜龍軒咄哉个庵居士。

 遺体は淀屋菩提寺の大坂谷町大仙寺ではなく、山城八幡は糸杉山にある神応寺に葬られた。そこには岡本家へ泥を塗ったことによる先祖代々に対しての広当の意地と遠慮が感じられて非常に興味深い。

 では、伯州倉吉へ向かった牧田仁右衛門はその後どうなったか。

 倉吉淀屋(多田屋のこと・また淀屋橋家淀屋を前期淀屋とするのに対して牧田家淀屋は後期淀屋、隠れ淀屋と呼ぶことがある)の発展を支えたのは言うまでもなく「鉄製の稲扱き千刃」である。他にも米・和紙・木綿など地元の産品も商って、倉吉淀屋は急速に大きくなっていった。その礎をつくった仁右衛門は言うまでもないが、養子の孫三郎季昌、その子の五郎右衛門寿弘と、三代にわたっての優れた当主がこれを確かなものにした。

 その倉吉淀屋は早くも淀屋事件が起きた数年後には、多田屋治良右衛門と名を変えた孫三郎が大坂へ進出して、淀屋の跡地に店舗を構えるという離れ業をやってのけている。もちろん背後で糸を引いていたのは仁右衛門である。このときの多田屋があえて淀屋を名乗らなかった理由は、事件のあとまだ年月が経っていないことでもあり、むやみに公儀を刺激するという愚を避けたからだ。またそれ以上に残された淀屋の分家に対する遠慮があった。 

 しかし淀屋の分家は次々に零落していく。そうなるともはや気がねなどいらない。倉吉淀屋はついに四代目の五郎右衛門善与に至って淀屋橋で別家を興すことになる。そして善与は、今度こそはっきりと「淀屋清兵衛」を名乗って、かつての本拠地へ堂々の復帰を果たすのである。また牧田家の世襲名となっている「五郎右衛門」は、善右衛門、三郎右衛門という名とともに、実は淀屋ゆかりの名前だった。これもまた痛快事だと言えるだろう。

 こうして淀屋はもののみごとに甦ったのである。

 淀屋はその後、明治維新を迎えるまでの百五十年間を、さらに生き抜くことになる。そして天皇親政を打ち出した明治維新に臨むや、その全財産をあっさり朝廷へ献上して、歴史の舞台から静かに消えていく。尊皇の家訓は重当から仁右衛門へ、岡本家から牧田家へ、確実に受け継がれていたのである。つまり幕府があのとき取り除き

損ねてしまった「小骨」が、何と百六十年という気の遠くなるような時空をこえて、もののみごとに幕府の喉元を刺し貫いたことになる。忠義と精勤に生きた手代勘七の願いもこうして叶えられた。

 牧田仁右衛門は、広当の訃報に接してから三年後の享保五年(一七二〇年)四月二十一日に、当時としては驚異的な八十四歳という長寿を全うして大往生を遂げる。

 その法名は、到誉浄利迎西信士。

 牧田家の菩提寺である倉吉の大蓮寺に静かに眠っている。

                               〈 了 〉


(参考文献)  

宮本又次監修  「大阪経済史料集成」 同氏著書「豪商」

横山三郎発行  「船場通信」   

吉川弘文館発行 「国史大辞典」

新山通江著   「鴻鵠の系譜」 「鴻鵠の系譜(続)」 「淀屋考千夜一夜」

佐伯順子著   「遊女の文化史」  

中野栄三著   「廓の生活」

肥後和男他著  「歴代天皇紀」                  (順不同)

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日と影とー大坂淀屋闕所始末 歌垣丈太郎 @jo-taro

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