#0051 桜家にご招待 (3)【栞視点】
「――はい」
葵は静かに、けれどゆるぎなく母さんに告げた。
「
「そう、あなたが……」
吉川先生ってたしか、母さんが昔習っていたピアノの先生だったはず。
葵もその先生の生徒だったってこと……?
なんていう偶然だろう。
ボクと綾はともに驚いていた。
「里香さんも、先生に習っていたんですよね」
「知ってたの」
「はい。……部屋を整理していた時、偶然これが」
葵はそう言って、壁の本棚から一冊の古い冊子のようなものを取って里香さんに渡す。
ボクもそれが何か、横からのぞき込む。
――第〇〇回 吉川社子ピアノ教室 発表会
パンフレットのような薄い冊子の表紙にはこう書いてあった。
葵が中を開いて見せると、中ほどに粕谷里香――母さんの名前があった。
「懐かしいわ。こんなのよく残ってたわねぇ……」
「この時のだと思うんですけど、こんな写真も挟まってたんです」
そう言って葵は今度は半透明なスリーブに入った写真を差し出してくる。
カラフルなドレスに身を包んだ子たちがステージのひな壇に勢ぞろいして映ってる集合写真だ。
会場はボクも良く知るオホリホールのステージ。
そしていちばん前の真ん中にうつってるおばあさんが吉川先生なんだろう。
「ココに映ってるのが、里香さんですよね」
「ちょっとやだ、一体何年前の写真を見せてくるのよ」
吉川先生の左上にボクと同い年くらいの女の子が、むすっとした表情で立っていた。
顔立ちが幼い母さんその人だった。
いや、それよりも……
「……母さん、なんだよね。一瞬、麗かと」
「わたしも同じこと思ってた。麗がお母さん似っていうのは本当だったんだ」
「そんなに似てるの?」
「うん。髪型とか目の感じとかがすごく似てる。メガネだけかけてないんだけど……」
たしかに、写真に映っているのは若い母さんだ。
けれど麗の面影とすごく重なって見えた。
綾は、腰まである髪とか切れ長の目元とかに着目してるけど……ボクはそういう細部じゃなくて、全体的にまとってる雰囲気が麗のものと同じなんだと思った。
部屋から出てこられない麗の、ふとしたときに見せる張りつめたような悲しみというか、周囲に怯えているようなイメージが、母さんの表情とリンクしているような気がしたんだ……
そして、もうひとつ分からないことがあった。
「……どうして葵くんは、昔のお母さんの写真とかプログラムを持ってるの?」
先に訊いたのは綾だった。
どうしてこんなものが葵の家にあるのだろう。
葵は落ち着いた手つきで写真を本棚に戻しながら答えた。
「これは……というか、この部屋にあるものはほぼ全部、吉川先生に譲ってもらったものなんだ」
「……このグランドピアノ、吉川先生の家にあったものよ」
「えっ……」
「それに、この古いソファーも机も全部、吉川先生のレッスン室そのものじゃない。一目見てすぐ分かったわ」
室内を彩っているアンティークな調度品に、感慨深そうに目を向ける母さん。
母さんの言うことが一瞬分からなかった。
呆気にとられていると、葵はボクに説明してくれた。
「ねえ栞。おれと栞が再会した"顔合わせ会"の時、おれがピアノを習ってた先生が亡くなったって話したの、覚えてる?」
「あ……」
たしか、それを機に葵はピアノを習うのをやめてしまったと言っていた……
「……うん。おぼえてるよ」
その時は想像もしていなかったけど、その先生が母さんも習ってた吉川先生だったということだ。
「4年前……吉川先生が亡くなった時、もう80歳を超えていて、生徒はおれひとりしかいなかったんだ。……先生はそのずっと前からガンだったんだ」
「……」
「栞と出会ったコンクールが終わってから、おれは病室にお見舞いに行ったんだ。吉川先生はまるでいつものレッスンみたいに平然としていたんだけど、そのあとすぐ亡くなって……遺族の人が、吉川先生はおれのことを最後まで教えられなかったことがとても心残りだったって教えてくれたんだ。それで、自分がいなくなった後の勉強に役立ててほしいといって、ずっとレッスンで使ってた楽譜とか本とかCDをおれに譲るよう遺言していたんだ。そのうえ遺族の人も、自分たちの中にはだれもピアノを弾く人はいないから、このピアノも役立てることができる生徒さんに譲りたい……って言ってくれたんだ。それで、こんなふうに」
葵はその譲り受けたピアノの蓋にそっと手を触れながら、悲しそうな表情だった。
4年前……ボクが葵に救われたあのコンクールのすぐ後、葵にそんなことがあったなんて。
なにより、結局そのあと葵はピアノを習い続けるのを断念しちゃったんだよね……
ボクは胸がますます痛んだ。
「……私ね、ちょうどその頃仕事がとても忙しくて、吉川先生のお葬式にはいけなかったの。それでも、昔とてもお世話になった人だし、思い出もたくさんあったから、せめてお線香を上げさせてもらおうと先生のお家に伺ったわ」
母さんは複雑そうな表情で口を開いた。
「それで、あわよくば昔習ってたピアノを久しぶりに弾かせてもらおうって思ってたんだけど、レッスン部屋がからっぽになってるんだもの。話を聞いてみると、吉川先生に習ってた現役の生徒さんがひとりだけいらして、全部譲ったっていうんだから驚いたわ。その時はそれが何処の誰かなんて分からなったけど……正直羨ましかった。私だって吉川先生を慕っていたし、いまも音楽の仕事をしてるのに」
「……もしかして母さん、葵に怒ってる?」
「怒っては無いけど、一言言いたい気持ちはあるわ。そんなふうに吉川先生の想いを引き受けておいて、なんで簡単にやめちゃうのよ。ほかの先生のもとに移って続ける道だってあったはずよ。少なくとも4年前、例のコンクールで栞をさしおいて優勝したのだから、素質だってあったのに」
母さんにそう問われた時。
――葵はいちばん悲しい顔をしていた。
母さんの言葉は、葵にとって責められるような言葉だったのかもしれない。
唇をほんのすこし噛みながら視線を落として、言葉を探しているように見えた。
その表情の理由は、すぐに分かった。
「――実は、吉川先生が亡くなったすぐあとに、おれのばあちゃんも死んじゃったんです」
葵が教えてくれた過去は、ボクたちが誰も想像してなかったものだった。
「この部屋、もともとはばあちゃんの部屋だったんです。吉川先生はずっと入院してたんですけど、ばあちゃんは本当に突然で……」
……葵はこの家に来てから何度か、お
今、葵がお父さんと2人暮らしということは、どこかのタイミングで悲しいお別れがあったということだった。
けど、そんないっぺんに不幸が重なってしまうなんて。
その時の葵のことを、葵は力のない声で教えてくれた。
「おれと父さんのふたり暮らしになって、……父さんは研究所の仕事でいつも忙しいから、それまでばあちゃんがしてくれていた家のことをおれがしなきゃいけなくなったんです。料理とか掃除のやり方とか、家計のこととかも、最初はおれひとりだと全然わからなくて……」
「葵……」
「今はだいぶ慣れました。けれどあの頃は、おれひとりで何とかするためにとにかく必死で……それ以上に、それまでずっとそばにいてくれた人が、もうどこにも居ないんだって考えてしまうと、悲しい以上にとても虚しい気持ちになってしまって」
葵は窓の外を見るように視線を切って、涙声になっていた。
その感情が伝播してボクは金縛りにあったみたいになった。
「それでしばらくの間、どうしても鍵盤に向かうことができなかったんです」
「もうじゅぶんよ。……つらいことを言わせてしまって、すまなかったわ」
母さんが葵に謝ると、葵はボクたちのほうに顔をあげてくれた。
そこに涙はなかった。
「いいんです。もうあれから4年たって、自分なりに消化してますから。ただ、忘れたわけじゃないんです。……あの時を思い出して悲しい気持ちになることは、まだたまにあります。でもそれは、おれにとって必要なことなんです。ばあちゃんや吉川先生がおれにくれたモノを、あらためて確認することができるんです」
「……」
「なんか、また湿っぽい感じにしてしまいました。ね、気晴らしってわけじゃないですけど、何か弾きましょう。せっかく来てもらったんですから」
葵の深い気持ちがこもった言葉にボクは胸を打たれてしまって……そんなボクたちをよそに、葵はそそくさと椅子を引いてピアノの前に腰を下ろしたのだった。
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