恋は名目――⑥

 気がつけば、いつもわたしの周りには一人もいなかった。

 話すのが下手で、聞くのも下手。愛想笑いもできないし、勉強も運動も得意ではなかった。

 わたしには昔から、『友達』と呼べる存在がいなかった。

 それ自体を悲しいと思ったことはない。一人でいても本を読んでいればその世界に没頭できるから、寂しくもなかった。

 けど、世の中にはそんなわたしを良しとしない人もいる。

 たとえば小学校の担任。若い女の先生だった。あの人は口癖のように「みんなと友達になりなさい」と言った。

 窓辺で児童書を広げるわたしに、怒ったような口調で。

 友達? なれるものなら、わたしだってなりたい。一人は好きだけど、特別恋しいってわけではない。10分間の休み時間、どれだけ下手だったとしてもわたしだってドッジボールをしたい時だってあった。

 きっと「わたしもまぜて」と言えば、誰も拒否はしなかったと思う。それでもわたしは、その一言を言い出せなかった。

 怖かった。ないとは思っていても、1パーセントより低い確率だったとしても、「イヤだ」とはっきり言われることが。

 その恐怖と戦うくらいなら、自分の価値を突きつけられるくらいなら。わたしは一人でいたかった。

 問題がなければ、答えはない。「まぜて」と言わなければ、「イヤだ」と言われることもない。言葉にしなければ、伝えなければ、そこには可能性が残る。「イヤだ」と言われない、素敵な素敵な可能性が。

 わたしははっきりさせるのが怖かったのだ。だから曖昧にぼかして、問いを浮かべなかった。そうすれば答えが返ってくることもないから。シュレディンガーの猫と一緒だ。生きている可能性と死んでいる可能性がフィフティーフィフティー。その状態が心地よかった。

 わたしは無価値な人間ではないと、信じたかったから。

 だからそれを崩そうとしてくる先生が苦手だった。結局わたしは、一年間どれだけ何をいわれても、その先生の言うとおりにはせず、読んだ本だけが積み重なっていた。

 そうやって今までを過ごしていた。

 小学校を卒業して中学校に入っても、わたしは何一つ変わらなかった。

 否、変われなかった。

 深窓に溶け込むのが得意で、人付き合いが苦手で。みんなが部活を決めていく中、わたしは一度の体験入部に行くこともなく、帰宅部を身を固めた。

 誰よりも早く、学校から消えてしまいたかった。

 勉強ができなかったら先生に呼び出されることもあって、それが嫌だったから、その頃から少しずつ勉強もするようになって。

 時間だけは誰よりもあるから、そこそこの成績を取れるようになって。でも目立ちたくないから、わざと間違えて点数を普通くらいにしたりして。

 わたしはそうやって、逃げてきた。逃げ続けてきた。

 でも、このままじゃだめだってことは薄々わかっていた。社会に出てから最も必要なのはコミュニケーション能力らしい。だとすればわたしは、すでに立派な社会不適合者だ。そんな自分が嫌だったから、変わりたいと心の中では思っていたから、本気で勉強にのめり込んだ。

 その結果、偏差値の高い高校に入学できて。周りに知り合いもいないから、ここで新しい自分を始められると思っていた。

 が、甘かった。

 そもそもまともにコミュニケーションを取った事のないわたしが、顔も名前も知らない人相手にまともに喋れるはずもない。初めに躓いたのは、自己紹介の時だった。

 入学式の直前、時間が余ったからという理由で突然はじまったそれに、わたしは対応しきれなかった。なまじ頭文字が「ゆ」で、話す内容を考える時間がある分、こんなことを言ったら引かれないだろうかと何度も不安が頭を過った。

 そしてわたしは、盛大に失敗した。30秒にも満たない時間の中で、5回も噛んだのだ。

 恥ずかしくて、今すぐ死んでしまいたかった。二度と誰の顔も見たくなかった。明日あたり高校を辞めてやろうかと、本気で思っていた。

 そのはずが、今もずるずると教室の中に居続ける理由は、その後に話しかけてくれた、一人の女の子だった。


――ねえ、どんな本読むの?


 肩を落としながら入学式に行き、校長先生の長話を聞き流している最中。隣に座っていた子が、そう聞いてきたのだ。

 一目見て、わたしとは違うタイプの人間だと思った。だって、キラキラしてたから。

 ラメの入った化粧を多用していたというわけではない。大してスカートを短くしていたわけでもない。なのに彼女は、輝いて見えた。

 子供っぽく笑うその瞳が。体につられて揺れる、短い髪が。細く長い指先が。ふわりと上を向いたまつ毛が。

 わたしとは、住む世界自体が違うのだと感じた。明らかに彼女は、日向にいる人間だったから。

 それでも、彼女はわたしに話しかけてくれた。……緊張しすぎてわたしは、まともに返事なんてできなかったけれど。

 ともかくそれが、わたしと柚月美織とのファーストコンタクトだった。


 決して一目ぼれなんかじゃなかったと思う。

 むしろ、初めは負の感情すら抱いていた気がする。嫌いというよりは、劣等感みたいな、そんな気持ちを。それがいつのまにか仲良くなって、幼なじみだと紹介された樋上くんとも友達になって、今に至る。

 まったく、人生というのは何が起こるか分からない。どこに恋の落とし穴があるかなんて予測もできないし、明日にはこの気持ちが終わっているかもしれない。なんならトラックに轢かれて異世界転生してしまう可能性すら、捨てきれるものではないのだから。

 だからこの気持ちを持ってしまったのも、仕方のないことだったのだろう。

 わたしは初めから分かっていた。美織と樋上くんは、いずれ付き合うって。そのまま結婚してしまう可能性すら十分にあると、ずっと前から気づいていたのだ。

 でもわたしは、敵わないと知っていながら、この気持ちを知ってしまった。

 息が詰まる、という感覚を、わたしはこの時はじめて、覚えたのだと思う。

 どれだけ目で彼女を追っても、そこにわたしは映っていないのだから。

 いつだって彼女が見ているのはひとりの男の子で、わたしのことは見えてすらいないのだから。

 辛くなかったはずがない。胸が痛くなかったはずがない。それくらいに、わたしは美織のことを、本気で好きになっていたのだから。

 今まで誰もいなくていいと思っていた隣が、初めて寂しくなったのだから。

 切なく、なったのだから。

 わたしは紛れもなく、柚月美織に恋をしていた。

 そして今、終わった。

 ただ一夏の一瞬を彩った花火が消えてなくなり、もうすぐ一日も終わる。

 月明かりに照らされた部屋の中にいるのは、わたしだけ。

 わたし一人だけ。

 不思議と涙は零れなかった。


 こんなにも悲しいのに。

 こんなにも辛いのに。

 こんなにも痛いのに。

 こんなにも切ないのに。

 こんなにも、好きなのに。


 それでも、泣くことだけは許されないような気がした。

 好きな人が好きな人と結ばれたのなら、間違っても呪ったり恨んだりをしてはいけない。それはきっと、恋をしていたわたしへの、冒涜だから。

 だからわたしは、泣かなかった。

 けれど彼女から届いた『成功した!』のメッセージに返事をすることも、できなかった。

 今、彼女と話をしてしまうと、この気持ちを抑えることができなくなってしまいそうだったから。

 わたしは一人で、暗い天井を見つめる他なかったのだ。

 ……寝よう。眠ってしまって、全て夢の中の出来事だったことにしてしまおう。

 美織と樋上くんが付き合い始めたことも。美織に恋をしたことも。美織と出会ったことでさえ、全部全部、なかったことにしてしまおう。

 そしてまた一人になろう。

 それで何もかも、元通りだから。

 あの二人だって、わたしのような邪魔者はいない方がいいだろうし。

 そう決めて、わたしは立ち上がった。

 机の上にあったリモコンを使って明かりを灯し、今日を終える準備を始める。

 わたしはベッドの下に手を入れ、一冊のノートを取り出し――


「痛っ……」


 指に鈍い痛みが走り、ノートを手から落とした。

 その瞬間、勝手に開いたノートの、あるページが目に入った。


『6/16 晴れ


 1年D組の教室の端の端、窓際の一番前の席。

 そこがわたし、夢宮 星火の特等席だ――』


 紙で切り、鮮血の流れ出した指先より、そんな文章が目に留まった。

 パラパラとめくっていくと、それから日付けごとにその日あったことが刻まれていて。

 つまりそれは、わたしが書いた日記なのだった。

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