第三症:恋は名目

恋は名目――①

 永遠に思えた一カ月は、けれどあっさりと過ぎていった。

 むせ返る夏の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、わたしは駅を出た。人の流れに逆らって、目的地へと急ぐ。

 花火大会の会場は、ここから二駅先。先ほどまで乗っていた電車も、夕方には相応しくないほどに満員だった。会場に着いたらこの何倍もの人がいるのだと思うと、もう帰りたくなってきた……今日の自分の役割を考えると、なおさら。

 だが帰るわけにもいかない。自分の役目を果たすと決めたのだから。

 踵を返しかけた足首を元に戻して、歩くのは二度目になる道を一歩ずつ、ゆっくりと歩いていく。

 焼けたアスファルトの熱が、素肌に反射して火傷したように痛い。まだ日も高いし、今日は猛暑日だ。

 普段引きこもっているわたしには、肉体的にも精神的にも厳しい日だった。


 それでも、頂を目指す登山家のように、わたしはへとへとになりながらもあの場所へたどり着いた。

 目の前に広がるは、屋敷みたいな家。すなわち美織の家だ。


 せっかくの花火大会だから、と浴衣を着させられるらしい。わたしは浴衣を持っていないし、と言えば「私の一着貸すから」と返された。ということは、少なくとも美織は二着以上の浴衣を所持していることになる。恐ろしや……。

 変なところで頑固な美織だ、普段から流されるままに生きているわたしは、あっさりと押し切られてしまい、今に至る。浴衣なんて本当に必要ないのに。


 長い息を吐いてから、わたしはインターホンに手をかける。

 二回目とはいえ、好きな人の家のインターホンを鳴らすのはやはり緊張してしまうもので。だがここで引き下がるわけにもいかないし、と人差し指を強く押し込んだ。


「や、いらっしゃーい」


 てっきりインターホンから返事が聞こえてくると思っていたのだが、予想も大外れ、美織は直接玄関から出てきて、軽く右手を挙げた。

 わたしが来るよりも先に浴衣を着てしまったらしく、すでに紫陽花の模様があしらわれた淡いピンクの浴衣を着ていた。右耳の上には髪飾りまでつけている。化粧もばっちりで、唇がルビーみたいになっている。薄くつけられたピンクのチークも、いじらしさの演出を手伝っていた。

 桃色の色眼鏡なしにみても、非常に可愛らしい『女の子』がそこにいた。乙女と言ってもいい。なるほど、恋する女の子は可愛いとは、こういうことなのか。きっとわたしと二人で出かけるとなれば、美織は私服に軽いメイクで出てきただろうし。

 この可愛さが、わたしに向けられたものでないことに、奥歯を噛み締めてしまう。出来るなら夜が明けるまで彼女を独り占めしたい。でも、そんなことできないから――


「ささ、早く入って。待ち合わせに遅れちゃう」


 促されて、わたしは二度目となる他人の家に足を踏み入れた。

 独特な香りがした。甘いような、酸っぱいような、そんな匂いが。


 前に来た時には感じなかった香りだ。初めてだったこともあって、緊張しすぎて呼吸をする余裕もなかったからだろうけど。


 もふもふの玄関マットを踏みしめ、美織の後に続く。階段の手前で廊下を右折して、見慣れない部屋の前で立ち止まる。

 そういえばあの時は結局、美織の部屋とお風呂、それからリビングくらいにしか入っていないので、わたしはこの屋敷について半分も知らない。

 ついでに言うと、美織の両親とも一度も顔を合わせていない。


「そういえば、美織のご両親って――」

「うちの親? ほとんど家にいないよ。てか、帰ってくることもあんまりないし」


 食い気味に、そして静かに言い放つ美織。その刹那だけまぶたが伏せられたのを、わたしが見逃すはずもない。彼女の一挙手一投足を、この一ヶ月ほど常に見てきたわたしだが、しかしそこに込められた感情は、垣間見ることさえ初めてだった。


「お父さんはおじいちゃんの病院継いでてさ。お母さんは外資系。友達の紹介で出会って、付き合う前に私がデキちゃって。仕方なく結婚して、こんなおっきな家建てたけど、物心つく頃には誰もいなかったよ。ずっと一人で、暮らしてた」


 地雷、と呼ばれる類のものであることは、疑いようもない。いつもより流暢に、けれど普段の底の抜けた明るさを捨て去ったその姿に、思わず居住まいを正してしまう。

 人知れず息を飲んでいると、美織はふと破顔して、続けた。


「でもーーでも、さ。幸彦がいたから、生きてこれたの。ご飯がなかったら幸彦ん家に連れてかれて、食べさせてくれて。誰もいないのが寂しくて寝れなくて、寝坊したら次の日から起こしにきてくれて。だから、今ままでの生活も悪くないかな、って思ってる」


 いつもとは違う明朗さを持って口元を綻ばせる美織は、本当に可憐で。けれどその肩は、微かに震えている。


「それに、美織と仲良くなることもなかったかもしれないし、ね」


 そう言って、美織はクローゼットを開けて、数着ほど浴衣を見せてくる。「どれが似合うかなー?」と。


 わたしは、勘違いをしていたのかもしれない。

 美織はきっと、強い人間なのだと思っていた。誰とでも等しく仲良くできて、いっつも笑顔でいて。

 だからわたしに話しかけてくれて、仲良くしてくれたのだと、そう思っていた。

 けれどそれが、美織の『弱さ』によるものだったとしたら。

 一人になることを怯えるが故の、恐怖だとしたら。

 わたしと同じ、自分だけでは立つことすら危うい、ただ一人の弱者だとしたら。

 美織がわたしに見出したのが、『同類』の片鱗だったしたら。

 わたしと美織が友達になれたのは、偶然よりも強いイトで結ばれた、必然的なものだと言えるのではないだろうか。


 恋愛の神様がいるなら、わたしはその子供なんかではない。

 ウォールフラワーを際だたせるための、下手なダンスを踊る演者だ。


 ……大丈夫。もう決めた。決めたことなんだ。

 今日の花火大会は、『二人』だけのものにするって。

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