第19話 背負うもの

 レティリエは外に出て白銀の満月を眺めていた。

 月明かりに照らされる静かな闇を見つめながら、ぼんやりと先程の話し合いを思い出す。三人で戦略を練るとは言え、実際に動くのはグレイルとクロエの二人だけだ。その事実が自分の気持ちを鬱屈とさせる。勿論、グレイルが本心から自分のことを頼りにしてくれているのも伝わってくるし、自分の役割も理解しているつもりだ。けれども、自分は彼のパートナーだと自信をもって言える強さがほしかった。


 うつむき加減に視線を地に落とし、月光に照らされる両手を見つめる。鋭い爪もない、白魚の様な細い指。生まれてから一度も四肢になったことのない手だ。

 もし、自分が狼になることさえできていたら、今頃は彼の隣で笑い合っていたのだろうか。レベッカと一緒に大きなお腹を撫でながら子供の誕生を楽しみにしていたかもしれない。だが、それは自分には到底叶うことのない遥か遠い望みなのだ。


 ──ねえ、お母さん。どうして私を普通に産んでくれなかったの?


 顔も覚えていない両親に問いかける。彼らが生きているのかも死んでいるのかすらもわからない。自分を置いて村を出た彼らは今頃何をしているのだろうか。新しい場所で普通の子供を産んで、幸せに暮らしているのだろうか。かつてもう一人いた娘のことなど忘れて。

 ポロリと一粒涙がこぼれ落ちると共に、決壊したかのように涙が視界を歪ませていく。  

 耐えきれなくなり、レティリエは膝を抱えて顔を埋めた。


 今までも孤独に潰されそうな夜は何度も過ごしてきた。それでも、自分の運命を受け入れ、ひっそりと一人で泣くことでなんとか耐えてきた。

 だが、今は違う。自分を苦しめるこの胸の痛みは、自分自身への失望から来ているものだ。グレイルと結ばれたからこそ、彼の隣に相応しくない自分が浮き彫りになる度に胸が締め付けられるように苦しくなる。

 

『狼になれない子供なぞ生まされたら、お前の強さを無駄にする上に、穀潰しをもう一人抱えることになる』

『あなたの大切な彼も、常に死と隣り合わせだわ。でも無力なあなたには、どうすることもできない。彼が目の前で命の危険に晒されても、指を咥えて見ていることしかできない』

 

 レティリエの脳裏に、セヴェリオやクロエの言葉が何度も響く。そして、目の前で伴侶を侮辱されて、激昂する彼の姿も。きっと彼も悔しかったに違いない。自分が傷つけられることよりも、自分のせいで大切な人が貶められることの方が何倍も辛かった。

 今までわざと考えないようにしていたが、きっと、彼は別の人と一緒になった方が幸せだったのかもしれない。自分と出会わなければ、グレイルにあんな思いをさせることもなかったし彼の尊厳を傷つけることもなかった。

 考えてしまった途端、嗚咽が漏れた。


 自信が欲しい。

 彼の隣に立てる力が欲しい。


 今までも狼になれない自分に惨めさや情けなさを感じながら生きてきた。でも、自分で自分自身の存在を憎んだことはなかった。彼の隣に堂々と胸を張って立てない自分の運命を呪ったのは生まれてはじめてだった。


 だが、自分の涙に溺れそうになったその時だった。

 鼻先をくすぐる少し尖った優しい匂い。と同時に大きな手が背中を優しく撫でるのを感じた。

 そっと顔をあげると、高い鼻梁に縁取られた端正な横顔が視界に映る。その瞳は満月を宿していた。敢えてこちらの顔を見ないでいてくれる彼の優しさに感謝しつつ、レティリエはこっそりと涙を拭った。

 なんとなく……彼は来てくれると思っている自分がいた。昔からそうなのだ。自分が泣いていると彼はどこからともなくやってきて、側にいてくれる。

 彼の変わらぬ優しさに心から感謝をする。と同時に、これ以上情けない自分を見せたくないという複雑な思いも抱いていた。


「……レティリエ」


 どう声をかけたらいいのかわからないのか、グレイルは少し逡巡しながら言葉を紡ぐ。


「俺はあんまり気が回る方じゃないから、間違っているかもしれない。でも、少なくとも俺はお前が狼になれないことなんて気にしていない」

 

 低く優しく響く声に、レティリエの耳がピクリと動く。いつもいつもこうやって、彼は自分の一番欲しい言葉をくれる。

 でも今は……その言葉にすがりたくない自分がいた。膝をぎゅっと抱え、その中に顔を埋めながら地面に視線を落とす。


「……でも、私は本当はあなたと一緒に戦いたいの。あなたに守られなくても戦える強さが欲しい」

「レティも戦えるだろう。この前やつらが来たときに追い払ったのはお前の機転じゃないか」

「でも実際に戦ったのはあなただけだわ。私は木の影で見ていることしかできなかったもの。そんなんじゃ、一緒に戦ったなんて言えないわ」


 胸のうちに先日の恐怖が甦り、レティリエの唇がふるりと震える。


「私も……本当はクロエさんみたいになりたかった。一緒に狩にいって、肩を並べて戦って、お互いにお互いを助け合って、本当の意味であなたのパートナーになりたかった」


 永遠に叶わぬ願い。こんなことを口にしても意味がないのに。それでも一度口をついた思いは流れるように溢れ出た。


「こんな自分は嫌い……嫌い。大嫌い。こんなんじゃ、きっといつかあなたに愛想つかされてしまうわ」


 絞り出すように言葉を吐き出す。堪えようとしているのに、頬を伝う涙は先程から止まない。レティリエは膝に顔を埋めた。好きな人の目の前で情けない姿をこれ以上晒したくなかった。

 隣で微かに彼が動く気配がし、大きな手でそっと抱き寄せられる。


「レティ、こっち向いて」

「嫌よ……だって私、かっこ悪いもの。今は私の顔を見ないで」


 突如、グイと顎が持ち上げられ、唇に熱を感じた。そのまま抱き抱えられるようにして地面に横たえられる。名前を呼ぼうと開いた口は、またしても彼によって塞がれた。いつもより少しだけ荒っぽい、押し付けるようなキスだった。驚きに目を見張ると、唇を離したグレイルと鼻先が触れ合う距離で見つめ合う。


「俺は今のままのお前が好きだ、レティリエ。……これでもまだ、俺の気持ちはわかってもらえないか?」


 彼の切ない眼差しがレティリエの瞳をとらえる。


「幼い頃からずっと見てきた。俺はお前の心の強さが好きだ。レティはどんなときだって諦めずに、いつだって自分にできることを一生懸命やってきたじゃないか。村の皆を救ったこともある。レティはもっと自信を持っていい」


 力強い声が耳に響き渡り、胸の内を癒していく。思わずまたポロリと涙がこぼれおちるが、地面を背にしている為にうつむいて顔を隠すことができない。ぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて両手で彼の首にしがみついて首筋に顔を埋める。グレイルの両腕が背に回され、ゆっくりと抱き起こされた。


「レティ、お前は昔からあんまり弱ってる姿を見せたがらないが……俺には見せたっていいじゃないか。夫婦なんだから」


グレイルの大きな手がゆっくりと背中を撫でる。


「俺はあんまり力になれないかもしれない。でも、俺にも一緒に背負わせてくれよ」

「うん……うん、ありがとう、グレイル」


 彼の胸でひとしきり泣いた後、レティリエはゆっくりと顔をあげた。

 グレイルの力強い金色の瞳が自分を優しく自分を見つめている。非難の色も哀れみの色もなく、混じりけのない純粋な親愛の情がそこにはあった。でき損ないと言われる自分を一番に認めてくれるのは、他でもない、彼なのだ。 


「グレイル、私……私にも戦わせてほしいの。あなたがクロエさんの子供を救出する前に、私がセヴェリオ達の情報を取ってくるわ」

「ああ。お前なら大丈夫だ」


 グレイルが優しく頭を撫でてくれる。レティリエはもう一度彼の背中に手を回すと、甘えるように胸元に頬を擦り寄せた。


 自分にできることは少ない。戦闘の場面に出られないことも変わらない。

 それでも、いつか胸を張って彼の隣に立てるように、少しずつ積み重ねていけばいい。

 レティリエは静かに目を伏せると、もう一度グレイルの首にしがみついた。

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