永禄三年五月
第87話 織田軍、吉良侵攻
五月が近づく頃、清須城では今川軍が尾張に侵攻してくることが確実視されるようになっていた。日々今川関連の情報が入って来ている。そしてそのどれもが残された時間は少ないと覚悟させるものだった。
家臣たちは毎日評定の大広間に詰めては議論を繰り返していた。
しかし上座に信長の姿はない。重臣の林秀貞や柴田勝家などが御出ましを願ったが、信長は眉さえも動かさず、遂には少数の小姓を従えて遠乗りに出掛けたりした。
「もうよい、我らで評定し、家臣総意としてお屋形様に進言申し上げる」
家老筆頭である林秀貞は苛立ちを押さえきれないような大声を評定の間に響かせた。
家臣たちの意見は大きく二つに分かれていた。一つは鳴海大高への救援を前提とした出撃策、もう一つは清須城での籠城策だ。
戦場として想定されるのは鳴海・大高周辺だろう。今川の目的の一つが織田の付城を排除することだというのは大方の意見が一致していた。しかし、どこまで侵攻しようと目論んでいるのかが分からない。
噂では今川義元が総大将となり、三万から四万という大軍勢が襲ってくるという。その数は大袈裟としても、義元が総大将なら大軍団であることは間違いないだろう。
出撃派は今から鳴海・大高を囲む付城への人員配置と防備の強化を図るべきだと主張した。
しかし今川勢がまっすぐ鳴海・大高に向かって来るとは限らない。例えば沓懸城から直接熱田の方へ動かれる可能性がある。今こちらが防備を固めれば、今川は裏をかいた作戦を取るかもしれない。そうなるとこれまでの準備は無駄になり、敗退の大きな要因になる可能性さえあり得る。
籠城派はそう言って出撃派に反対した。それに今軍団を鳴海大高方面に差し向けるのは危険が伴う。籠城派がことに危惧するのは
籠城派の意見を要約すると、今川は大軍団であり義元自らが出陣するのだから戦になれば苦戦は必定。今回は清須城で息をひそめ、義元らが駿河に帰った時に行動を起こせばよい、ということだった。
これに対する出撃派の反論は、籠城するなど武士ではない、という感情論と、今川をそんなに甘く見るな。たとえ義元らが尾張を去ったとしても、その時にはこちらが反撃する隙間など無いほど万全の構えが出来上がっているだろう、というものだった。
出撃派のこのような意見に籠城派は反論する。今川勢が鳴海大高に来ることが前提になっているが果たしてそうか。それだけの規模なら広域に展開する可能性がある。この前の戦(氷上・向山・正光寺への襲撃)のように船で来る可能性もある。また、大軍団ならば平地で戦おうとするかもしれない。平地での戦いは数が多い方が圧倒的に有利であることが一般的だからだ。
これに対し出撃派は、大軍団だからこそ今川は正攻法で来る。またもし目標が鳴海大高ではないとしても、奴らは鎌倉往還を通って来るだろう。万を超す人数が動くとすれば、道はおのずと限られてくる。奴らの行軍は予測できる。
このようにどちらも自派の主張を譲らない。同じような主張を延々と言い直している。
信長不在のまま評定は続き、時には深更まで続いたが、結局は堂々巡りが繰り返されるだけだった。
五月四日、信長は突然行動を起こした。
軍議が続く評定の間にいきなり現れ、居並ぶ家臣に出陣を命じた。
信長の軍勢は深更に清須城を出発し、夜陰にまぎれて熱田方向へと進軍した。
家臣たちは、信長がどこへ向かおうとしているのかを聞かされていない。
熱田を越えた軍は鳴海大高には向かわず南東へと足を進めた。軍はそのうちに三河の領内に入り、南下。小河、刈屋を越えて
「あたり一帯、焼き払え」
五月五日の日が昇ると共に信長が命じた。
兵たちは付近の農家や寺などに火をつけ、一刻のうちに周囲は火の海になった。吉良氏の菩提寺で前年に移築したばかりの実相寺(西尾市)もそのときに焼かれている。
通常こういう時、兵たちは村々を蹂躙する。家々の物品を略奪し、戯れに人を切り、女を見れば強姦するのが普通だった。
しかし、信長はそれらを厳しく禁止した。
背いた兵は容赦なく殺すよう通達している。
それは倫理観や正義感ではなく、領地の拡大と統一を狙っているからだといえる。
侵攻していく地域は後に統治していく領地でもある。また一旦兵たちにそれを許してしまうと後も収拾がつかなくなる。
現状今川が攻めてくるという危機的状況ではあるが、信長は先を見ている。
信長は東の方向に見える西尾城(愛知県西尾市錦城町)と、その向こうにある東条城の動きを物見の兵に監視させている。吉良家は弘治年間に今川に属し、西尾城の城代として三浦左京亮が常駐している。
しかし、信長自身は吉良の居城である二つの城を見てはいない。彼の目は北西にある小河城、刈屋城に向けられていた。
今回の進軍は小河城の水野信元にはわざと伝えずにいた。当然小河城に出入りしている簗田政綱にも連絡は入れていない。
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