第五話 禁断の読書

 心臓の音はまだ耳の奥で鳴っている。


「だ、大丈夫よ。奥付は守護呪じゃなかったし、読んだだけで呪われる本なんてあるわけないんだから……」

 自分を鼓舞しつつ、じっとりと汗ばんだ手で花音は項をめくった。


「世界は混沌から始まり、大御神が天地を分かつ――」

 書き出しは、いわゆる世界創造神話だ。世界の絶対神である大御神が天地を造り、海や山を造り、精霊が生じ、生き物が誕生する。


 その創造神話自体はありふれたもので特に変わったところはないが、とある項で花音は手を止めた。

「古の巫女…?」

 記述によると、仙人である東王父とヒトの女性の間に娘が生まれ、長じて後、神々とヒト双方と意思疎通のできる存在となった。

 その娘の系譜が「古の巫女」である、と。

 古の巫女は世界の国々を渡り、神々や人々の間を取り持ち、こうして世界の均衡は保たれていた。

 しかし、その均衡が破られるときが訪れる。

「神龍の創造しし国、龍昇国に争乱あり、これをまとめし者、龍家を名乗り、以後龍昇国を統治する……これって、龍帝家のこと?!」

 花音は愕然とした。


 神龍は龍昇国を造り、御身に代わり国を安らかに統べる者に龍玉を与えた。これが龍帝家の始まりである――

 これが、龍昇国神話の冒頭だ。


 この本の記述は、それを根本から否定するものだ。

『諸国怨嗟詩』がどの程度信憑性のある本か不明だが、これまで神話を否定する記述に出会ったことのない花音にとっては衝撃だった。 


 外の雨はいよいよ強くなり、一瞬、閃光が走ったかと思うと耳をつんざく雷鳴が辺りに轟いた。


「ひゃ?!」

 慌てて卓子の下にもぐりこむ。幼いころから雷が苦手だった。

 震えつつも胸にはしっかりと『諸国怨嗟詩』を抱いている。

 雷は低く、絶え間なく鳴り続けている。花音は卓子の下にうずくまったまま夢中で項をめくった。



 気が付くと、真っ暗になっていた。

 雨はもう止んでいる。夕立の後の涼しい風が華月堂の中を吹き抜けていく。

『諸国怨嗟詩』を入れた抽斗に再び鍵をかけ、花音は華月堂を出た。


 見上げると、夏の遅い夕陽の残像と瞬きはじめた星が美しい。

 たった今読んだ本の内容を、この空に解き放って忘れてしまえればいいのに、と花音は思った。


「龍昇国が、まわりの国々から怨まれてるなんて……」


 怨嗟とは、龍昇国へ向けられたものだったのだ。


 神龍から龍玉を授けられし龍帝家の帝は、天候を司ることで周辺諸国にも自然の恵みをもたらし、神々の筆頭として崇められるもの――それが、花音が信じて来た龍昇国の存在価値だ。花音だけではなく、この国の民は皆そう思っているだろうし、龍昇国の民であること、龍昇国を統べる龍帝家を誇りに思っているだろう。

 しかし『諸国怨嗟詩』の記述には、龍帝家は争乱を武力で制圧した覇者であり、国や周辺諸国を治めるにあたって神龍を最高神として信奉するよう人々に強制した。

 各国の神々や精霊信仰はことごとく邪教邪神扱い。

 社や祠は破壊され、そこには神龍が祀られた。

 ゆえに、周辺諸国の民は龍帝家を怨んでいる――そう記されているのだ。


『諸国怨嗟詩』には各地に伝わる呪術が綴られている。

 その呪術はすべて、龍帝家へ向けられたものだ。


 ただの俗本かもしれない。


 けれど、ただの悪意ある作り話と読み流せない何かがあった。


 花音の中で、ざわざわと何かが音を立てている。原因はわからない。でも。

「あの人に聞けば、何かわかるかもしれない」

 呟いて、花音は足早に歩きだす。


 花音が向かった先の庭には、見事な紫水晶が細工途中で寝かされていた。夜目にも見事に輝く水晶が、卓子や椅子、柱の形に削られている。

 指環の大きさでも、官吏の俸禄一年分はするという紫水晶。それを、このように贅沢に購えるのは、たとえ貴族であってもそうはいない。

「……失礼しますっ」


 思い切って花音が訪いを入れたのは、大貴族袁鵬の娘、袁珠翠が入内している凛冬殿だ。


 

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