第四話 それを失恋と呼ぶ

 夏の厨というのは、とにかく暑い。


 鹿河村の実家では夏になると、なるべく火を使わない調理方法を考えた末、地下水で冷やした瓜ばかりを食卓に出して、父に怒られたものだ。

「暑いときこそ熱いものを食べねば、体が冷えすぎてよけいに夏バテするんだぞ馬鹿者」

 父はそう言って、夏でも汁物を必ず作るように花音に言いつけた。

 それが苦痛で仕方がなかった花音だが、後宮厨を覗いて、汁物を作るくらいどうってことなかったと思い知らされた。


「す、すごい。これじゃあ蒸し風呂だわ」

 竈にはすべて火が入り、あっちで鍋が、こっちで蒸篭が、地獄の釜のごとくもうもうと湯気を上げている。

「尚食女官て偉いわ……」

 後宮の中で生活する人々のお腹を満たすだけの量も作らなくてはならないのだ。夏だろうと暑かろうと、厨に休みはない。

 たすきで袖をたくし上げ、汗だくで作業をしている女官たちを尊敬の眼差しでながめていると、後ろから肩を叩かれた。


「花音じゃない、もう昼の調達?」

 三葉はやはり額から幾筋も汗を流しつつ、でもいつもと変わらずにニコニコと立っていた。

「なんでもいいから、余っているものもらえれば……」

 籠を渡すと、三葉は花音の顔をのぞきこんだ。

「暑いからってテキトーに食べようとしてるわね?そういうのダメよ。夏バテの原因になるんだから。ちょっと待っててね」

 三葉は野菜の入った大きな籠を抱えて厨の中へ入っていった。


 厨の入り口に、薪が積んである。ちょうど木陰になっているそこに花音が座って待っていると、ほどなくして三葉が籠を大事そうに捧げ持ってやってきた。

「あたし、ちょうど休憩なの。一緒に食べない?」

「もちろん。籠の中、何を入れてきてくれたの?」

「涼麺だよ。暑いときにはこれが一番」


 三葉は厨の裏に回った。厨の裏は切り株や丸太で簡易に作られた卓子と椅子が点在していて、女官たちのちょっとした休憩場所だ。

 ブナの木陰に守られたその場所は、風が通って涼しく、女官たちが思い思いに涼んでいた。三葉と花音は端っこに空いている卓子を見つけた。


 三葉が卓子の上に出した皿を見て、花音は思わず歓声を上げた。

「これ、涼麺?すっごく色鮮やか!」

 白い面の上に、胡瓜や茄子、南瓜やトマトといった夏野菜、錦糸卵、蒸し鶏に白葱が細く切って山盛りに載っている。

「あたしの田舎だと、せいぜい茹でた卵と胡瓜くらい」

「ふふふ。こうやって麺が見えないくらい細かく切った具が載ってるのが龍泉風だよ。どう?食欲出てきたでしょ」

 三葉は得意そうに言うと、別容器に入れてきたタレを二つの皿にたっぷり注いだ。


「……美味しい!!」

 一口すすって、花音は箸が止まらなくなり、無心で食べた。冷やした麺にたっぷりかけられたタレにはほどよい辛味があり、それがまた箸を進ませた。さっきまで何も食べたくないとすら思っていたが、ひどくお腹が空いていたことに気が付いた。


「ふう……美味しかった。ごちそうさま」

「よかったよ、食べられて。暑いと、つい冷たい物ばっかりとか、食べたくないから湯漬けで済ませるとかになりがちだけど、それだと夏が終わる頃にはバテちゃうのよね。暑くてもしっかり食べないと」

「尚食女官て、すごいよね。どんな季節でも後宮にいる人たちのためにいろいろ工夫してご飯作ってくれて。このところ暑くて食欲も落ちてたし、こんなにご飯が美味しかったの久しぶり。ありがとうね」

 花音がしみじみ感謝を伝えると、三葉は笑った。

「そんな大げさな。あたしたちは、みんなの胃袋を満たすのが仕事だからね。それに、どんなに工夫しても食べてくれない人もいるから」

「そうなの?」


 三葉は周囲を見回して、声を低くした。

「あたし、料理の腕を買われてさ、七夕の後から水明殿の御夜食を作っているんだけど」


 水明殿と聞いて、花音は心臓が跳ね上がった。

(コウ……)

 あの七夕の夜以来、会っていない。華月堂にも姿を見せなかった。


「水明殿は、紅荘皇子…赤の皇子のお住まいなんだけど、赤の皇子は酒は飲んでもあまり食べないって聞いてたから、水明殿の御夜食係はけっこう楽だって聞いてたんだ。ところがさ…」

 三葉はさらに花音に顔を近づけた。

「たぶん、いるんだよね。足繫く通われている妃嬪が」


 胸に鈍器で穴をあけられたような衝撃に、花音は思わず胸元を押さえた。


「妃嬪って……四季殿の?」

 かすれた声が口からこぼれた。自分の声ではないように感じた。


「まさか。四季殿のいずれかの貴妃だったらもっと大騒ぎになってるわよ。夜中にお忍びでお出かけしたりお招きになったりだから、四季殿以外の妃嬪、すなわち吉祥宮内の六舎の嬪だと思う」

「たしかなの?」

 声が震えないようにするのが精いっぱいで、それくらいしか言えない。三葉は確信的に頷いた。

「酒杯が二つ、酒肴を一膳。酒肴は季節の野菜や白身の肉や魚、柘榴などなど、女性の身体に良いとされる食材ばかりを指定されるのよ。赤の皇子が一人でとか御付きの方と召し上がるものじゃないと思わない?」

「そ、そうだね……」

 花音は力なく答えた。

「だから、あたしも含めて御夜食係で気を遣って、いつも彩り良く盛りつけた最高の酒肴をご用意しているつもりなのだけど、ちっとも食べてくださらないのよ、これが。すごく少食の御方なのか、酒肴も目に入らないほどに逢瀬の時を過ごされているのか……」

 三葉は夢見るように続ける。

「六舎にいる御方だから、あまり身分も高くなくて…あ、もしかしたら、稜炎帝のために入内した嬪なのかも。きっとお静かな気性の御方なのね。だから稜炎帝の御目にも止まらず、吉祥宮の片隅でひっそりお暮しになっているところに、ふらふらと遊び歩いている赤の皇子とばったり出会って……恋に落ちたんだわ。遊び人の皇子とたおやかな嬪。でも、立太子がまだだから、公にはできない。二人は人目を避けて夜中に逢瀬を重ねているのね……ってあたし『李氏物語』の読みすぎかな」

 三葉が笑った。花音も笑ったつもりだが、うまく笑えていたかわからなかった。



 愛している。ずっと傍にいてほしい。


 七夕の夜、コウは花音にそう言った。

 紫色の双眸はまっすぐに花音を見ていた。そこには、情熱と誠実さがあった。


「あたしの、思い違い……?」


 呟きは、蝉の鳴き声にすぐにかき消された。いつもうるさいとばかり思っているが、今は暑苦しい大合唱がありがたかった。

 じっとしていたくなくて、伯言に言いつけられた仕事を無心にやった。


 このまま終業まで体を動かし続けていれば余計なことを考えずにすむ。


 そう思ったが、そんなときに限って仕事はすぐに終わってしまう。おまけに、一日のうちで最も暑い昼下がりに華月堂へくる者はいなかった。


 しかたなく、蔵書室と事務室の間を開け放したまま、風を通す。

 蔵書室が見える応接用の長椅子に座ってぼんやりしているうちに、だんだん身体の内側からと何かが沸いてきた。


「なによ、コウったら」

 呟くと、そのは怨みなのだと気付く。


 もちろん、わかっている。自分とコウでは身分が違う。住む世界が違う。だから、結ばれるわけはない。けれど。


 ほんの一瞬、夢をみてしまった。


 コウが、真剣だったから。


 抱きしめられた腕から、胸から、すべてから、コウから溢れ出る熱い想いが花音の中へ流れこんできたから。


「一瞬の夢だったら、見ないほうがマシだもの」

 あんなことを、言ってほしくなかった。

 鼻の奥がツン、とする。

 七夕の夜、花音は自分の気持ちに気付いた。

 コウのことが好き。それは、誤魔化しようのない事実だ。

 その矢先に、コウの心が別のところにあると知るなんて。

「こういうのって……なんていうんだっけ」


 ああ、そうだ。

 ――失恋。


 呟いた言葉が、開け放した扉を吹き抜ける風に運ばれていった。

 それは、先刻までと違う、ひんやりとした冷気を含んだ風だ。


 夏の風が急に涼しくなったときは、そう遠くない場所で雨が降ったということだ。夕立の前触れである。

 花音は蔵書室へ行き、雨風が入らない角度に窓を調節する。すべての窓の調節が終わった途端に、雨粒が地面を叩く音が聞こえた。


「やだ、どうしよう」

 雨はあっという間に滝のように降ってきた。

 しばらく待ってみたが、止む気配がない。それどころか、雷が不穏に轟きはじめている。帰り支度をしていると終業の鐘が鳴ったが、まだ雨はやまない。


「ほんと、今日はついてないな……」

 荷物を抱え、大きく息を吐いて自分の椅子に座ると、ふと事務室の隅の保管棚が目に入る。


 そのいちばん下の抽斗には、『諸国怨嗟詩』が入っている。


「怨嗟詩か……」

 ヒトを恨む状況はいろいろであろうが、『諸国』というのも気になる。

「こういうのも、怨みっていうのかな」

 コウを憎んでいるわけではない。

 むしろ、逆だ。

 会いたい。七夕の夜からずっと、そう思っている。

 けれど、その想いが裏切られた。コウは、とある嬪と夜な夜な逢瀬を重ねているという。華月堂に姿を見せないのも、そのためだろう。


 花音は荷物を置いて立ち上がる。心臓の音が耳の奥で聞こえる。それは、禁を破ろうとしている自分への警鐘だ。しかし、花音は自分を止められなかった。

 鍵を手に取って、保管棚の前でしゃがみこむ。


「伯言様……ごめんなさいっ」


 花音は、抽斗の鍵を開けた。

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