第三話 あかずの抽斗

 陽が高くなるにつれ蝉はいよいよ鳴く。

「誰も……来ませんね」

 受付で花音がぼやくと、開け放した事務室から伯言が言った。

「そりゃこんなに暑い中、まさかわざわざ吉祥宮の片隅まで出かける人もいないでしょうねえ」

「たしかに」


 外に出るだけで焼かれるような日差しだ。建物の中の方が断然涼しいので、外出は極力したくないだろう。

 けれど、伯言がいそいそと化粧箱を取り出して身繕いをしていることに花音が気が付いていた。


「ていうか伯言様、そのまさかの外出なのでは」

「あらあごめんなさい、気付いちゃったあ?」

「そりゃ化粧箱出したり鏡で全身点検チェックしていたら気付きますよ、さすがに」

「ふふふ、今日はさる貴族の御屋敷で暑気払いがあるの。この暑さで朝議も早く切り上がっているから、お昼の会食からなのよ。ああ、どんな御膳が出るかしら。鰻もいいけど、さっと湯にくぐらせてお花みたいになったはももいいわよねえ…氷室の氷で冷やした麺とかも最高ねっ」

「……お昼の会食ってことは、お戻りは夕方でしょうか」

「あらいやだ、暑気払いよ暑気払い。夕涼みの趣向もあるに決まっているでしょう。夜には御屋敷の小川に蛍が放されるのよ。お昼で帰るなんて無粋なことするわけないでしょ」


 つまり、昼からずっと御馳走を食べて涼んで遊んで、そのまま夜の飲み会に突入するから戻るわけない、ということだ。

 わかっている。わかってはいるが、一応聞いてみたかっただけだ。


「はいはいすみません無粋でっ」

「え?ブス?」

「~~~っ、なんでもありませんっ」

 伯言が午後にいないことなど、いつものことだしもう慣れてしまった花音である。

 それでも自分がここに暑さに耐えて座っている間、美味しいものを食べて涼んでいる上司のことを思うと何となく腹の底がふつふつとしてくる。


「それじゃ、いってくるわねえ。たぶん午後も来館者はないでしょうから、受付表の整理と書架の掃除、やっておいてねえ」

「はいはいいってらっしゃいませっ」

 すっかり身繕いを終えていそいそと事務室を出ようとした伯言は、突如くるりと振り返った。


「わかっていると思うけど、ぜったいにあの抽斗を開けては駄目よ?」

 伯言は、事務室の隅の棚を指さした。

 そのいちばん下の抽斗には『諸国怨嗟詩』が入っている。

「藍悠皇子にも中身は見ないように申し上げるつもりだから、あたしたちも見ない。そうよね?」

「わ、わかってますよ」

 伯言はしばしじーっと花音を覗くように見ていたが、じゃねーと手をひらひら振っていってしまった。


「もうっ、子どもじゃないんだから何度も言われなくてもわかってますってば…」

 憤慨しながらも少しどきりとしたのは。


 抽斗に『諸国怨嗟詩』を入れて鍵をかけてからずっと、気になって気になって仕方がないことを伯言に見透かされたような気がしたからだ。


 抽斗のある棚は仕事上大事な書類を入れるためのもので、鍵の場所は花音も知っている。

「……いやいやいやだめだめだめだめでしょ。ダメって言われてるんだから」

 花音は首を振り、かすかにお腹が空いていることに気が付いた。

「そうだ!後宮厨に行こう」

 そろそろ、正午だ。

 いくら暑くて食欲がなくても食べなくては午後がもたないし、このままここにいるとよからぬことを考えてしまいそうな自分がいる。

 焼けつくような日差しを睨みながら、花音は手拭いを水で濡らして硬くしぼり、それを頭にかぶって後宮厨へ向かった。




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