第一話 酷暑

 蝉が鳴いている。

 鳴いている、というにはぬるい。大合唱。それがまた、照りつく日差しを、肌を焼く熱気を倍増させる。


 宝珠皇宮は龍昇ノ瀧と晶峰山を挟んで背中合わせになっており、また龍昇ノ瀧から多く水を引いている。ために都の中では涼しい場所だと言われているが、それでも今年は暑かった。

 皇城でも後宮でも、いたるところで水を打っているが、すぐに乾いてしまう。

 官吏も女官も、うんざりした顔で何度も水を打つが、まさに焼石に水状態であった。


 そんな暑さに倦んだ後宮の中を、一人の少女が小走りに行く。

 水の中をいく魚のように、少女は暑さなどまるで関係ない涼やかな表情で壮麗な楼門をくぐっていく。


 肩で切り揃えた髪は黒い。薄紅色の童衣裳姿は、後宮ではどの殿舎でも見かける女童だ。

 ただ、その少女が他の女童と決定的に違うのは、黒目がちな瞳が深淵のように黒々としている点だ。

 その黒い双眸が真っ直ぐ見据えた先は、巨大な紫水晶の玉柱が運びこまれようとしている殿舎だ。


 四季殿、凛冬殿。大貴族袁家の姫、袁珠翠が冬妃として入内している殿舎である。


「袁鵬様が、また玉をお取り寄せになったらしいわ」

「あの玉で中庭に四阿をお造りになるのだとか」

「冬妃様は皇子殿下お二人とも仲睦まじく七夕をお過ごしだし、こうして御父上の後ろ盾もしっかりしているもの。年上であることなど、まるで問題にならないわ」

「そうよね。四季殿の妃でいちばんの年上っていっても、御美しさや御聡明さもいちばんですもの」

 本格的な夏の装いにしつらえた玄関先で、女官たちは大壺に活けた大輪の百合を整えたり、水を打ったりしながら我が主を褒め称えている。その中を、少女は魚のようにすり抜けていくが、不思議と少女を気に留める者はいなかった。


 誰に咎められるでもなく、少女は殿舎の奥へと回廊を進み、とある室の前で足をとめた。


 その室の前には、独特の香りが漂っている。


雲母きらら様。シンです」

 少女が訪いを入れると、扉がスッとひとりでに開いた。

 室に入った瞬間から独特な香りが強くなり、身体の隅々にまでいきわたるような、そんな心地がする。

 薄暗い室内には、どっしりとした黒く古い調度品や家具が並び、様々な種類の草花が壁から天井から所せましと吊り下げられている、その奥。


 書き物机に向かう妙齢の女性――雲母医師の姿があった。

 全身黒の衣裳が、この世のものとは思えないほどの色の白さを際立たせている。


 婉然と微笑む顔立ちは、美しい。涼やかな目元は彫ったように切れ長で、描いたようにすっと通った鼻。鮮やかな紅の口紅が部屋の薄暗さの中でやけに目立つ。

 その紅の唇が、動いた。

「御家長様は息災か」

 少女はこくりと頷くと、雲母医師の前まで進み、懐から封書を取り出した。

「こちらをお預かりしました」

 その白い薄様の紙を開き、字を追っていた双眸が険しく細められた。

「――御家長様に承知しましたと伝えておくれ」

「はい」

「下がってよい」

 杏々はぴょこんと頭を下げると、来たときと同じように、水の中の魚のごとき滑らかな動きで室を出ていった。

 書き物机の上に、銀色の大盆がある。雲母医師はそこに薄様の紙を落とすと、何事か呟いた。

 刹那。

 ぽっ、と紙に火が点き、溶けるように一瞬で燃えてしまった。

 その様を見ながら、雲母医師は呟いた。

「人は外見に惑わされるもの…それをうまく利用したものじゃ」



「っくしゅん!!」

 扇子で顔を押さえた伯言に、花音は懐紙を手渡した。

「大丈夫ですか、伯言様。ちゃんと鼻ふいてください。ていうか、薄着なんじゃないですか。大丈夫ですか、その衣裳」

「この紗の深衣は今、龍泉の都で流行ってるのよっ。あんたもお年頃なんだから少しはお洒落を嗜みなさいっ」


 白群びゃくぐんの紗はたしかに涼しげで洒落ているが、そんなものを買う金子があったら本を買いたい花音である。


「それに、薄着じゃないわよ。誰かがあたしのこの衣裳を噂してるのね」

「はあ……伯言様の前向き思考が羨ましいです」

「え?何?」

「いえ……」

「ていうか、暑いわあ。もっと窓開かないのお」

 さっきから何度も高窓を開けに華月堂内を行ったり来たりして汗だくになっていた花音の額に、ぴしりと青スジが入る。

「もう限界まで窓は開けてますっ。それに暑いときに暑いって言わないでくださいっ、暑さ倍増ですっ」


 七夕が終わってから、本格的な暑さが始まった。

 今年の暑さはことのほか厳しく、後宮内でも御使い途中で暑気に当たった女官が木陰で休む姿がしばしば見られる


「ほんとよねえ、暑いったらありゃしない。今日は暦の上では大暑にあたるわあ。どおりで暑いわけよねえ」

「……だから暑いって言わないでくださいっ」

「その本見れば、少しは涼しくなるんじゃなあい」

「う……イヤなこと言わないでください」


 数刻前から、伯言と花音は応接卓子を挟んで座って…いや、睨み合っていた。

 その応接卓子の上には、深緑色の装丁の古い本がぽつりと置かれている。


諸国怨嗟詩しょこくえんさうた』――消えかかった細い墨で、表紙にそう書かれていた。

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