第333話 猫耳少女、97%。

 少し時を遡る。


 逃避行を続ける二人の少女は、とある建物の片隅に身を寄せ合いながら、膝を抱えていた。疲労の命ずるままに切れる呼吸音で見つかってしまうような気がして、肺が痛いのを堪えて息を殺していた。

 陽光さえ、自分達を探す視線と勘違いする。無意識に陰から出ないようにしつつ、アイナは小さく呟く。


「これで……少しは……隠れられる、かな」


 ローカルホストと言えど、大きな街。街全体を使ったかくれんぼをしているようなものだ。だからこそ建物の中に隠れてしまえば、そう見つかることは無い筈なのだが、アイナとフィールには全く安堵は訪れない。

 何せ途中から、悉く敵意を持つ人間たちに先回りされたのだから。

 まるで上空から俯瞰して見られているかのように、悉くアイナとフィールの行く先行く先に、明らかに敵意のある騎士達が配置されていた。

 

 せめてもの抵抗として建物の中に隠れている。郊外まで逃げてきたこともあり、周りに人気が無いことを確認して転がり込んだのだが、確認したアイナとて、そもそも素人。侍女の相手である元人工知能や、一流の剣士故に殺気なんてよくわからない概念を察知できる第三王女でもない限り、胸張って誰もいないと言う事は出来ない。


 もしかしたら既に敵は建物に入ってきて、自分達に忍び寄っているかもしれない。

 そう思うと、二人は恐怖に駆られる事しか出来ない。

 一体いつまで逃げていればいいのか。入口からは死神が迫り、かつ出口は一向に見えない洞窟トンネルの中にいる気がして、戦々恐々とすることしか出来ない。


「……」


 ふと、フィールは冷たい感触を得た。

 自分のではなく、同じ床に置かれていたアイナの細い五指が酷く冷たかった。


「アイナ」

「……」


 横顔は、喉元に突き付けられた暴力の気配で強張っている。一介の少女らしい、何人もの武器を持つ男達に狙われている際の、怯えた顔だった。

 ここまで機転を利かし、フィールと共に逃げおおせてきたアイナは、どこかヒーローのようにフィールの眼には映り始めていた。

 しかし、アイナ自身はただの少女なのだ。

 クオリアの心を見守ることと、美味しい料理を作ることが大好きな、当たり前の様に暴力が大嫌いな少女でしかない。


「ごめん。私のせいだ」

「そんな事ない、です」


 目を落としたフィールに、恐怖を振り払うようにアイナが首を横に振った。


「何々のせい、ていうならフィールさんは何か悪い事をしている筈じゃないですか。でも私からはそうは見えません」

「そこは関係ないよ。重要なのは、今アイナは私が狙われている事の、とばっちりを受けている事。ユビキタス様の教えに従うなら、私はこの場合一人で逃げるべきだった。自分の荷を、誰かに負わせてはならない……って」

「……」


 アイナの顔に一層影が縫い付けられた気がした。ローカルホスト直前で霊脈について触れていた際に、アイナがフィールを拒絶したことがあった。今のアイナは、その晴天教会そのものへ抱く負の感情を露わにしたような表情だった。


「……ごめん。私の行動指針は、基本晴天経典ユビキタス様なの。あなたにとっては、憎い敵の様に思うのは分かる。でも……」


 でも、フィールは今更ユビキタスから授かった教え以外の信条で進むことはできない。

 産まれた時から隣で見守ってくれた教えを胸にした、生まれながらの信徒故。

 さりとて、獣人と晴天教会の信徒は水と油。

 サーバー領の教えでは、獣人の差別はないものの、それでも晴天教会という名前を見るだけで獣人の中には暴徒と化す人物もいるくらいだ。2000年という期間は、本能さえ蝕む程に長すぎた。


「フィールさんとは、会ってまだ、一日だけど……」


 アイナが口を開いた。


「あんなに孤児の子供達に好かれてる人が、突然命を狙われていい理由なんて無いと思う。フィールさんが人質にされるのは間違っていると思う。それだけは、私の中に、絶対にあるって言える」


 走り書きの、読みづらい自分の文字をなぞる様にして、アイナは続ける。


「フィールさん。今は助ける理由とか、助けない理由とか、そういうの考えるのを止めにして。考えだしたら、私は獣人としてあなたを見捨てないといけなくなる。突き動してくる私の『フィールさんと一緒に逃げる』って選択を、今はブレさせないでください」


 晴天教会を憎む目。

 同時に、その憎しみをも潤す慈愛に満ちた瞳。

 更には、“意志”が瞼の一番奥でどっしりと腰を下ろしている。


「野暮な事言ってごめん。分かった。今は逃げよう。私も、捕まりたくないし、アイナに捕まって欲しくない」

「でも、もしここに来たら……」


 逆光で白くぼやけ、黒く沈む世界をアイナは一瞥する。


「フィールさん、私一度反撃っていうのをしようと思います」

「反撃!?」


 フィールが反芻すると、アイナは何か使える者はないかと辺りを探す。


「……人はね、こっちが反撃する生き物って分かった途端、走る速度が遅くなったりするの。私達は怖い。怪我をする。最悪死ぬ事もある。そう思わせることが出来れば……」


 左側。この建物はそれなりに老朽化しているせいか、壁が脆くなっている。その副産物か、昨日の雨が浸透し、室内へ雨水を垂れ流している。雨水は、先程アイナ達が上がってきた会談を濡らしている。

 右側。この建物の所有者のものだろう。錆びた騎士の甲冑が飾られていた。

 自分。魔導器“スタンガン”を握っている。

 クオリアならばこう言うのだろう。

 “最適解、算出”――最も、アイナに出せるのは拙い作戦程度だが。


「えっ? あ、アイナ!?」


 フィールが絶句したのは言うまでもない。

 隣でアイナが突如、上半身を脱ぎだしたのだから。

 通過する布を遣り過ごして呼吸したアイナの上半身は、奇麗な母性の膨らみを包む、桃色の下着だけになる。居るのは女性だけとはいえ、少し顔を赤くしながらフリル付きのメイド服を見て口にする。


「何をやろうとしてるの」

「たった一つしか思いつかなかった、冴えないやり方です。これが駄目ならフィールさん……


 フィールはこの時、アイナという少女を改めて誤解していたと気付く。健気さ、可憐さとは裏腹に、『生きる』事については泥まみれになりながらも最後まで足掻く。そんな精神の強さを、この時初めて知った。


『個体名“アイナ”の制御率97%』


 敏感になっていた二人の耳が、微かな鉄の摩擦音を捉えた。


         ■         ■


「はい。恐らくここに逃げたのは間違いないかと」

「ああ。私も同意見だ」


 現地の人間を使った際の利点として、その人間が情報を拾いやすいというものがある。例えばフィールとアイナの目撃証言を聞いて、どこに逃げたかを絞ることもたやすい。

 マスと、十名近い騎士の眼前には廃屋が聳え立っていた。まだ建物としては機能しそうだが、かつて所有していた昔の貴族が、心霊現象が成り立つには十分な凶行を繰り返した場所でもあるらしい。隣の建物には人が住んでいるのに、住む分には大きな目前の建物に人が集まらないのは、そういう理由がある。人の噂も七十五日、というのは時と場合によりけりだ。


「袋の鼠ですね」

「……そうとも言えん」


 楽観的な騎士とは対照的に、マスは未だ慎重だった。


「この建物の後ろで、何が聞こえる」

「川の音?」


 風情を感じるには不似合いな、鈍重な水流の足音が耳と心臓へ響いてくる。

 激流とまではいかなくとも、確実に流れは速いだろう。


「もし川に飛び込まれでもしたら、流石に追い付けんな」

「しかし昨日の雨で増水しています。飛び込めば溺死だって在りうる」

「追い詰められればリスクなど気にしないさ。それに忘れるな。二人に死んでもらっては、我々はまずいのだ」


 マスは思案して、独り言を延々と呟く。


「恐らく川の方向こう側に窓はない。川に飛び込もうとすれば屋上から逃げるしかない。が、裏をかいて我々を遣り過ごした後、入口から意気揚々と出てくることも考えられる……」


「入り口で二人待機。裏をかいて来た時用だ。残りは中を探索。時間との勝負だ」

「オラ達にはユビキタス様の加護がある。やっている事は正しいとお認めになって下さるはずだ」


 “雑談”で信仰心を暴走させているとはいえ、当のマス本人は神など素知らぬ顔で見上げると、すぐさま建物の中へ入った。

 鬼ごっこは終わり、次はかくれんぼだ。

 それは即ち、マスの仕事の、アイナとフィールの逃避行の終わりが近いことを意味する。



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