第306話 人工知能、傘をさす。
雨が、ロベリアを濡らしていた。
「お、クオリア君」
ラック侯爵所有の屋敷内とはいえ、スピリトのような護衛もつけず一人庭を歩いていたロベリアに、クオリアは窓から飛び降りて近づく。
王女としての強い顔と、少女としての弱い顔が、入り混じっている。
「そういえばまだ、霊脈から帰ってきてから話してなかったよね。ご苦労様。おかげでこのローカルホストは守られたよ。エスは大丈夫?」
「肯定。しかし、この24時間、戦闘は不可能だ」
「そっか。たくさん無理させちゃったね……」
少女の顔が、少し強張った。
あっけらかんとしている通常時とは対照的に、何か事が起これば真剣な守衛騎士団“ハローワールド”としての責任者の顔になる。
横たわる仲間たちの躯を積み上げてでも、ロベリアはその未来を選ぶ義務がある。但し、いつも前線で戦う騎士よりも、苦悩する顔を必死に隠しながら。
苦悩が堆積して、細い雨粒に濡れる今のロベリアがいる。
……そのままにしておけなかった。
「現在の状況は、理想的ではない」
「クオリア君?」
5Dプリントが起動する。
象られた“傘”が具現化した当時、開く。
布地が、ロベリアの代わりに断続的な雨音を立てる。
少女を雨から守るために出力したのは、テクノロジーとさえ呼べない、ただの道具だった。ロベリアの隣に並び、雨に濡れないように、傘を持ち続ける。
「人間は温度を下げた場合、肉体に大きな負荷がかかる傾向にある。早急に屋敷に戻ることを推奨する」
少女の頭上を
一瞬茫然としていたロベリアだったが、「ふーん」と、どこか意地悪そうな顔をして、クオリアの頬をつつく。
「クオリア君、これは“らーにんぐ”していたかな? 東の方のとある国じゃ、相合傘って文化があってだね。恋人同士がやる儀式なんだってさ」
「説明を要請する。恋人とは何か」
「うーん。例えばさっきの私のお風呂に入ってきたときに、目隠し取って、一緒に湯舟入っちゃう関係かな?」
「……げ、原因不明の、の、ノイズが、増幅……過去記録の再生を……破棄……不可……」
昼、ロベリアの湯浴みに立ち会った際には、しっかりとクオリアは目隠しをしていた。その先の視覚情報は完全にシャットアウトしていた筈だし、結局彼女の素肌に触れることはなかった。
だけど耳からは水音とか、水面を叩く足音止めどなく入ってきて。
そこはかとなく香った少女と石鹸の空気が、僅かな隙間から鼻孔を擽っていた。
聴覚と嗅覚で得た記憶も、クオリアは一切合切忘れる事ができていない。
少なくとも、半日が経った今でも、顔を赤らめながらエラーコードを口ずさんでしまうくらいには。
「ふ、ふふ、ふっふっふ……」
そして、そんなクオリアを見て、ロベリアは笑う。
心の底からの、飾り気も屈託もない、純粋な笑い声だった。
「やっぱりクオリア君はいいねー……ピュアっピュアで、一緒にいて本当に面白い……! なんか、久々に私に戻れたって感じだ」
「あなたのその表情は、最初にあなたと対話した際の表情に近い」
「……夜が明けたら、あのルートが来て、もしかしたらこのローカルホストが戦場になっちゃうかもしれないなんて、信じられないくらいに面白い……このまま時が止まればいいのにな」
きっとこんな雨水程度に潤う世界なんて、どこまでも走っていけるんじゃないか。そんな風に街から仄かに蛍の様に浮き出る灯、そして霊脈の微かな光に彩られたローカルホストを眺め、ロベリアは続ける。
ただし、徐々にその表情に影を差しこませながら。きっと、“覚悟”とも呼ぶ。クオリアはそう判断した。
「明日は、それくらいに熾烈だよ。“会談”なんて、そんな生易しい話し合いで終わるわけがない。たとえルート一人で来ても、あの人のことだから、きっと何か私の想像しきれない事をしでかす。それくらいのつもりでいないと」
「あなたは、ルートを非常に警戒している」
「うん。ちょっとトラウマ入ってるまであるかな。
「ルートの脅威度を再登録」
「昔からそうだった。周りの男たちを、たとえ貴族や有力者でも手足の様に使い、自分だけの楽園を作り上げる。もちろんそれはルートの例外属性が本当に例外中の例外なのもあるけどね……とにかく私達は目の敵だった。お母さんが生きてた頃のスラム街の方が全然マシだった。ヴィルジンが介入して何とかなったけど……私も、例え政略結婚してでも、身の振り方を考えないといけないなって、感想を抱いちゃうくらいには、ね」
と、その話をして、ロベリアはスピリトの事を思い出したらしい。
ロベリアにとって、たった一人の家族。今は自室にいるであろうスピリトを思い浮かべながら、小さく表情が緩む。
「生まれて初めてだったよ。あんなにスピリトと喧嘩したの」
昼から夜にかけて、相当長い時間にわたり、言い合う声をクオリアはラーニングしていた。だが、止めることはしなかった。あの長い緊迫は、確かに必要な痛みだったから。
「あなたは“喧嘩”を通して、スピリトから何をラーニングしたのか」
「なにも?」
両肩を竦めるロベリア。
「でも、何か心が晴れた。それだけ」
「肯定」
「……ここでルートに怯えてちゃ、またスピリトにグーパンされるから。だから明日の会談は、勝手に船に乗りかかった身として、最後までラック侯爵の味方として最大限の動きをし続ける」
傘の下で、深く息をするロベリア。
落ち着かせている。
心を、沈ませて、鎮めている。
「クオリア君。最後まで、付き合ってくれる?」
「肯定」
「あ、ちなみに今の“付き合ってくれる?”ってね、恋人同士になる為の質問なんだぞ?」
「“えっ!?”」
囁かれた驚愕の事実をラーニングして、思わず予期せぬ
「うっそー! やっぱりクオリア君、いいねぇ……」
「きょ、虚偽の報告は、あ、誤っている!」
一部裏返った声で反論しながらも、ロベリアの笑みに“美味しい”を検出したクオリアだった。笑い声の一つ一つに、心が取り戻されている。
その心を、明日は失わせたくない。
「よ、要請を繰り返す。早急に屋敷に戻ることを推奨する」
「ありがと。でもその前に、どうしても話をしたい奴がいてね。私の中で、ある程度の整理しておきたい事があってね」
「それが、ハルトか」
「うん」
クオリアは、ロベリアについていき、ハルトが捕えられている地下室に向かう。昼、
「ろ、ロベリア……!? クオ、リア……!?」
クオリアの中に、ノイズが迸った。
格子の越しに見えるは、ハルト=ノーガルド・テルステル。
明日の会談における、クオリア達の手札の一つであり、現在人質の使徒である。
――クオリアから見れば、“嘘”のノイズに全身を包まれた、異常な性質を持った不可思議な個体である。
「クオリア君にも教えてあげる」
凍てつく目線をハルトに向けて、ロベリアは語った。
恐らくその脳裏には、とある魔術人形の今は亡き笑顔が宿っている。
「半年前、晴天教会が王都で何を起こしたのか。ルート“教皇”はどこから始まったのか。そしてこのハルトがどう関わっていたのか――そして、ラヴが、何故死んだのか」
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