第305話 人工知能、キスされる

 エスが起きない。

 

 クオリアによって屋敷のベッドに横たえられても、時間が経つにつれ焦燥と不安が貼り付いていくアイナに体中の雨水を拭かれても、まるで時が止まったようなエスの瞼は開かない。


「え、エスちゃん……」

「先程ハッキングした際には、生命活動の維持に問題が無いと判断している」


 エスの人工魔石にアクセスした際、“ノーフェイスゴースト”に脅かされ、スキル深層出力“超人タイタン”を始めとした魔力を使い切ったが故の、途方もない損傷を目の当たりにした。

 魔石内の魔力が一定以上失われると、魔術人形は破壊を迎える事もある。

 これはクオリアの魔力干渉ハッキングでさえ届かない領域だ。クオリアの魔力を分け与えたからといって、どうにかなる事とならない事がある。今回は後者だ。


「大丈夫ですよね、エスちゃん、大丈夫ですよね……」


アイナはエスの生存を信じながら、横に寄り添って掌を握りしめ続けている。

 祈るしかない。

 “頑張れ”、と。

 生死の境で揺蕩う命へ、人間も獣人も魔術人形も人工知能も、それくらいしか出来ないのだ。


 だが、クオリアは一件の解決策を算出する。 


「アイナ。二時間前までの記録では、台所にシュークリームが残っていた。現在もあるか」

「は、はい」


 台所から持ってきたシュークリームを、エスの真上に翳す。


 その時だった。

 まず、エスの鼻が僅かに揺らぐ。


「はむっ」


 


「予測修正、無し。エスの再起動を認識」


 頬を鼠の様に膨らませて、シューの生地と、中に溜まっていたクリームの甘味をのっぺり顔で堪能するエス。

 

「私は、シュークリームと適合するのはカスタードクリームだと判断します。従って、美味しいです」

「ああ、良かった、エスちゃん……!」


 涙目のアイナに抱き着かれながらも、まるで何日間も食べていなかった救助者の如く、むしゃむしゃとシュークリームを平らげていく。密着するアイナに程よい焼き色のシュークリームをエスが手渡すと、まるで姉妹の如く、くっついたまま一緒に食べ始めた。


「クオリアも食べてください」


 食べたものは人工魔石が“消滅消化”させるが故、お腹周りとか、血糖値の上昇とか気にしなくて良い系少女エスが、一つのシュークリームを手渡す。

 狐色の菓子をクオリアも手に取り、齧る。


「“美味しい”」

「はい。皆で食べる食事は、美味しいです」


 若干の満悦さが見えるエスよりも、クオリアの安堵に満ちた表情の方が、振れ幅が大きかった。エスの魔石にアクセスして、無事だという事は分かっていたし、シュークリームの匂いを検知すれば即座に食べようとする事も読めていた。

 しかし、仮想演算では得られない安心が、クオリアの心を温めていた。


 一方、アクセスしたからこそ、認識したエスの“傷”にも着目する。


「しかし、やはり人工魔石内の消耗は激しい。魔力不全が発生していると推測する。最低この後24時間は、スキルの発動は禁則事項に含めるべきだ。また、この休息期間は睡眠スリープ状態を維持する事を要請する」

「……」


 何か諦められないエスの目線が、クオリアで固定されていた。

 ここから24時間――寧ろこの後が“本番”だと、エスが眼で語っている。

 明朝には、ルート教皇とランサム公爵がこのローカルホストに到着する。“会談”の内容次第では、エスのスキルが重宝する部分が出てくるだろう。その目的が戦闘であれ、そうでない場合であれ。

 また、クオリアはずっと警戒しているが、“デリート”と呼ばれる目下最大の脅威だっている。一度ローカルホストを殲滅しかねなかった緋色の槍“焚槍ロンギヌス”がいつ来てもいい様に、既に最適解を張り巡らせている。だがこと戦闘となれば、やはり一人でも戦力は多い方がいい。


「理解を要請する」


 そんな抜き差しならない状況でも、クオリアはエスの身を案ずることを優先した。


「ローカルホストは、また、アイナ達の守衛は、クオリアが実施する。だから、“休ん、で、て。エスは、よく、がんば、った”」


 “なでなで”をしながらの心からの言葉に、エスは遂に頷いた。


「要求は受諾されました」

「クオリア、お前の頬にカスタードクリームが着いています」


 美味しさに演算を乱されていたせいか、クオリアの口元にはべったりと艶のある芥子色のカスタードクリームが付着していた。

 それをクオリアが手で拭う前に。

 エスの唇が、それを攫っていった。


 つまり。


「え、エスちゃん!? そ、それ……キス……!?」


 クオリアは、“キス”を認識していない。

 殆ど唇と唇が重なったその意味を、クオリアは理解していない。

 アイナが顔を赤らめながら指摘する理由を、クオリアは知らない。


「このカスタードクリームは、やはり美味しいです」


 エスは本当においしそうに、クオリアの唇から奪ったカスタードクリームを舐めて、蕩ける感触を舌の上で味わう。

 そんなエスにしがみつかれながら、クオリアは茫然としていた。

 演算回路が、完全に壊れてしまっていた。


「……」

「説明を要請します。クオリア、シュークリームが美味しくないのですか。

「え、エラー、げ、原因不明、論理不明、しかし、非常に、膨大な、値が、え、は、破棄不可……」


 人工知能は、“キス”を知らない。

 だから“ファーストキス”なんて概念も知らない。

 さらに不幸なことに、エスも“キス”のどこに問題があるのかを知らない。


 しかしエスの無邪気な唇が、触れた。確実に、柔らかいものが触れた。

 奪われたファーストキスの値の分だけ、クオリアの演算回路が何故かオーバーフローを始めた。


 ただ唇と唇が重なっただけのことなのに。

 何故、ノイズの津波に飲み込まれていくのか、人工知能には理解ができない。


        ■         ■


「……」


 声を立てることはできない。

 キス騒動から少しして、目前のベッドには、アイナとエスが同じ布団の中で抱きしめあいながら眠っていたからだ。アイナの、エスを庇うような寝相。エスの、心地よいスリープ状態。どちらも邪魔をしては、いけない。


「……」


 クオリアは反芻する。実は、厳密に言えば“キス”は初めてではない。

 アイナに対して、唇と唇を重ねたことがある。

 ――ただし、バックドアに肺を貫かれ、心停止したアイナが息を吹き返すための、蘇生行為人工呼吸の過程として行われたことだが。


 人工知能の“記憶”は、人間になっても凄まじい。

 “瞬間記憶能力カメラアイ”と呼ばれる体質を持つ人間がいる。全ての物事を、枝葉に至るまで完全に記憶してしまうのだ。本人の意志も関係なく、強制的に記憶してしまう。

 そして、クオリアも例外ではない。最も、彼の場合は人工知能がインストールされたことによって呼び起こされてしまった機能ではあるが。

 しかし、デメリットも存在する。

 

 


「……」


 明日は、またこのつらい記憶を重ねることになるかもしれない。

 その時倒れているのは、フィールかもしれない。ロベリアかもしれない。スピリトかもしれない。エスかもしれない――アイナかもしれない。

 何せ、“げに素晴らしき晴天教会”のトップが来るのだから。枢機卿の中で最高の権力を誇るランサムと、晴天教会の中で最高峰に位置するルートが来るのだから。

 そして、いつまたデリートが“焚槍ロンギヌス”を投擲するかもわからないのだから。


「……」


 断じて、そんなことはさせない。

 もし死に瀕しそうになったら、今日のエスみたいに救ってみせる。

 ランサムが相手でも。ルートが相手でも。

 そして、デリートという怪物が相手でも。

 今回、間に合わなかった魔術人形“2.0”のようにはしない。


「ロベリアを認識」


 決意を高めて、固めていくクオリアは、窓辺から認識した。

 ハルトがいる地下室に向かう、ロベリアを。

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