第32話 人工知能、男の子だった②
「ひゃ……ご、ごめ、……おし、おし、お尻……あっ」
噴火しそうなくらいにピンクに染まったスピリトの頬。
受け止めたクオリアの手が、小さな尻肉を掴んでしまっていた。
タオル越しとはいえ、少女の臨界点を超えるには十分すぎる。
完全に心のアナフィラキシーショック状態。パニック状態になったスピリトは、必死に下腹部を抑えるのが精一杯のまま、クオリアに抱きかかえられていた。
しかしそれよりも変化があったのは、クオリアだった。
「エラー。スピリトに不利益を与える行動の為、視覚情報並びに触覚情報取得を破棄……破棄不可」
「く、クオリア……?」
「エラー。エラー。エラー。演算にノイズ発生。エラー。エラー。予期出来ないエラーあり」
クオリアは硬直して、スピリトの半裸に釘付けになっていた。
水滴塗れの濡れた体。
触れれば崩れそうな細い線。
反射する鎖骨。
平坦な胸を包むタオルの境界線。
太腿の上まで露わになりそうな禁断の領域。
そして左手に伝わる、湿ったタオル越しに検知してしまった、柔肉の体温。
全部、処理しきれなかった。
反射的に、スピリトから距離を取った。
そして盛大に滑った。
精密にして緻密な最適解が崩壊した瞬間である。
「く、クオリア……?」
鉄仮面は剝ぎ取られ、女体に戸惑う純朴な少年がそこにはいた。
スピリトも我に返る程、起き上がったクオリアの眼球挙動が壊れていた。
スピリトの素肌の方を向いたかと思えば、すぐに明後日の方向を向く。
瞼が閉じたと思ったら、すぐに開く。
壊れた機械のように、ぐるぐるした瞳で繰り返す。
「状況不明……エラー……状況不明。全身の神経伝達に異常が発生している」
人工知能時代には無かった筈の、原因も正体も不明のエラー。
その嵐が、クオリアのCPUを席巻し尽していた。
ただ、スピリトの半裸体が、クオリアの認識に強烈なノイズを与えている。
それくらいしか、辛うじて理解できなかった。
「おやおや? もしかして女の子の裸を見るのは、これが初めて?」
ロベリアが興味深そうな顔をしながら、湯から上がりクオリアに近づく。
クオリアがロベリアを
「否定……3日前に読んだ魔術書にて、女性の外見的特徴、並びに肉体特徴についてはラーニング済……」
スピリトにはない、胸部の流動的なゆらめき。タオルでも隠し切れない、真っ白な太陽が二つ。
定まらなかったクオリアの眼が、ロベリアのそれ二つに釘付けになった。
「予期出来ないエラーあり。今のロベリアに触れる事は、今のスピリトに触れる事は、あなた達に不利益を……」
「あれ? もう目は瞑らないんすか? ちょっと視線の位置が“美味しくない”んじゃありませんか?」
ロベリアも少し恥ずかしげにタオルを抑えながらも、クオリアと同じ視線までしゃがむと、えいえいと硬直したクオリアの頬を突っつく。
「このエロ人工知能さんめ! やっと男の子らしいところ見せよったな!」
しかしロベリアは責めてはおらず、寧ろ真っ赤な顔をしている目前の少年が、本当にただの人間だった事を確信していた。
「やっぱり嫌らしい気持ちになるんだ……」
そう言いながらも、スピリトはクオリアの手を掴んで立ち上がらせる。クオリアが滑りそうになると、ぎゅっと手を握って支えるのだった。
クオリアには、その小さな手の柔らかささえ思考を鈍らせるノイズになる。
しかし、離したくもない手であった。
「けど、何か安心したわ。なんでか、分からないけど」
「“あり、がとう”……エラー、演算にノイズ発生」
「ありがとうはこっちの方よ。君がいなきゃ、私頭ごっつんだったんだから」
やっとお互いに目を見開いて、クオリアとスピリトは話す事が出来た。
その真っすぐで優しい目を見て、少しだけクオリアの中で色欲のノイズが薄れていた。
「大体、まだ君には“ありがとう”を言いきれてないんだから。君のお陰で私は前に進む事が出来そうよ。だからこそ、あなたに『参った』したのよ」
タオルが解けそうになったのか、顔を赤らめながら支えて目を逸らす。
その頃には、クオリアは眼をちゃんと瞑っていた。
「……昨日も言ったでしょ。君を呼んだのは私なんだから。裸見られた程度でやいのやいの言わないっての」
「否決する。あなた達の“美味しい”を奪う可能性がある。
目を瞑ったまま浴場を去り行くクオリアの背中に、ロベリアからも温かい言葉が刺さる。
「そこで人の笑顔ってのを考えられるのが、君のいいところだぞ……まるで、ラヴみたいだ」
■ ■
その後、ロベリアは裏庭に座り込んでいた。
「いやー、ラヴ。やっぱクオリア君、あなたにそっくりだわ。ラヴとクオリア君のコラボ、見てみたかったな」
呟くは独り言。
しかし目前の十字架に、気の置けない竹馬の友と語り合うかのように話しかけていた。
「でも一番そっくりなのは、ラヴと同じ夢を持ってる事だよ。笑顔を“美味しい”って愛しているんだって。皆を笑顔にする為に、笑顔を守る為にめっちゃ頑張ってる」
冷たい夜風が、きめ細やかなロベリアの黄髪を揺らす。
短く刈られた芝生も、『R.I.P. LOVE』の隣に置かれた
きっと、クオリアが今のロベリアを見たら言うのだろう。“美味しくない”と。
自分でそう戒めると、自分の両頬をパンパンと叩く。
「……私も一層頑張らなきゃ。もう誰も理不尽に笑顔を奪われない、背伸びした夢って奴を叶えるためにね」
小さな決意を口にして、ロベリアは視線を地面へ向ける。
そこに広がっていたのは、ロベリアも知らないラヴに関する一つの謎。
供えられた、
「それで前々から聞きたかったんだけど……私も知らないその花は、誰のもの?」
ロベリアが墓参りに来るたびに、高頻度で花が置かれている。
今日も例外ではない。内一つはロベリアが置いた花だが、もう一つは心当たりがない。
スピリトはラヴとは面識が無いから違う。昨日から来たクオリアとアイナも違う。
何度か花を供える人物を捕捉しようと試みたが、失敗している。気づいたら置かれている。
置かれていた花は、今回もヒマワリ。
「ん?」
しかし、今日はいつもと違うところがあった。
ヒマワリの花に、手紙が添えられている。
『ラヴの親友、ロベリア第二王女へ』
手紙は、ラヴへのものではなかった。
明らかに、ロベリアに宛てられたものだった。
書かれていた二つ名は、ロベリアも初めて見るものだった。
『獣人のテロ集団、蒼天党に“古代魔石”が流出した。王都が滅びる可能性がある。至急調査されたし――
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