叛乱の疑いをかけられたかつての憧れの先輩ルカに審判を下すため、主人公のナギは使命を帯びて彼女の駐在する基地船に乗り込みます。
飼い慣らされ武装したイルカたちとナギを出迎えたルカは、1匹のイルカが脱走したことを打ち明けて――
私情をこらえて、任務に従ってルカを疑いながらも、脳裏のどこかで「何かの間違いじゃないか」という可能性を探すナギの描写は、
決して直接的にその心情が描かれる(語られる)のではないからこそ、
だんだん彼女の押し殺した感情が、こちらの方まで浸透してくる感覚を味わえます。
果たして、ルカは裏切ったのか? だとしたらなぜ?
そんなシンプルな疑問の前にナギの目線と思考をなぞりつつ、「信じていいのか?」と読んでいる自分自身も自問しながら、
興味をそそられるSF的ガジェットの描写の数々に飛び込んで読み進めるうちに、
ふと、何よりもナギの心情に没入していることに気づきました。
それは、海洋が舞台の物語でありながらキーワードとして選ばれたのが、一見ミスマッチにも思える「火」であることと、決して無関係ではないのだと思います。
ニューロンの発火――わたしたちの意識の奥底に宿り、形づくるための「火」。
量子の海の深層で「火」としてたゆたい、ふたりが触れ合う場面が幾度と出てきますが、これらが単にSFチックで幻想的であるだけでなく、感覚的・肉体的な実感とともにイメージしやすいものとして描かれます。
そうした素地があるからか、ルカの反乱疑惑という一連の顛末はきれいな展開で描かれていく一方で、
個人的にそれ以上に印象に残ったのは、その先に待つラストシーンの最後の一文でした。
ナギのたった一言の独白による、この物語の鮮やかな総括です。
あたかも、ぬるくて心地よい海中から海面へと飛び出した瞬間に、ひどく冷めた潮風が吹き抜けていったかのような喪失感、ともいうような感覚をぜひ味わって頂きたいと思います。
ある意味ではバッドエンドでも、そんな一言でまとめてしまうには惜しい感慨と余韻を感じられるのではないでしょうか。
深海にゆらめく蒼い灯火のようなエモーションに貫かれた、感傷の物語とも言える一作。
あまりこういった紋切り型の言葉を使うべきではないかもしれませんが、敢えて……わたしにとっては、とても好みの百合SFでした。
量子の海を泳ぐ訓練を受けた主人公のナギ。彼女が本部の戦術指令システムの「件」(くだん)から受けた任務は、海軍学校時代に寮で同室だった先輩のルカにかけられた反乱の嫌疑を調査すること。支援AIのクラウスと一緒に向かった先で待ち受けていたものとは……
全編を通して映像があざやかに浮かびます。量子コンピューターという本来ならただのデータの層に過ぎないものも、そこにダイブするナギとルカの姿をくっきりと見せてくれます。
映像が浮かぶのは仮想世界だけにとどまりません。現実世界のナギ、ルカ、そして兵器として使用される哀しいイルカたち。それがムダのない、それでいてすべてが後のストーリーにつながる洗練された文章でつづられています。
そこはかとない百合風味は好きな方も多いかもしれません。モチーフとなっている近未来の情報システムも、SFとして重要になる整合性をすべてクリアしています。そして何より、ストーリーに動きがあります。また、ナギがルカへの思いを抱えながらも任務を遂行するところには、昨今の小説にはあまり見られないところがあるように思います。
この小説は既存の小説と趣きを異にしていますので、そこで意見が分かれるかもしれません。ですが、わたしはわたしの求めていた新しい小説のお手本を見せていただいたような気がします。それにストーリーが秀逸です。
たぶん小説としてはいつも読むものと違うと敬遠される方でも、これが映像になったら好きになられる方は多いのではないでしょうか。
わたしは傑作だと思います。