二章

第36話 がんばれ、鞘戸天那

 目覚ましの設定時間は午前四時三十分。これは、高校に入学してから一度も変えていない自分ルール。起きてから三十分かけてゆっくり体を慣らし、最低限の身だしなみを整え、五時ちょうどにランニングを開始。自宅の周辺をぐるっと回って帰宅する頃には、薄暗かった世界がお日様の光で包まれ出している。それが、辛くて面倒な早起きを支える、ほんのわずかなご褒美。

 帰ってからは、汗を吸った下着とジャージを洗濯カゴに放り込んでのシャワータイム。汗と一緒に疲れも流れていくようで、これが結構クセになる。髪を乾かし、学校へ行けるだけの準備を終えた頃になると、リビングにはお母さんが作ってくれた美味しい朝ごはん。それをお米一粒残さず食べて、電車に間に合うよう出発。学校に着いたら着いたで七時過ぎから始まる朝練があり、その間に生徒は続々と学校に集い出す。……教室に行けば、今日も彼と話せる。いつの間にか増えていた原動力が、日々の私を支えている。


 だが。


「うっそー…………」


 現在時刻、驚愕の午前七時。普段と比べて二時間以上も寝過ごして、これでは朝のランニングどころか部活の朝練にも顔を出せない。強制参加ではないから怒られたりはしないけど、皆勤賞がこんなにあっさり途絶えるなんて思ってもみなかった。


「あ、目覚ましかけ忘れ……」


 あまりに単純なミスで、ずっと続けてきた日課にぽっかり穴が空いた。そのことに、しばらく茫然。しょっちゅう抜けてるって言われてきたものの、これだけは三年間きっちりやり遂げるつもりだったのに。

 ベッドの上から動かずあんぐり口を開けっぱなしにしていると、コンコンというノック音。返事をしようと思ったが、その前にドアの方が開かれた。


「生きてるー?」

「あ、お姉ちゃん」

「珍しいわね。なかなか帰ってこないからどこまで走りに行ったのかと思えば、シューズが玄関にあるんだもの。どうかした? 具合でも悪い?」

「ううん、寝坊……。目覚ましセットしてなかったみたい……」

「なら、早く起きて準備しなさい。お姉ちゃんはもう会社行かなきゃだから」

「うん、そうするー」


 寝起きの頭で促されるまま部屋を出る。――すると、敷居のラインを越えたあたりで、六つ年上のお姉ちゃんに顔をむにっと挟まれた。


「ひゃい?」

「嫌なことあったでしょ」

「……んー」

「天那がおかしな凡ミスをするのって、大体気持ちが落ち込んでるときなの。……なに、失恋?」

「……そこまでじゃないかも」

「好きな男の子と喧嘩しちゃった?」

「けーくんは喧嘩するような人じゃないし……」

「へえ、けーくん。部屋に飾ってあるふにゃふにゃピースの子、そんな名前だったんだ」

「あっ……!」


 失言で一気に目が覚めた。そもそもお姉ちゃん、なんで私がこっそり飾った写真のこと知ってるの。……去年の文化祭中にお願いして撮ってもらったツーショット。けーくんと一緒に写っている写真の中で、一番きれいなやつ。


「い、言わないでね? お母さんにもお父さんにも」

「言わない言わない。っていうか、そんなこと告げ口してどうするの。……で、なにがあったか教えて?」

「……学校のみんなが知ってるようなすっごくきれいな子が、けー……じゃなかった、その男の子のこと、好きみたいで」

「なるほど、恋敵。好きみたいっていうのはどうやって知ったの?」

「……直接、あげないよって言われた。全部もらうって」

「それで、勝ち目がなさそうだからくよくよしてると」

「ん……」

「よしよーし」


 寝ぐせがつきっぱなしの頭を、お姉ちゃんに撫でられる。昔からずっと同じことをされているせいもあってか、これをやられると体の力がふにゃふにゃに抜けてしまう。


「だいじょーぶ。みんな知ってるきれいな子がわざわざ天那に挑戦状叩きつけたってことは、向こうも天那のことを意識してるのよきっと。……それに、天那だって私やお母さんに似て美人なんだから」

「お姉ちゃんみたいにもうちょっと大人っぽい顔がいいよー……」

「贅沢言わない。私よりずっと大人っぽいもの持ってるんだから」

「夕ちゃんみたいなこと言ってぇ……」


 小学校の終わりから大きくなり始め、未だに育ち終わる気配がない胸は、スポーツの邪魔にしかならない。下着もかわいいデザインが見つからなくなり始めているし、じろじろ見てくる男の人は多いしでやなことばっかり。……それに、もしもけーくんが字城さんみたいにスレンダーな子が好みだったら、どうすればいいんだろう。夕ちゃんはこれを武器にしろって言ってたけど、けーくんから胸周りへの視線を感じたことはないし。


「天那に好かれるだけで十分幸せ者なのに他のきれいな子まで射止めるって、どういうこと? 口説き上手なの?」

「……確かに、おしゃべりは得意かも。人を落ち着かせるのが上手っていうか」

「へえ。いつか私にも会わせてね。家に連れて来ることになったら言って」

「もう!」


 それどころじゃないという話だったのに。……でも、ちょっと気が楽になったかも。けーくんの寝顔がどうこうって言われたときは頭が真っ白になったけど、もしそういうことがあったとしたら、一々私に言う必要なんかない。ということはつまり、けーくんはまだまだフリー。


「遅刻しちゃうよお姉ちゃん! 私も早く準備しないとだから!」

「はいはい。行ってらっしゃいのキスは?」

「したことないよそんなの!」


 怒らない怒らない。そう言って、お姉ちゃんは階段を下りて行った。……私の周りの女の人、基本みんな優しくしてくれるんだけど、個性が強いんだよなあ。夕ちゃんしかり、お姉ちゃんしかり。そんなにからかい甲斐があるのかな、私。


「……あ!」


 ここで、閃き。ルーティーンが崩れ去った代わりに、今日は朝からけーくんとお話できるかも。いつもはくたくたなのと時間がないのとの二重苦でおはようくらいしか言えないけど、今朝なら話は別。


 転んでもただでは起きない。がんばれ、鞘戸天那。


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