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 ***


 百合子は意識が浮遊するような、妙な感覚だけを持ち合わせながらそこに居た。永遠を一瞬で旅したようだと、目を瞑りながら考える。

 周囲からは生徒達の談笑が聞こえていた。百合子の体験は、神の声や自身の強い確信が無ければ、夢と大差ないものだろう。事実、横で百合子の顔を心配そうに覗き込んでいる三編みの少女からは、寝ているようにしか見えなかった。


「はっ」

「だ、大丈夫ですか?」

「えぇ。ちょっと戦争をしてきたわ」

「よりにもよってそんな世界に飛んでたんですか!?」


 百合子が顔を上げると、そこはくん‘sほぐれ2学園の舞台である学校だった。トレーは眼鏡の少女が片付けてくれたらしく、食堂のテーブルから顔を上げた百合子の目の前には何も無かった。百合子がそれについて礼を言う前に、彼女の方から身を乗り出してきた。


「あの、どうやって他の世界に行くんですか?」


 外見にそぐわない積極的な姿勢に、百合子は少し驚きつつも対応する。モブとして勤勉な者は嫌いじゃない。


「あなたはまだ経験ない? 頭に、神の声が響くの。ちょっとスポット的にモブやりにきてって」

「随分カジュアルな誘い方するんですね、神様……」


 百合子の言うことに嘘偽りはない。彼女のようなデキるモブは、全ての物語の世界を管理する存在から声が掛かるのだ。ただ、それは誰にでも訪れるチャンスではない。というか、ほとんどのモブはすることのない経験である。しかし、彼女は自身が稀有な存在であるという自覚があまり無かったりする。

 現に、おさげの女はどう見ても百合子をモブの先輩として敬愛していたが、彼女は自分に向けられている感情の一割ほどにしか気付いていない。この女生徒はくん‘sほぐれ2学園のモブを任命された直後から、百合子と接触を持ちたがっていたのだ。たまに挨拶を交わすだけの間柄から、先ほどようやく昼を共に過ごす者へと昇格したばかりなのである。


「それで、私の意識が飛んでる間にこちらの世界に変化はあった?」

「いいえ、何も。もしかすると、私達が介入するタイミングなのかもしれません」

「……そうね、それは薄々勘付いていたわ。ただ、下手に動くと……」

「はい、私にはとてもできそうにないです……」


 縋るような女の視線に、百合子が気付かなかった訳ではない。二人の声が自然と小さくなる。万が一、周囲にメインキャラクターがいると都合が悪い。さらに、それだけではない。その他モブもまた、警戒対象だった。

 作者の気まぐれにより、モブから脇役キャラになる例も無いことはない。物語が停滞してくると、そんな宝くじが当たるようなラッキーをなりふり構わずに狙おうとするモブもちらほらと出てくる。そんな輩に、進行に関わる噂話を聞かれることを避けたのだった。


 彼女達が話しているのは、モブが積極的に物語に介入してストーリーを進めるという、一歩間違えばその物語の方向性を変えてしまいかねない危険な賭けのようなものだった。

 ヒロインをいじめるモブ、主人公に告白するモブ。彼らは物語を円滑に進めるために、プロとしてその職務を全うしているのである。そしてたった今、百合子にその白羽の矢が立った。


「ちなみにあなた、名前は?」

「私は宮田みやた 律子りつこです」

「そう。まさに名は体を表す、地味で素敵な名前ね」

「ありがとうございます。私もこの名前、気に入ってるんです」


 繰り返し言うが、二人は何もバチバチと火花をあげながら嫌味を言い合っているわけではない。普通の人間の尺度で彼女達の会話を解釈しようとしてはいけないのだ。

 というのも、モブの世界では何の変哲もない名前が良しとされているからである。ちなみに、花子や太郎といった、何かの書類の記入例で出てきそうな名前は、大体は時代遅れと言われている。逆に目立つという名前から、改名するモブもいるほどなのだ。


「私、苗字はモブっぽくなくて、少しコンプレックスなの。私の魂が生まれた物語がそういう世界観で……あの中では違和感なかったんだけど……」

「モブにしては華やかですよね、百合子さんの名前」

「そうなのよね……だから、もし物語に私の名前が出ることになってしまったら……」


 一見モブとは思えないキャラクターの名前がコマに捕まる。百合子はそれを恐れていた。自分の名字が妙な存在感を発揮して、読者の気を引くようなことがあってはならない、と考えているのである。それさえなければ、この梅雨前線のように停滞している現状を打破することに一役買うのも、やぶさかではないのだが。


 百合子は目を伏せる。妙案が降りてこないものかと、テーブルに手を置いて考えを巡らせてみる。


「私達だけでは難しいでしょうね。もう一人、男子が居たほうが動きやすいかもしれないわ」

「それは駄目です」

「何故?」


 律子の真剣な表情に、百合子は少々面食らう。妙なことを言ったつもりはない。もとよりふざけてなんかいないのだ。ラブコメの性質上、男女で動いた方がいいというのは極めて合理的な判断である。しかし、どんな説得をしても、律子の意見は変わりそうになかった。


「訳を、訊いてもいいかしら」

「よく考えて下さい。三つ編み眼鏡の地味子が男子と居たら、違和感ありません?」

「違和感しかないわね」


 百合子ははっとした。つまり、律子は男子と行動してコマに捕まった時の絵面を気にしているのだ。典型的な委員長キャラのような容姿を持ちながらチャラチャラと男子と仲良くしているのは、彼女が言う通り変だ。そのような人間は、現実世界であればごまんといるだろうが、彼女達はモブ。少しの違和感も読者に与えるべきではないと考えているのだ。


「分かったわ。じゃあ、女子にしましょう。私はごく普通の生徒。律子さんは真面目系。できれば別の系統の女子がいいのだけど」

「それなら適任が居ます」

「あら、それは頼もしい」


 心当たりがあることに、百合子は密かに安堵した。律子は辺りを見渡し、何かを発見するとぴたりと動きを止めた。その光景に、百合子は動きどころか、息が止まりそうになる。何故ならば、律子が視線を送る先には、有り得ないキャラクターが居たのである。


 食堂のテーブルにつき、一人で食事をするその姿を見て、百合子は律子の心当たりとやらがその人物ではないことを祈った。が、祈りというのは往々にして届かないものである。


「あの子です」

「……」


 律子が指す方を見ると、そこには活発そうな茶髪のショートカットの女子が居た。百合子が、この子じゃありませんように、と祈った人物だ。

 座った姿を見ても背が高いのが分かる。気だるげにカレーうどんを啜るその姿は、とてもモブには見えなかった。百合子は目を細め、小声で律子に問いかける。


「あの人……モブなの……?」

「そうなんです……フットサル部らしいですよ」

「ダメよ、そんな、女子がフットサルなんて……!」


 あまりに目立ちすぎる。百合子は頭痛の気配を感じながら頭を押さえた。モブはモブらしく目立たない、普通の部に入ること。男子なら運動部、地味めの見た目なら化学部や文芸部。女子は吹奏楽部などの文科系の部活、運動部なら陸上部、バレー部、テニス部などに所属することが一般的だ。とにかく、学園ラブコメディにおいて、一目置かれかねない部活に所属することはそれ自体がギルティなのである。


 モブの世界のタブーとして、物語に深く関わり過ぎて読者人気が上がり、メインキャラに昇格する、というものがある。事実そのような漫画は存在するが、彼らは基本的にモブ達から疎まれているのだ。

 キャラ付けをして目立ち、連載中の昇格を目論むのは絶対に避けるべきだと言える。モブに嫌われた作品、キャラクターがどうなるかは想像に容易いだろう。キメ台詞の最中に他人がくしゃみをし、告白シーンはたまたま通り掛かった救急車のサイレンでかき消される、そんなことが恒常的に頻発するのである。


 かといって、彼らにメインキャラ昇格のチャンスが全く無い訳ではない。モブらしく慎ましやか、かつ完璧に仕事をこなし続けた者は、魂が輪廻する際にメインキャラをやってみないかと、神から打診を受けることがあるのだ。これこそが正規にして唯一の卒業ルートなのである。彼らはこの目的の為に、今日も密やかに、そして熱心にモブを演じ続けるのだ。


「……百合子さんはやっぱり、メインキャラを狙ってるんですか?」

「いいえ。考えたことないわ。私はこの役割を続けたいの」

「そうなんですか」

「だから、あんな目立つ子は黙って見ていられないわ」

「えぇ。私が彼女を仲間に入れたい理由も、実はそこなんです」


 律子は眼鏡を怪しく光らせて言う。そして彼女は語った、自らの思惑を。

 カレーうどんを啜る女の名前は、三原みはら 春華しゅんか。セオリーを裏切る名前の読み方を聞いただけでも、頭痛が酷くなるのを感じた百合子であったが、とりあえずは口を挟まずに律子の言葉に耳を傾けた。モブであることを自覚していないような春華の振る舞いを制御したいと、彼女は険しい顔で述べたのである。

 百合子としても、律子の意見には賛成である。そして二人は速やかに作戦会議を始めるのであった。

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