起首

 反応が薄い斎藤を訝しんで、どーした?と爽葉は首を傾げながら肩をとんとんと叩く。尚反応の返ってこない彼の様子を確認する術のない爽葉は、近くで酒を飲んでいた沖田の着流しの裾をちょいちょい、と引っ張った。


「なに」


 振り返った沖田が、爽葉の指差す斎藤に視線を移して、びっくりしたように声をあげた。


「一君、どうしたの!?」

「腹が痛い……」

「え、そうなのか?ハジメ、大丈夫か」


 沖田が芹沢に事情を説明し、急遽近くの岸に船をつけることとなった。斎藤を沖田と平山が両側から肩を組むようにして支え、岸に上がる。最初は爽葉も斎藤を支えようと沖田の反対側に回ったのだが、支えるのに力も背すらも足りず、見かねた平山がすかさず代わりを申し出たのだ。


「かたじけない……」

「気にするな」


 青白い顔で冷や汗をかく斎藤を心配して、酒が入って酔っ払っている他の隊士達も彼の為に何かしようと動いている。中には千鳥足で水を斎藤に届けようとした隊士もいて、結局器から水をすっかり溢した姿を、人のことを言えない爽葉が腹を抱えて笑っていた。


「とりあえず、休憩所がないか探しますか」

「そうだな。斎藤、暫し我慢しろ」


 平間の提案に芹沢が鷹揚に頷き、船からその身を降ろした。意外にも理解があった芹沢に、爽葉は酔っ払い隊士達を弄る傍ら目を細くした。機嫌でも悪くなると踏んでいたが、予想は外れたみたいだ。


「向こうは北新地みたいだね」


 爽葉は隊士達の背後からひょっこりと向こうを覗いた。小川に橋がかかり、その奥はこちら側より少し人の生活の空気が強い。確かに橋を渡った方が休憩所は見つかり易いだろうと分かる。芹沢を先頭に、ぞろぞろと橋を渡ろうとした時、向こう側からやって来た大男達の集団と鉢合わせた。人の重みで板橋が揺れる感覚に驚いた爽葉は思わず、未だ腹痛に苦しむ斎藤を抱えながら歩く沖田に飛びついた。


「ちょ、こら。今揺らさないで!」

「だって!橋が揺れてるよ!」

「相撲取りが大勢向こうから来ているんです。大丈夫だから」


 渋々沖田から離れた爽葉はおっかなびっくり橋を渡る。丁度隣を歩いていた平間の腕にしがみつけば、彼は何も言わなかったが、なんだこいつと向けられた視線が物語っていた。


「何だ、あやつらは」


 当たり前の様に、先に橋を渡って来ようとする相撲力士の集団を見て、狐のような芹沢の目がすがめられた。しかし、彼は堂々と爽葉達を先導して橋を渡ってゆく。揺れに慣れ始めた爽葉は平間から手を離し、あーあ、と頭の後ろで腕を組んだ。斎藤の肩をしっかりと組み直した沖田の意見と恐らく合致しており、お互いの言いたいことはわかっている。しかし、双方止めはしない。


「そこを退け」


 橋のちょうど中央で、大柄な男達の集団と芹沢が先頭を行く爽葉達の集団がかち合った。当然、芹沢は鉄扇を力士達の目の前に突き付け、そう命じた。


「お前等こそ、どけ」


 あちゃー、とさしてそう思って無さ気な調子で、沖田が笑った。


「一応御預かりの武士だけど、この格好じゃ分かんないよなぁ」


 爽葉はそう言って、自分達の格好を見えずとも見下ろした。皆、船上で酒食をするのだからと、随分楽な格好をしている。これでは只の浪人風情と勘違いしてしまうのも、分からなくもない。


「貴様、誰に向かってそんな口を利いている」


 橋を囲むように人が集まって来た。人が人を呼び、噂が噂を呼ぶ。確かに、橋の上で睨み合う男達の集団の様子は目立つ。何か一悶着、もしや乱闘でも勃発するのでは、と野次馬達が人垣を作り始めた。それが癪に触ったのか、芹沢の苛立ちが沸点に達した。


「退けと言っているのが分からんのか!この無礼者!」


 バシンッ!と肌を打つ音が高く響いたと同時に、一人の力士が肩を抑えてごろりと転げた。その巨大がまた橋に振動を呼んだ。それを上から見下ろして、鉄扇を振った芹沢は勝ったとばかりにいつもの不敵な笑みを浮かべ、その力士の横を肩で風を切って悠々と通り過ぎる。

扇一振りで力士を転がしたその姿を見た他の力士達は渋々橋の左右に寄り、芹沢達の為に道を開けた。沖田は芹沢に続いてその間を通りながら彼等の顔を見ると、羞恥に朱に染まっていた。おっと、これは波乱の予感。思わずにんまり、と唇が弧を描く。横を盗み見ると、爽葉も似たような表情を浮かべていて、彼も同じことを考えているのだなと思っては、またにんまり。野次馬の人々と退かせた力士の集団を橋に残して、芹沢達浪士組の集団は先へと進んだ。





「やりぃ!また俺の勝ち!今度は何処に描こうかなあ」


 うぎゃあ!と奇声をあげる爽葉の腕を掴んで身動きを封じているのは、沖田だ。爽葉の日焼けを知らないような白い顔には、既にばつ印やら髭やらが墨で描かれている。逃げおおせようとする爽葉を畳に押し付けて、墨汁をたっぷり吸った筆を持った沖田は意地悪に笑う。


「そんな嫌がんないでよ、ただ描くだけなんだから。ほらほら」

「お前がただ丸を描くだけで終わるかぁ!」


 やだやだと駄々を捏ねるように嫌がるも、体格に勝る沖田には力負けする。爽葉の両手両足は容易くまとめ上げられ、無防備にその間抜け面を沖田の前に晒した。ぎゅっと唇をすぼめ、斜め上に首をめいいっぱい伸ばしているものの、無駄な抵抗だ。


「大人しくしててくださいよ?ちょっとした賭けなんだから。大体、負けたのは事実でしょ?」

「それはそうだけども!」


 目が完全に弧を描いて、止まることを知らない彼のにまにまとした笑いが今にも目の裏に浮かんでくるようだ。先程から、彼は負ける度に爽葉の顔に筆で描くついでにくすぐったり、他の場所に墨汁を垂らしたり。ばつ印を描くだけに何分費やしたことか。


「酒が足りねえ!」


 酔った二人が戯れているその隣で、空いた酒瓶片手に赤ら顔で叫ぶ平間。酔っ払いに囲まれながらもだんまり一人、味を確かめるように渋い顔で酒を楽しんでいるのは平山だ。


「飲み直しだ!美しい女をもっと呼べ、上等な酒を持ってこい!」


 斉藤の介抱のために新地内の住吉楼という店に入った爽葉達は再度宴会の続きを始めていた。女を幾人も侍らせ、大声でそう新見に指示する芹沢。その更に奥で壁に背中を預け、ゆったりと酒の入った器を傾けるのは、体調が回復した斎藤だ。他の隊士達も飲み直しが大層嬉しいのか、和気あいあいと酒を開け続け、あれよあれよという間に大騒ぎ。その時、外が少し騒がしくなってきたのを、爽葉の聡い耳は勿論聴き逃さなかった。両頬にぐるぐると二つの黒い鳴門をこしらえた爽葉は、飲んでいたお猪口を放り出し、酔っ払いを押し退けて道に面した大きな障子窓を開け放った。片脚を窓枠に乗せ、道を見下ろして、げらげらとそれは愉快に笑い始める。近くで潰れていた隊士の手から酒瓶を奪い取り、煽れば、口の端から一筋の透明な水滴が彼の顎を伝った。


「いいねぇ。楽しくなりそうだ」


 にまにまとした笑いをそのままに、手拭いで適当に顔を拭って、墨を顔から拭き落とした。


「なになに。……へぇ、こりゃ面白い。今の酔い加減には丁度良いや」

「うん、酔い覚ましにもならないね」


 同じく酒を手に持った総司が窓枠に腰掛けて、爽葉の隣から顔を出して下を覗き込んだ。下の喧騒は益々大きくなり、窓も開け放たれたことで宴会に酔いしれていた他の皆にもその騒ぎ声が届いた。同時に宴会場の襖が開かれ、焦燥に汗を滲ませた住吉楼の主人が飛び込んで来た。前掛けを外すのさえ忘れて、慌てた様子。


「お客様!大変ですっ」

「どうした」

「力士達がぎょうさん店に押し寄せはって……」


 それを聞いた途端、突然部屋を駆け抜けた一人の隊士の声が、皆の視線を釘付けにした。


「爽葉!?沖田さん!?」


 両手をついて道を見下ろす彼の周りに、どっと皆んな駆け寄り、同様に街路を見下ろす。そこには。


「ひゃっほーい!おらおら、かかってこいやぁ!」

「なってないですね!ほら、振り下ろしが甘い!もっと身体を使って振りな!」


 げらげら笑いながら峰打ちを連打する爽葉と、鞘に収まったままの刀で気絶させ、酔って剣術の指導を始めた沖田がいた。相手は六角棒を持った、彼等より何回りも大きい体格の力士達なのだが、圧倒的力量の差が既に如実に表れている。しかし、それを見て、酒の入った生粋の剣士達が黙っている訳がなかった。


「てめぇ等だけ楽しんでんじゃねえよ!」

「俺らも混ぜろ!」


 二人を真似して次々と二階の窓から飛び降り、力士達に飛びかかって行った。残ったのは、腰を抜かしてあわあわと見下ろす主人と、余裕の表情で未だ酒瓶を煽る芹沢。


「三、四十人と言ったところか」

「あの。お、お客様……」

「心配せんでいい。この程度の乱闘騒ぎ、酒宴の余興には持ってこいだ」


 最後の一滴まで飲み干した彼は、空になった瓶を投げ捨て、膳を蹴散らしながら部屋を出る。そして一階へと続く狭い階段を降り、宿の玄関を大きく開けた。目の前には最早入り乱れ、混沌と化した乱闘現場。にやりと口の端を持ち上げて、鉄扇を一振り、腹から響く大声を出した。


「てめえ等、このまま帰れ!こっちは峰打ちで我慢してやってんだ。こっから先はそうは行かなくなるぜ。それ相応の覚悟と言うならば、刀を抜こうじゃねえか」


 それを聞いても尚飛びかかって来る力士達の姿を見て、満足気に芹沢は刀を抜き払った。しかし、その力士は芹沢の刀に届く前に歪な声をあげて口から血を吐き出し、地に伏す。


「ごめーん、横取りしちゃった」


 舌を出しておどけてみせる爽葉は、ずぶりと肉を斬る低い音を立てて力士の背中から懐刀を抜く。その拍子に跳ねた血が爽葉の頬に飛び散り、ゆっくりと顎にかけてその輪郭を伝ってゆく。あまりにも鮮やかな赤が、彼の目元に巻き付いた布の純白を汚し、不気味な風雅を描くかの如く彩っていた。


「……生意気な小僧だ」


 さっさと次の獲物に狙いを定めた爽葉から視線を外し、芹沢も上機嫌に思いのまま豪剣を振るった。結果は、力士三十四人に対し八人という少人数でありながら、爽葉達の圧勝。相手側には多数の負傷者に加え、二人の死亡者の被害が出た。勝利を収めた芹沢等は三度みたび飲み直しをしようと、住吉楼に意気揚々と戻って行ったのだった。


 そうして刻はいつの間にか過ぎ、太陽が彼方から昇り始めた。山々の尾根を克明に浮かび上がらせ、せいなるものに陽光を与えつつもその姿は雲を纏って身を隠し、影をじわりじわりと追いやっていた。

 酒で潰れた男達と空いた酒瓶や椀が無造作に転がっている中、一人起きた爽葉は障子窓からその陽を仰いだ。青く澄み渡る瞳にはその光が入らないのにも関わらず、彼は睫毛を伏せてその目を細めてみる。もぞり、奥に丸まっている奴が寝返りをうった。殺気もないただの人の動きだと分かれば、彼の意識が向けられるのは一瞬。鳥が鳴いて鼓膜を揺らし、陽が差し込んで肌を刺激する。風がそよぎ、髪を撫で、冷たい空気が全身の感覚を呼び覚ます。自然の気配は人のものよりもずっと小さく、儚い。だからこうやって、静かに自然の声に耳を傾けるのが爽葉は好きだった。もぞり、もぞり。そろそろ皆が起きる頃だろう。彼の細い指が、側にあった布を拾い上げ、目の上に巻き直した。



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