派閥
「儂とやるには、ちと早い」
男が笑う。意地の悪い笑みだ。しかし、爽葉も負けじと、
「それはどうかな」
と嘲笑を返した。
「早死にするだけだ」
両人は静かに対峙していた。何も語らずとも、互いの殺気がぶつかり合い、紫電の如く火花をあげているようである。
一触即発の危険な空気が、沈黙と共に流れていた。
「ふん、いいもん持ってんじゃねえか」
「そりゃどーも」
男は鼻を鳴らすと、刃物のように鋭い殺気を引っ込めた。肌をちくちくと刺していた痛みが引く。
「
そして、爽葉への途端興味を失ったかのように、男は子供達の元へと戻って行った。
意図せず溜息が溢れて、爽葉は思わず苦笑いを浮かべる。
「言われなくても帰る」
手を添えていた脇差の柄巻が、ギチリと不鮮明な音をたてた。
「おい、早く食い終われ。もういいだろ」
「まだ」
カタカタと土方の爪が、木の机を叩いて急かしている。だが、その急かされている当の本人は、気にも止めず暢気に食事を続けていた。机を挟んで向いに、重圧的な空気を醸し出す、
「無理だよ、土方さん。爽葉は腹一杯になるまでそこから動かないって。そもそも俺等だって食い終わってないし……あっ! ちょっと、しんぱっつぁん!」
藤堂が箸を持って叫ぶ。
「これ食べないですよね、平助?」
「おい総司も! やめろって、俺の皿からばっか取んなよ!」
「爽葉、バレてるぜ。俺から取るにはまだ早い」
原田が横取りをしようとする爽葉の首を締め上げて、掴み掛けた煮物を守る。
次々と食事を平らげていく爽葉の隣で、沖田と永倉、その向かいの藤堂と原田も同様に、豪快に飲み食いをしていた。豪快と言うのも少々語弊があるだろうか。平たく言えば、食事の奪い合いだ。年若い男達の食事など、こんなものである。
「ちったあ静かに飯を食え。チビ助、お前にはもう食わせん。もう充分だろ」
呆れ顔の土方は、爽葉が必死に掴む茶碗をむしり取り、爽葉の腕を引っ張って、食堂の机から引き剥がした。
「おチビの魚、いただきー!」
「ああっ! 僕の魚!」
既に沖田の胃袋の中に収められてしまったであろう、焼魚の運命を嘆く爽葉を尻目に、土方は
「食いすぎなんだよ、てめえはよ」
「どこに行くんだ」
「まだ案内してねえ場所だ」
土方が爽葉の袖を掴んで進むその先は、爽葉が脳内に描く屯所の地図の中で、唯一空白の場所だった。
手前の曲がり角を曲がったら、そこは未知の世界。爽葉の歩調が僅かに遅くなったことに気付いて、土方は背後に意識を向けた。それは見逃してしまいそうな程、
「こっちに用事って、なんだよ」
平隊士があまり行き来しない場所だ。誰も爽葉に教えなかったのも納得である。その上、少年とは言えど、そもそも試衛館の皆で引き取った人斬りだ。あの男と引き合わせることに躊躇していたのも、一つの要因であった。
「お前を会わせなきゃなんねえんだ。じゃなきゃ、奴はへそ曲げるからな」
土方の半ば投げやりな発言に、爽葉は忍び笑いを洩らした。土方が悩まされている、それだけで彼にとっては娯楽にも値する
「誰なんだ」
どんな人物なのだろうかと、むずむずとした好奇心が爽葉の心を
「壬生浪士組、
筆頭局長。近藤と共に、浪士組の先頭に立つ存在。試衛館組とは、軋轢のある水戸派閥の頭領。
「芹沢さん、失礼するぜ」
「土方か。入れ」
返事の声が響いた途端、爽葉は先程耳にしたばかりの男の声に、それを重ねた。野太い低音は明らかに一致している。
すっと滑った障子。途端中からむわりと漂うのは、強い酒の匂いと女の白粉、それからあの威圧的な雰囲気が溢れ出す。
「……待ってたぜ、小童。もっと近寄れ」
「なんだ、知ってたのか?」
尋ねた土方の隣から一歩踏み出して、芹沢という男の指示通り、爽葉は廊下の木のはめ板から畳へと、ゆっくり体重を移行した。
彼の持つ雰囲気は、浪士組の手練とあらば得心がいく。清爽とした昼間の寺と遊ぶ子供、という和やかな空間は似合わない、笑ってしまいそうだ。
「昼間に外で。偶然な」
酒の匂いと女の匂いが爽葉を取り巻き、纏わり付く。ツンと鼻につく匂いだ。
「おい!」
芹沢が爽葉の襟首を掴み、強引に引き寄せたものだから、爽葉は体勢を崩されて膝をつき、土方が制止の声を上げた。
近距離で、芹沢の視線が爽葉の顔に突き刺さる。痛みを伴うほどに、鋭い視線だ。
「やはり、お前が新しい隊士か」
息がもろに顔にかかって、耐えきれなくなった爽葉は顔を思い切り顰めた。
「酒臭い」
あ、言った、と土方は爽葉の肩に置こうとした手を引っ込めた。芹沢も動きを止めて、じっと目の前の爽葉を見つめていたかと思えば突如、にやり、と口許を緩めた。
歪めた唇の隙間から、ふっと笑いが洩れた。それを皮切りに、男は豪快に腹を抱えて笑い出す。
「トシ、こいつ可笑しな奴だな」
指差しすらして、土方にそう言ってのけた爽葉の様子に、芹沢に寄り掛かかるように身を寄せていた女が、鈴を転がしたような笑い出す。
「あらまぁ、
仕草は艶めかしく、
「そうだな、中々骨のある奴じゃねえか。面白い」
爽葉の襟首を突き放し、ひっくり返しておきながら、芹沢は上機嫌で酒を
「ここの奴は、襟首掴んで突き倒すのが初対面の挨拶なのか?」
皮肉めいた爽葉の呟きに、土方は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるしかない。
「新米隊士の挨拶かと思えば……土方、てめえは何しに来た」
女の首元に埋めていた顔を上げ、芹沢の視線が土方を捉える。土方はその場に胡座をかいて座り、腕組みをして芹沢と対峙した。女をその胸に抱いていることなど、視界に入っていないかのような態度だ。切れ長の瞳から、冴えた眼光が芹沢を貫くが如く、放たれる。
「資金の話ですよ。奥田屋での一件のことも」
「なんだ、資金集めをしているだけだろうが」
眉間に皺を刻んで、機嫌の傾いた芹沢は、突如女の肩を突き飛ばして、小さく声を上げた彼女の方を見向きもせず、土方に詰め寄った。眼前に迫った芹沢の睨みを、真っ向から受け止める土方。全く動じぬ素振りで腕を組み、ゆったりと両目を閉じる。二人の間には、触れれば弾けてしまいそうな緊張感が、瞬転の間に張り巡らされた。
「方法っつーもんがあるでしょう。何でも強引にってのは賛成できかねますね」
「おい、儂に口答えする気か」
「俺は意見しているだけですよ」
土方は爽葉と女の方を見て、「向こうへ行け」と短く命じた。
「女子供は関係ねえ話だ。どっか行ってろ」
自分が子供扱いされていることを不服に思いながらも、ここは素直に従おうと、土方の言う通り、爽葉は芹沢の女と共に部屋を出た。
廊下に出れば僅かに通り抜ける風が、香りを幾ばか拭い去る。やっと新鮮な空気が吸えたとばかりに、爽葉は深めの呼吸を一つした。
「うちの部屋に行きまひょか」
女が爽葉の手を取り、連れて行ってくれたのはとても小さな部屋だった。彼女の匂いと紅粉の匂いが混じっているが、薄く儚い。住んだばかりか、単に訪れた時の為の部屋なのか。爽葉にも座るよう勧めて、女は淑やかな所作で爽葉の向かいに腰を下ろした。
「うちは
「爽葉だ。お梅は芹沢の
お梅は、芹沢に押された左肩を無意識的に触る。俯き加減で、彼女は儚げに笑った。それは寂寥でも、憂いでもないことが、爽葉には意外だった。爽葉は彼女の感情を掴めない。しかし、それを推し量ろうとは思わなかった。
「やだぁ、爽葉はん。妾ではないんやけど、こうやって良う
豊かに潤う紅ののった唇。彼女の鮮やかな口から、枯れた笑いが洩れる。微々たる感情の変化を感じ取り、爽葉は困惑と懸念の混ざった曖昧な
「あのお人はいつもああなんよ。……ほんま、子供みたいやろ?」
「好きなのか、あいつのこと」
「そうや。愛してるんやで」
「へえ。愛ねえ」
お梅がぽつぽつと、芹沢との馴れ初めを語り始めた。最初は、ふむふむと雑に唸りながら聞き流していた爽葉も、次第に興味が湧き始め、気付いた時にはもう彼女を質問責めにしていた。
お梅は呉服屋の
初めの何度かは追い返いされていたものの、ある日突然部屋に連れ込まれて手ごめにされてしまい、嫌がっていたお梅も、今ではすっかり
「あんな男に惚れたのか、お前も
「……なあ、爽葉はん」
身の上話を終えた彼女は一息つき、足を崩して座る爽葉を見て名を呼んだ。
「んあ?」
「あんさん、
ぐふっ、と息を詰まらせた爽葉は、ごほごほと背中を丸めて咳き込んだ。
「そないな格好してはっても、うちの目だけは騙せへんよ」
爽葉は背を曲げたまま動きをぴたり。
止めた──。
緩慢な仕草で口から手を外した爽葉は、彼女を覗き込むようにゆっくりと、それは
「……何を、言ってるんだ。お梅?」
お梅は、爽葉を突然呑み込んだ静寂に、驚いて固まった。
刹那、タッと小さな裸足が床を蹴った。
それは、ほんの瞬きにも満たない間。
「声をあげてみろ。さもなくば貴様の首が吹っ飛ぶぞ」
身体が反応する前に、お梅の視界から彼の姿が消えた。と思った次の瞬間、疼くような殺気を伴って、お梅の目と鼻の先に、抜き払われた刃が突きつけられていた。
冷たい
お梅はごくりと唾を飲み込んだが、極めて平静を取り繕う。
「そ、そないな物騒なもん、仕舞おうておくれやす」
声は少しうわずっていた。鳥肌の立った腕を上から押さえつける。爽葉が盲目だと、既に芹沢からは聞いていた。お梅は、彼の目が見えなかった事に少しだけ安堵した。でなければきっと、この身体の芯から競り上がる怯えを、上手く隠せてはいなかっただろう。
「別に言いつけようなんて思うとらへん」
暫し、緊迫感のある状態が続いた。少しでも動けば、刃がお梅の肌に食い込みそうだ。
どのくらい時間が流れたろうか。やっとの事で、爽葉は彼女の咽喉から脇差を遠ざけた。時間の流れが、とても遅く感じた。
キン、と刀を収める音が、冷たい部屋に短く響く。
「何故、分かった」
低く問う爽葉は、先程までの、ころころとよく笑う無邪気な彼とは全くの別人だった。感情の片鱗すら失せ、
「強いて言うなら女の勘どす。あてにならへんもんでも、あらへんよ」
お梅は側で沸かしていた白湯を、置いておいた二つの湯呑みに注いだ。湯気が暢気に立ち昇ってゆく。冷たい手を少し温めて、お梅は冷静になろうと努めた。
「ほな、座りまひょ? 白湯も飲みおし」
お梅の言われた通りに座敷に座り直して、不服そうな表情で、爽葉は仕方なしに白湯を飲んだ。火傷しそうになるほど熱い湯が、咽喉を通って胃を潤すのをありありと感じた。知らぬ間に、喉が渇いていたようだ。
「女子やいうのに、髪も短く切ってもうて……。このこと土方はん達も知らへんの?」
「見破られたのは、お前が初めてだ」
隠れんぼで居場所が暴露た子供のように悔しがるような。愛らしくも思える物言いに、お梅は微笑んだ。
俯く爽葉がもごりと何かを呟いて、聞き取れなかったお梅は問い返す。
「このこと、黙っててくれないか。お願いだ。僕は約束を
「約束?」
恥ずかしそうに、爽葉の丸みを帯びた頬がやや上気した。年相応の幼さが垣間見えるその反応は、狂気的で険のある殺気よりも断然、爽葉に似合っていた。
「約束というか誓いだ。僕はずっと
必死の程で紡ぐその言葉に、嘘偽りなどは無いとお梅は感じた。穏やかな気持ちで、爽葉の気持ちを受け止める。迫る刃を見ても、きっと何度も血を被って来た剣士の殺気を浴びたとしても、不思議と爽葉を怖いとは思えなかった。
「爽葉はんがそう言うなら、うちは黙うとりまひょ。せやかて、うちは芹沢はんには誤魔化せへん」
「あいつは殺しておくか」
舌打ちをして、策を練ろうとする爽葉の頭を撫で、お梅は優しく微笑んだ。それは母たる者が浮かべるそれであった。
「あん人はきっと喋りまへんよ。見かけによらず理解があるんよ」
「見かけは知らんが、
微妙な顔の爽葉は、募るやり場のない不安を嚥下するかのように、また白湯を啜った。
「ほんなら」
と、お梅から飛び出した突飛な言葉に、白湯を吹き出しそうになって、爽葉は慌てて口を押さえた。
「え?」
「うちと芹沢はんが、隠す手助けしはりまひょか? 芹沢はんが無理やったら、うちだけでも」
ふふ、と笑うお梅が本当に楽しそうに言うものだから、爽葉は反論するのも忘れて、「はあ」と気の抜けた相槌を打った。
大人の色気と艶でめかし込んだ、一見近付き難い雰囲気の彼女も、話してみると意外にも茶目っ気がある。何度も芹沢に金を返せと催促していた女なだけはあるようだ。度胸も愛嬌も上等品である。
「あ、ああ。じゃあ……よろしくな」
やや吃り気味になった返事でも、それを聞いたお梅は嬉しそうにするのだった。
「随分と仲良さそうにしてるじゃねえか」
部屋に入って来たのは勿論のこと、近藤と肩を並べて壬生浪士組を率いる我が組の筆頭局長、芹沢鴨。彼の態度は体格同様、豪快そのものであった。
愛妾…お気に入りの妾のこと
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