誰何




 暗澹としたなみが、残った自我さえもを呑み込んだ。

 ひどく静かだった。故に、孤独がずいを砕き、身の内を這い回る。深潭しんたんから湧く茫漠なる不安と、脳を喰らう絶望。不穏な気配が、背後から襲い掛かる。

 沈んでいくのが判った。肉体が侵蝕しんしょくされていく。腕を千切られ、脚は弾け飛び、眼を奪われた。痛みはない。さりとて妙に生々しい虚脱感が、本能を毒で犯していく。じっくりと、しかし、確実に。

 勃然と浮かんだ意識は、どんなに抗っても、この恐怖から逃れることはできないと知っていた。荒ぶる奔流に身をゆだねてしまえば、どんなに楽だろう。

 永遠に纏わりつく、それは。呪縛だ──。


 空気を求めて、爽葉そうはは息を吐き出した。

 最悪な朝だ。汗ばんだ肌着が、身体に纏わりつくのを感じる。悪い夢をみた。実に不快だ。


「どうしたんだっけ……」


 昨日からの記憶が曖昧だと、ぼーっと思考を巡らせていたのは、実際のところ僅かなときだった。自分の状況を把握するや否や、爽葉は布団を蹴り上げて飛び起きた。


「いっ……」


 痺れるような痛みが全身を走り、噛み締めた唇から思わず声が洩れた。うずく傷口を咄嗟に手で抑えると、真新しい包帯がきっちりと巻かれている。


「起きたんだね」


 襖が開いた。あの若葉の声の彼だ、そう理解すると、爽葉はすぐに襖側から距離を取る。咄嗟に腰に手を這わすも脇差は無く、懐刀や手裏剣などの身体に仕込んでいた武器も、全て取られてしまったよう。丸腰状態である。爽葉は逃げ道を探りながら、左手を畳につけて小さく構えの姿勢をとった。

 二度もまみえた仲だ。この男の力量はある程度察した。警戒すべき相手に、油断は命取りに値する。


「まだ痛むんでしょ? 無理に動かさない方が良いんじゃない」


 冷たいその声は、気遣うような言葉とは裏腹に、爽葉を脅している。


「お前、誰。ここ、何処どこ

「俺は沖田おきた総司そうじ。此処は、壬生浪士組の屯所だよ」


 聞き覚えがある。


「京の人斬り集団……」

「随分な言われようだね?」

「噂を、聞いた」


 壬生浪士組は、近頃京では有名である。


「ただの人斬りか、知りたい?」


 噂というものは所詮、与太話よたばなし。当てにならないことは、身に沁みて知っていた。

 沖田という男は、部屋にゆっくりと足を踏み入れた。それに応じて、爽葉は全身の神経を尖らせてじりじりと後退する。


「来るな」


 足に力を込める。ぐぐぐ、と脹脛ふくらはぎの筋肉が浮き出て、血管に素早く血が巡った。


「お喋りが過ぎたようだね。来て、近藤さんがお呼びだ」


 有無を言わさない口調と、圧倒的不利な状況。これぞ背水の陣。ここでひと暴れすることが得策では無いことは明白だった。

 暫く互いに動くことなく、緊迫した状態を保っていた。沖田と言う男の放つ覇気は、研ぎ澄まされた刃のきっさきの如く鋭利で、冷水を浴びた白刃を突きつけられている気分になった。

 結局、爽葉は渋々臨戦態勢を解いて立ち上がり、沖田の後について部屋を出た。外廊下を歩いて行けば、「連れて来ました」という声と共に部屋に押し込まれた。複数人からの、刺すような視線。


「座れ」


 立ち尽くした爽葉を一条ひとすじの声が貫いた。それは低く、静かで、艶やかであった。氷柱よりも冷たく、苦しくなるほどの威圧感と棘のような険を孕んで、強く命ずる。

 それは確かに、相手を従わせる力を持っていた。けれど、溺れそうになるほど良い声だ。久々に聴きたくなるような声の持ち主に会った、とそんな呑気なことを考えながら、素直に指示に従い、爽葉はその場に胡座をかいた。


「名前は」


 まるで、威嚇する獣のようだ。爽葉は思う。

 それは、人に懐かぬ野良犬の咆哮に似ていた。冷たい冬の水を叩きつけられたかのような、鋭い冴えをも含む明瞭な滑舌。


「爽葉」

「名字は」

「忘れた」

「忘れただぁ?」


 低いその声の主が、語気を荒げる。


「ふざけるなよ、てめぇ」

とし、まだ幼い子供に怒るのは可哀想だぞ」


 その怒声を制する、優しくおおらかな声音が、爽葉の鼓膜を揺らす。怒号ばかりを飛ばす男とは、雰囲気が全く異なる。その穏やかな声は爽葉の名を呼び、言葉をつないだ。


「俺は近藤こんどういさみ。この壬生浪士組の局長をしている。起きたばかりだと言うのに、呼び出してしまってすまない。身体の方は大丈夫か?」


 その隣から舌打ちが聞こえる。


「少し質問をさせて欲しいんだが、いいかい?」


 諭すような優しい口調に、素直になれない爽葉はむくれて、そっぽを向いた。

 それを見て、全く反対の行動を取る壬生浪士組の局長副長。困ったように眉を下げて笑う近藤に対し、土方の眉間には深い皺が寄る。沖田などは瞳に怒気を灯して、刀を抜きでもしそうな形相である。


「その目元の布は何だい? 怪我か? ……すまない、繊細な質問をしてしまったかな?」

「怪我だ」

「君はどこの子だ? 親御さんは何をしているのか、教えてはくれないか」

「親はいない」

「そうだったのか。辛いことを聞いてしまったね。……うちの総司が、怪しい人物として君を連れてきた訳なのだが、最近多発している辻斬りについて、何か知っている事を話してくれないかな」

「僕、そいつの前で別に何もしてないんだけど」


 気遣う様子すらみせて訊ねる近藤に対して、爽葉は沖田を顎でしゃくり、素っ気ない。何を尋ねても依然として不遜ふそんな態度の爽葉に痺れを切らしたのは、勿論のこと土方だった。

 ダンッと、強く床が踏まれる音が響いたと思った途端、爽葉の胸ぐらが強引に掴まれた。ぶらん、ぶらん、と脱力したままの腕が揺れる。


「お前の怪我。ここの者が手当した事、忘れちゃあいねえだろうな」


 半身を浮かせ、なされるがままの状態で、「それは感謝する」と綺麗な形の唇が形骸的な礼を述べる。

 だが、と爽葉は一拍置いて続けた。


「どれも、お前らには関係のないことだ」


 土方の額に青筋が浮かぶ。そんな彼の様子に、近藤は苦笑い。


「吐け。全てな。お前、長州の輩相手に人斬りしてた奴か」


 爽葉は、張り詰めた状況に似合わない、軽やかな笑い声をあげた。


「そうだよ」


 爽葉は鷹揚おうように頷いた。あまりにあっさりした肯定に、土方達一同は目を丸くした。近藤においては、「は?」といささか気の抜けた声を洩らした。


「ふざけやがって」


 舌打ちと共に、掴まれていた袴が乱暴に離された。どかりと元の場所に座り、土方は膝に頬杖をつく。目付きは未だ鋭いまま。


「なに子供相手にむきになってるんです?」


 やれやれとこれ見よがしに首をすくめる沖田の仕草に、土方は軽く沖田を睨む。一方爽葉は落ち着いた様子で、乱れた襟を丁寧に直しながら口を開く。


「発端は僕だけど。あとは長州の内部抗争と、一部の武士の暇潰しさ」

「へえ?」


 土方が片眉を持ち上げる。


「途中からは、この事件に繋がりなんてものはない。お前等が下手人特定に四苦八苦させられるのは、当然だろうな」

「詳しく聞かせて貰おうじゃねえか」


 挑発的に唇を歪める爽葉の面相は正直、少々不気味であった。


「人斬りをしたことは認める。ちょっとした事情があってね。でも、それに便乗する武士達がいた。火付けと同じさ。皆んな、人の真似っこがお好きなのさ」

「更にそれに、長州が便乗したということか」


 近藤が眉を顰めて問うのを爽葉は、「そう」と首肯しゅこうし、せせら笑う。


「辻斬りは京都の十八番おはこだろ。増発したそれを、長州の奴らが内部抗争を収める手段として、利用したってこと」

「己と対立したり、先行きを邪魔する奴らを排除したのか」


 そう言って、唸る近藤。

 過激派の急進的改革の中心人物ばかりが狙われ、殺されたのも、確かに辻褄が合う。


「京で動く長州の組織も大きくなり過ぎたんだろうね。意志の統一が乱れて、ほころびが生じたんだ」

「なるほど」


 近藤の土方とは反対側の隣に座る、落ち着いた佇まいの男が、顎に手を当てて考える素振りを見せた。土方と共に副長と勤める男、山南やまなみ敬介けいすけである。

 白い肌に茶色の長髪、緩やかな曲線を描く瞳と眉に、女のような唇。外見は優男そのものであったが、男らしい風格も感じさせる人であった。


「お前はどこの者だ。長州か」


 土方が低く問えば、爽葉は強い口調で否定した。土方はちらりと瞳孔だけ動かし、爽葉の手を見た。表情に変わりはないが、左の手がこぶしを作っている。しかし、


「あんな奴等と一緒にするな」


 と言って、ふんっ、とそっぽを向く爽葉は、駄々をねるただの子供にしか見えない。


「まあ。僕の真似をするなんて、よほど腕の立つ武士なんだろうけど」


 そんな調子の爽葉に、土方は疲れがみえる溜息を吐き出した。とんでもなく面倒な奴を拾ってしまったと、後悔すらぎる。しかし、放っておく訳にも、今更後に引けないのも事実であった。


「歳、どうする。俺は、ここの隊士になればいいと思うんだが。どうだ?」


 唐突な誘いに、思わず間抜けな声を洩らして唖然とするのは、爽葉の番であった。他の人達も爽葉同様、「何故」と慌てている。

 だが、唯一賛成したのは、最も意外な人物であった。


「いいんじゃねえか。俺はそれが最善の策だと思うぜ。どうせ、こいつは情報を知りすぎている。此処こっから出すことはできねぇよ」


 どうやらこの土方という男、意外にも柔軟な思考を持ち合わせているようである。


 「だったら有効活用しないでどうする?」


 土方は、悪役のような笑いを薄い唇にのせた。策士の彼に似合いの表情である。


「帰してくれよ」


 爽葉が言う。


「駄目だ。お前の身柄はうちで預かる」


 土方が首を振る。


「勝手すぎだ」

「屯所が嫌なら、そこの蔵に吊るしといてやってもいいんだぜ」

「はあ? 僕を干物か何かだと思ってるわけ」

「ご希望ならば、この場で二枚におろしてやろうか?」


 二人の応酬を、近藤が「まあまあ」とたしなめる。


「ま、場所と食いもんをタダでやるほどうちは甘くねえよ。働かせてやる。剣の腕はあるし、頭の回転も悪くはねえようだからな」


 未だ戸惑う他の者達を置いて、「まあいいよ」と一言。諦めの早い爽葉は、簡潔に答えた。


「決定だな」


 薄ら笑う土方がそう告げた時、部屋に入って来た人物がいた。


「お、何やってんだ」


 男は熱気を纏っていた。まだ涼しいはずの部屋の温度が僅かに上昇する。土と汗の匂いだ、と爽葉はその香りを、すん、と嗅いだ。


「佐之、いいところに来た。こいつと試合しろ」


 首を傾げる男は、土方に説明を催促する。


「入隊希望者だ。相手してやってくれ。その様子じゃ、準備運動は済んでいるようだしな」


 爽葉は、随分と高いところからの視線を感じて、首を巡らせた。男は相当上背がある様だ。


「いいぜ。丁度試合相手探してたんだ。俺は、原田はらだ左之助さのすけってんだ。よろしく」


 同じ目線の高さで話すべくしゃがんだ原田は、爽葉の顔を見るなり「お前!」と指差し付きで叫んだ。爽葉は思わず耳を塞ぐ。


「どうも」

「土方さん、こいつって例の」


 問う原田に、土方はひとみだけで答える。


「先に道場に連れていけ。俺等もすぐ行く」

「分かった。よし、行くか」


 そんな声が隣から聞こえた途端。


「うわぁ!」


 突然爽葉の身体が持ち上げられ、担がれた。浮遊感と不安定な感覚に若干の不安を覚えて、爽葉は手足をばたつかせて暴れた。


「お、降ろせ!」


 必死にもがくが、筋肉質な太い腕とがたいのいい肩に挟まれて、身体はびくともしない。恵まれた体格の持ち主である。剣戟においてはさぞ有利に働くことだろう。


「お前名前は」

「爽葉だ!」


 腹立ち紛れに、半ば叫ぶように答えるが、豪快で闊達な笑いが返ってくる。


「爽葉、入隊希望者だったんだな。足は大丈夫か」

「入隊するなんて僕は一言も言ってないぞ! それに、こんな程度の怪我っ、どうってことない!」


 爽葉の子供じみた反論を、原田はまたしても笑い飛ばした。


「の、割には、ぶっ倒れてたところを連れてこられたんだってな」

「ぐ……」


 見えていないことは分かっているが、爽葉はこのよく笑う男を、包帯の奥から精一杯睨んだ。


「よし、着いたぞ」


 肩から雑に降ろされた爽葉は、転びそうになるのを、すんでのところでとどまった。道場は熱気と隊士達の声で溢れていて、廊下とは打って変わって蒸し風呂のようだ。爽葉は深呼吸をして、肺いっぱいにその空気を吸い込んだ。


「おーい。稽古中すまんが、入隊試験だ。場所を空けてくれ」


 原田の一言で、隊士達が一斉に脇へと避け始める。土を踏む音や布擦れの音が、ざわざわと重なり合って聞こえた。


「こっちだ」


 言われるがまま、爽葉はその輪の中心へと足を踏み入れた。隊士達の興味と懐疑の入り混じった視線が、四方から刺さるのを感じた。肌が刺激される。ぴりぴりとしている。

 隊士達は口を寄せ合い、二言ふたこと三言みこと言葉を交わしている。容姿に関してとやかく言われるのは慣れていた。好きにほざけば良い、と爽葉は足裏で床の感覚を確かめる。


「竹刀でいいな。長さは選べ」

「脇差か小刀ほどの竹刀を」

「脇差でいいのか? ほらよっ」


 原田は、脇差だいの竹刀を投げ寄越したらしい。爽葉も受け取る準備ができていなかった。その竹刀は、咄嗟とっさに掴もうと伸ばした爽葉の指先に当たって、カランと軽い音を立てて床に転がる。あわわ、と拾う姿に、周囲の者達は爽葉を嘲笑あざわらった。


「お前おっちょこちょいか?」

「うるさい、余計な世話だ」


 そこに、一人の隊士が進み出た。


「原田さん。こいつの試合、俺に任せて貰えませんか」


 中肉中背で目つきが鋭い男は、原田を見上げて強い口調で言う。


「川島、何故だ」


 竹刀の感覚を掌に確かめながら、原田は訝し気に眉を顰めて問う。


「竹刀を落とすような者の入隊試験など、誰が相手でも結果はわかりきっています。貴方の御手をわずらわせるほどのものでないと見受けられます」


 その科白せりふを聞き流せるほど、爽葉は大人ではなかった。爽葉は顳顬こめかみに筋を浮かせ、ゆらりと顔を持ち上げた。言葉の端に見え隠れする愚劣な考えに、爽葉は隠すことなく嫌悪感を露わにする。

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