誰何
暗澹とした
ひどく静かだった。故に、孤独が
沈んでいくのが判った。肉体が
勃然と浮かんだ意識は、どんなに抗っても、この恐怖から逃れることはできないと知っていた。荒ぶる奔流に身を
永遠に纏わりつく、それは。呪縛だ──。
空気を求めて、
最悪な朝だ。汗ばんだ肌着が、身体に纏わりつくのを感じる。悪い夢をみた。実に不快だ。
「どうしたんだっけ……」
昨日からの記憶が曖昧だと、ぼーっと思考を巡らせていたのは、実際のところ僅かな
「いっ……」
痺れるような痛みが全身を走り、噛み締めた唇から思わず声が洩れた。
「起きたんだね」
襖が開いた。あの若葉の声の彼だ、そう理解すると、爽葉はすぐに襖側から距離を取る。咄嗟に腰に手を這わすも脇差は無く、懐刀や手裏剣などの身体に仕込んでいた武器も、全て取られてしまったよう。丸腰状態である。爽葉は逃げ道を探りながら、左手を畳につけて小さく構えの姿勢をとった。
二度も
「まだ痛むんでしょ? 無理に動かさない方が良いんじゃない」
冷たいその声は、気遣うような言葉とは裏腹に、爽葉を脅している。
「お前、誰。ここ、
「俺は
聞き覚えがある。
「京の人斬り集団……」
「随分な言われようだね?」
「噂を、聞いた」
壬生浪士組は、近頃京では有名である。
「ただの人斬りか、知りたい?」
噂というものは所詮、
沖田という男は、部屋にゆっくりと足を踏み入れた。それに応じて、爽葉は全身の神経を尖らせてじりじりと後退する。
「来るな」
足に力を込める。ぐぐぐ、と
「お喋りが過ぎたようだね。来て、近藤さんがお呼びだ」
有無を言わさない口調と、圧倒的不利な状況。これぞ背水の陣。ここでひと暴れすることが得策では無いことは明白だった。
暫く互いに動くことなく、緊迫した状態を保っていた。沖田と言う男の放つ覇気は、研ぎ澄まされた刃の
結局、爽葉は渋々臨戦態勢を解いて立ち上がり、沖田の後について部屋を出た。外廊下を歩いて行けば、「連れて来ました」という声と共に部屋に押し込まれた。複数人からの、刺すような視線。
「座れ」
立ち尽くした爽葉を
それは確かに、相手を従わせる力を持っていた。けれど、溺れそうになるほど良い声だ。久々に聴きたくなるような声の持ち主に会った、とそんな呑気なことを考えながら、素直に指示に従い、爽葉はその場に胡座をかいた。
「名前は」
まるで、威嚇する獣のようだ。爽葉は思う。
それは、人に懐かぬ野良犬の咆哮に似ていた。冷たい冬の水を叩きつけられたかのような、鋭い冴えをも含む明瞭な滑舌。
「爽葉」
「名字は」
「忘れた」
「忘れただぁ?」
低いその声の主が、語気を荒げる。
「ふざけるなよ、てめぇ」
「
その怒声を制する、優しくおおらかな声音が、爽葉の鼓膜を揺らす。怒号ばかりを飛ばす男とは、雰囲気が全く異なる。その穏やかな声は爽葉の名を呼び、言葉を
「俺は
その隣から舌打ちが聞こえる。
「少し質問をさせて欲しいんだが、いいかい?」
諭すような優しい口調に、素直になれない爽葉はむくれて、そっぽを向いた。
それを見て、全く反対の行動を取る壬生浪士組の局長副長。困ったように眉を下げて笑う近藤に対し、土方の眉間には深い皺が寄る。沖田などは瞳に怒気を灯して、刀を抜きでもしそうな形相である。
「その目元の布は何だい? 怪我か? ……すまない、繊細な質問をしてしまったかな?」
「怪我だ」
「君はどこの子だ? 親御さんは何をしているのか、教えてはくれないか」
「親はいない」
「そうだったのか。辛いことを聞いてしまったね。……うちの総司が、怪しい人物として君を連れてきた訳なのだが、最近多発している辻斬りについて、何か知っている事を話してくれないかな」
「僕、そいつの前で別に何もしてないんだけど」
気遣う様子すらみせて訊ねる近藤に対して、爽葉は沖田を顎でしゃくり、素っ気ない。何を尋ねても依然として
ダンッと、強く床が踏まれる音が響いたと思った途端、爽葉の胸ぐらが強引に掴まれた。ぶらん、ぶらん、と脱力したままの腕が揺れる。
「お前の怪我。ここの者が手当した事、忘れちゃあいねえだろうな」
半身を浮かせ、なされるがままの状態で、「それは感謝する」と綺麗な形の唇が形骸的な礼を述べる。
だが、と爽葉は一拍置いて続けた。
「どれも、お前らには関係のないことだ」
土方の額に青筋が浮かぶ。そんな彼の様子に、近藤は苦笑い。
「吐け。全てな。お前、長州の輩相手に人斬りしてた奴か」
爽葉は、張り詰めた状況に似合わない、軽やかな笑い声をあげた。
「そうだよ」
爽葉は
「ふざけやがって」
舌打ちと共に、掴まれていた袴が乱暴に離された。どかりと元の場所に座り、土方は膝に頬杖をつく。目付きは未だ鋭いまま。
「なに子供相手にむきになってるんです?」
やれやれとこれ見よがしに首を
「発端は僕だけど。あとは長州の内部抗争と、一部の武士の暇潰しさ」
「へえ?」
土方が片眉を持ち上げる。
「途中からは、この事件に繋がりなんてものはない。お前等が下手人特定に四苦八苦させられるのは、当然だろうな」
「詳しく聞かせて貰おうじゃねえか」
挑発的に唇を歪める爽葉の面相は正直、少々不気味であった。
「人斬りをしたことは認める。ちょっとした事情があってね。でも、それに便乗する武士達がいた。火付けと同じさ。皆んな、人の真似っこがお好きなのさ」
「更にそれに、長州が便乗したということか」
近藤が眉を顰めて問うのを爽葉は、「そう」と
「辻斬りは京都の
「己と対立したり、先行きを邪魔する奴らを排除したのか」
そう言って、唸る近藤。
過激派の急進的改革の中心人物ばかりが狙われ、殺されたのも、確かに辻褄が合う。
「京で動く長州の組織も大きくなり過ぎたんだろうね。意志の統一が乱れて、
「なるほど」
近藤の土方とは反対側の隣に座る、落ち着いた佇まいの男が、顎に手を当てて考える素振りを見せた。土方と共に副長と勤める男、
白い肌に茶色の長髪、緩やかな曲線を描く瞳と眉に、女のような唇。外見は優男そのものであったが、男らしい風格も感じさせる人であった。
「お前はどこの者だ。長州か」
土方が低く問えば、爽葉は強い口調で否定した。土方はちらりと瞳孔だけ動かし、爽葉の手を見た。表情に変わりはないが、左の手が
「あんな奴等と一緒にするな」
と言って、ふんっ、とそっぽを向く爽葉は、駄々を
「まあ。僕の真似をするなんて、よほど腕の立つ武士なんだろうけど」
そんな調子の爽葉に、土方は疲れがみえる溜息を吐き出した。とんでもなく面倒な奴を拾ってしまったと、後悔すら
「歳、どうする。俺は、ここの隊士になればいいと思うんだが。どうだ?」
唐突な誘いに、思わず間抜けな声を洩らして唖然とするのは、爽葉の番であった。他の人達も爽葉同様、「何故」と慌てている。
だが、唯一賛成したのは、最も意外な人物であった。
「いいんじゃねえか。俺はそれが最善の策だと思うぜ。どうせ、こいつは情報を知りすぎている。
どうやらこの土方という男、意外にも柔軟な思考を持ち合わせているようである。
「だったら有効活用しないでどうする?」
土方は、悪役のような笑いを薄い唇にのせた。策士の彼に似合いの表情である。
「帰してくれよ」
爽葉が言う。
「駄目だ。お前の身柄はうちで預かる」
土方が首を振る。
「勝手すぎだ」
「屯所が嫌なら、そこの蔵に吊るしといてやってもいいんだぜ」
「はあ? 僕を干物か何かだと思ってるわけ」
「ご希望ならば、この場で二枚におろしてやろうか?」
二人の応酬を、近藤が「まあまあ」と
「ま、場所と食いもんをタダでやるほどうちは甘くねえよ。働かせてやる。剣の腕はあるし、頭の回転も悪くはねえようだからな」
未だ戸惑う他の者達を置いて、「まあいいよ」と一言。諦めの早い爽葉は、簡潔に答えた。
「決定だな」
薄ら笑う土方がそう告げた時、部屋に入って来た人物がいた。
「お、何やってんだ」
男は熱気を纏っていた。まだ涼しいはずの部屋の温度が僅かに上昇する。土と汗の匂いだ、と爽葉はその香りを、すん、と嗅いだ。
「佐之、いいところに来た。こいつと試合しろ」
首を傾げる男は、土方に説明を催促する。
「入隊希望者だ。相手してやってくれ。その様子じゃ、準備運動は済んでいるようだしな」
爽葉は、随分と高いところからの視線を感じて、首を巡らせた。男は相当上背がある様だ。
「いいぜ。丁度試合相手探してたんだ。俺は、
同じ目線の高さで話すべくしゃがんだ原田は、爽葉の顔を見るなり「お前!」と指差し付きで叫んだ。爽葉は思わず耳を塞ぐ。
「どうも」
「土方さん、こいつって例の」
問う原田に、土方は
「先に道場に連れていけ。俺等もすぐ行く」
「分かった。よし、行くか」
そんな声が隣から聞こえた途端。
「うわぁ!」
突然爽葉の身体が持ち上げられ、担がれた。浮遊感と不安定な感覚に若干の不安を覚えて、爽葉は手足をばたつかせて暴れた。
「お、降ろせ!」
必死にもがくが、筋肉質な太い腕とがたいのいい肩に挟まれて、身体はびくともしない。恵まれた体格の持ち主である。剣戟においてはさぞ有利に働くことだろう。
「お前名前は」
「爽葉だ!」
腹立ち紛れに、半ば叫ぶように答えるが、豪快で闊達な笑いが返ってくる。
「爽葉、入隊希望者だったんだな。足は大丈夫か」
「入隊するなんて僕は一言も言ってないぞ! それに、こんな程度の怪我っ、どうってことない!」
爽葉の子供じみた反論を、原田はまたしても笑い飛ばした。
「の、割には、ぶっ倒れてたところを連れてこられたんだってな」
「ぐ……」
見えていないことは分かっているが、爽葉はこのよく笑う男を、包帯の奥から精一杯睨んだ。
「よし、着いたぞ」
肩から雑に降ろされた爽葉は、転びそうになるのを、すんでのところでとどまった。道場は熱気と隊士達の声で溢れていて、廊下とは打って変わって蒸し風呂のようだ。爽葉は深呼吸をして、肺いっぱいにその空気を吸い込んだ。
「おーい。稽古中すまんが、入隊試験だ。場所を空けてくれ」
原田の一言で、隊士達が一斉に脇へと避け始める。土を踏む音や布擦れの音が、ざわざわと重なり合って聞こえた。
「こっちだ」
言われるがまま、爽葉はその輪の中心へと足を踏み入れた。隊士達の興味と懐疑の入り混じった視線が、四方から刺さるのを感じた。肌が刺激される。ぴりぴりとしている。
隊士達は口を寄せ合い、
「竹刀でいいな。長さは選べ」
「脇差か小刀ほどの竹刀を」
「脇差でいいのか? ほらよっ」
原田は、脇差
「お前おっちょこちょいか?」
「うるさい、余計な世話だ」
そこに、一人の隊士が進み出た。
「原田さん。こいつの試合、俺に任せて貰えませんか」
中肉中背で目つきが鋭い男は、原田を見上げて強い口調で言う。
「川島、何故だ」
竹刀の感覚を掌に確かめながら、原田は訝し気に眉を顰めて問う。
「竹刀を落とすような者の入隊試験など、誰が相手でも結果はわかりきっています。貴方の御手を
その
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