第102話 毒舌少女のために帰宅部辞めました

 朝、目が覚めると身体の節々が痛かった。その痛みとともにアリナの部屋で寝たことを思い出す。

 時間は8時を過ぎた頃で、アリナはまだ布団の中で寝ていた。昨日の服装のままだ。吐いても漏らしてもいなさそうだった。俺は彼女のパソコンの傍に置いてあったメモ用紙に「帰る。昨日は楽しかった」と書き残し、アパートを出た。起きたらシャワーを浴びたいだろうから彼女が起きるまで待っても邪魔になるだけだ。


 アリナのアパートは広瀬川に沿っていて、実に眺めのいい場所だった。あのアパートの部屋から広瀬川を眺めて執筆していたのだろう。

 歩きながら昨夜のことを思い返した。

 あの中でくよくよとしていたのは俺だけだった。みんな今ある生活を享受し、未来に向けて自己研鑽していた。その様子や話を見聞きして勇気をもらった気がする。自分で言っていたじゃないか。生きてるだけマシだと。まだ人生は終わったわけじゃない。これから3年間を取り戻すつもりで生きていこう。

 俺は心の底から彼女を守りたいと思った。彼女の安らかな寝顔がそう思わせたのだ。

 いつまでも好かれることに甘えていては赤ん坊と同じだ。だから彼女に答えよう。子ども時間は終わりだ。

 

 

 


 最初は面倒なやつだと思った。

 口を開けば不平不満。すぐに暴力をふるいやがる。こんな問題児をなぜ俺が世話しなくてはならないのかと自分の運命を呪った。


 面白いやつだと思った。

 問題児のわりにはしっかり自分だけの哲学を持っていた。他人はすべて敵というような雰囲気だと思っていたが、意外とそうでもなかった。


 気の毒なやつだと思った。

 二重人格、記憶喪失、家庭内暴力。彼女はボロボロで、悲惨な道を歩いてきたと知った。彼女の美しさが痛々しく思えるほどだった。


 気の合うやつだと思った。

 俺も変人だが彼女も変人だった。彼女は毒舌ばかりで俺は冗談ばかり。どちらも口を開けばうるさいスピーカーだったが、似た者同士だと思った。


 綺麗だと思った。

 彼女の容姿は誰もが認める美しさだった。彼女を知れば知るほど美しいと思う気持ち以上の感情が、徐々に身体の隅々に侵食していった。


 特別な人だと思った。

 きっかけがあったわけじゃない。気づいた時にはそういう人になっていた。いつも傍にいたし、いつも彼女のことを考えていた。


 とても素敵な声をしていると思った。

 初めて名前を呼ばれた時の新鮮さは忘れられない。どうやってそんな心安らぐ魅力的な声を出しているのだろうと不思議に思った。


 運命だと思った。

 彼女に出会えたこと。本当に奇跡だ。

 俺の残りの人生でこれ以上の奇跡は舞い降りない。


 俺とアリナは運が悪すぎた。

 片方が歩み寄るともう片方は遠くへ行ってしまう。アリナは俺を忘れ、俺は固く目を閉じた。肝心な場面になると俺たちは静かに黙り込んできた。

 しかしもう二度と離れない。俺たちの間には何の障害もない。障害を乗り越えに乗り越え、ようやく最後の一直線の平地を走っているのだ。転ぶことはもうない。


 12月のある日、俺はアリナをデートに誘った。

 

「デートしよう」

「……はい!?」


 アリナは電話で非常に驚いていたがすぐにご機嫌な声音になった。

 約束の日、俺とアリナは仙台駅に集合した。


「どうかしら」


 アリナらしい大人びた雰囲気の私服姿を彼女は見せびらかすようにくるりと回った。


「今まで宇銀が宇宙一だと思っていたがアリナが一番だな」

「あなた宇銀さんの扱い雑ね」


 俺とアリナは手を繋いだ。そう、デートなんだから当然だ。

 電車を利用し、水族館に来た。俺とアリナが初めて2人でデートらしいことをしたあの水族館、真琴と流歌を追跡した水族館だ。楽しい思い出として強く残っていたからもう一度アリナと来たかった。

 祝日だから人の数は多かった。家族連れやカップルがあちこちにいて、少し手を放せばすぐに離れ離れになってしまいそうだ。アリナも同じことを思ってか、腕を抱くように身を寄せてきた。それに驚くと彼女はくすっと笑った。


「だってデートなんでしょ?」


 入場門をくぐると巨大な水槽トンネルに出て、頭上には鮮やかな魚が泳ぎ、上から差し込む太陽光がシャンデリアのように輝いている。


「この海のトンネル、本当に綺麗だわ。高校生のときに来た時と同じ」


 見上げる彼女の瞳は光で輝き宝石のようだった。思わず言葉を忘れて彼女に見入ってしまう。


「じーっと見てたでしょ。あなたもとうとう私のこと見つめるようになっちゃったのね」

「高校生の時、こぞって周りがアリナに告白する理由が今になってわかった。確かにこれは惑わされるな」

「でもあなたならいくらでも見つめてていいわよ。私も気持ちがいいから」

「アリナさんって結構変態なんすか?」

「ばーか。あ、ウミガメ。大きいわね」


 俺たちの頭上をウミガメが通過し、小魚の集団がぶわっと散っていった。

 アリナと水族館を回っている最中、たくさんのことを回顧した。図書室で出会った日から今日にいたるまでのすべてを思い返した。楽しくもあったが辛いことも多々あった。アリナと出会わなければと思ったこともあったが、アリナとこうして手を繋いで共に過ごせているのだからこれでよかったんだと思う。


 もし赤草先生から逃げて図書室に行かなかったら。

 もし鶴の説得に応じず、記憶を失ったアリナを諦めていたら。


 考えるだけでぞっとする。今手を繋いでいるのはアリナじゃなかったのかもしれない。もしかしたら白奈だったのかもしれない。

 だがそんな世界はどこにも存在しない。やり直して変えたいとも思わない。

 大小問わず全ての事象が今に繋がっている。奇跡としか言いようがない今この瞬間を大切にして、彼女と未来を描きたいと思う。


 巨大な水槽を前にすると雄大さに圧巻された。

 自分がちっぽけな存在だと思い知らされ、ブルーの世界の中で優雅に泳ぐクジラやサメに俺たちは陶酔した。


「あの時は遠くからだったけれど間近で見ると本当にすごいわ」

「あんだけ自由に泳げると羨ましいな。アリナも実は人魚で超泳げたりするんじゃないか?」

「じゃあ今度市民プールにでも行きましょうよ! 水着買いに行きましょ!」

「アリナの水着姿見たら多分気絶しちまうなぁ」

「ふふ。お姫様抱っことかしてちょうだいね。アレが夢だったりするのよ。女子の中じゃ身長高めだからお姫様抱っこできる男ってあまりいないでしょ? あなたなら余裕よね」

「抱っこした瞬間に宇宙まで吹っ飛んじまうかもしれないぞ」

「宇宙旅行が安上がりになっていいわね。プール、すごく楽しみになってきちゃったわ」


 彼女と繋ぐ手は境界面を失ったように一体化していた。他人の手と感じていた手は気付かぬうちに身体の一部みたいに思えて、やっぱり彼女は俺にとって大切で一緒にいたい人なのだと感じた。

 本当は水族館じゃなくて、場所はどこでもよかった。パッと浮かんだのが思い出のある水族館だったのだ。しかし実際来て本当によかった。彼女との空白期間をここから埋めていくのだ。空白を埋めるには新しいことをするのもいいが、懐かしむのもまた絆を強くするものだと俺は思う。


 毒舌少女も、帰宅部員もここにはもういない。

 ちょっとずつ歩み寄って気持ちを確かめ合う、どこにでもいる静かに恋する男女がいるだけだ。

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