第101話 ずっと握っていた手
俺が一番ショックを受けたのは赤草先生が結婚していたことだ。
「人妻ってことすか……?」
「そう。彗くんごめんね」
赤草先生の美貌は3年経っても変わらず、それどころかより美しさに磨きがかかってサングラスがほしいくらいだった。地上に舞い降りた女神だ。
「忘れないうちにアリナちゃん、これ。先生、アリナちゃんのサインがほしいなぁ」
先生はアリナの著書を渡してサインを求めた。
俺は先生が人妻になっていることが未だに受け入れられず、意味もなく水を喉に流し込み続けた。ちなみにトマトジュースはもう飲むことができない。飲んだら宇銀に罰金100万円を払う契約をさせられているのだ。紙に書いて拇印までした。
この場にいるのは俺、アリナ、赤草先生、真琴、鶴、白奈の6人だ。アリナはさらに呼ぶつもりだったらしいが連絡先を全然知らなくて無理だったらしい。俺としてはちょうどいいからこれでよかった。
「そういえば真琴。流歌とはどうなったんだ。まさか結婚してないだろうな」
ふとそう言うと女子陣の顔が引きつった。すぐにニヤニヤし始めたが聞いちゃまずかったことなのか。
「はい、別れました」
「え、マジで。なんかあったのか」
「専門と大学とじゃ生活スタイルが違うんすよ。すれ違いです」
「なんてこった。気の毒だな。今も専門なのか?」
「もう卒業して今は日本料亭の店で働いてるよ。いつかは自分の店を持ってみたいね。時間あれば飯作ってやるよ。俺の作る飯はマジで美味いって評判だから任せて」
「そりゃ楽しみだな。本物の食事会だ」
真琴は髪をお洒落に整えていること以外は大して変わっていなかった。
「でも本当に彗が元気そうでよかった。後遺症で会話が難しくなるって話も聞いてたから今日会うまでマジで怖かったんだ」
「後遺症が一切ないのは奇跡らしい。普通はあるらしいがな。まぁ俺は最強の帰宅部員だから当然だな」
「うわぁ、言ってた言ってた。帰宅部員って響きがもう懐かしい」
「今はもはやただの無職だがな」
「彗なら大丈夫だろ。なんだかんだで器用なやつだと思うよ。21歳で働いてない人は大勢いる。俺だって去年働き始めたばっかりだ。大学院に行く人ならさらに就職は先送りだろうし」
そこに白奈が口を挟んできた。
「私も働いてるよ! 今度うちのお店来て。かっこよく髪整えてあげる!」
白奈は変わらず小動物みたいな可愛らしさがあって、美容師らしく細かく髪が整えられていた。
「男でも入りやすい雰囲気なのか?」
「あ、ちょっと入りづらいかも。お客さんも従業員側も女性ばっかりだから……」
アリナとスイーツ食べ放題の店に入った日のことを思い出した。完全に俺は異物だった。
「でも大丈夫! 彗かっこいいから浮かないと思うよ!」
白奈がそう言うと隣の鶴が得意の意地悪な顔を浮かべた。
「アリナの前で彗のこと口説こうとしちゃうんだ~」
「ち、違うよー! そんなつもりじゃないって!」
鶴のおちゃらけた性格は変わっていないらしい。法学部なんて厳格なイメージしかないから鶴のギャップは今でも健在のようだ。
彼らが鬱屈としている姿を見たくなかったから屈託なく笑って酒を飲む姿に安堵した。自分は将来を心配しすぎていたのかと思うくらい胸の暗い霧は晴れていった。
俺が眠った後のことをそれぞれ話してくれた。
赤草先生は新しい高校の保健の先生として働き、とある日、街で素敵な人と出会ったと話したが、俺は聞くだけ心が苦しくなるから耳をトンネルにして聞き流した。
真琴は専門学校で調理師免許を取り、その過程で和食を集中的に学んだという。今は市内の料亭で修業の身であるらしい。
鶴は慶應法学部で弁護士になるため日々勉学に励んでいるらしい。てっきり遊び散らかしていると思ったら誰よりも真面目に勉強していた。
白奈は専門学校で美容師の国家資格を勉強し、美容師免許を取得。彼女も市内の美容院で一生懸命働いているそうだ。
そのうち同級生が結婚したとかなんとか話が上がってくるのだろう。歳を取るとそうなっていくのか。
俺は酒を飲まなかった。以前試しに飲んでみたが到底生き物の飲む液体とは思えず、やはり人類は理解しがたいと思った。が、俺の周りは結構飲んでいて、特にアリナは俺の代わりに飲んでいるかのようにたくさん飲んでいた。鶴が言うには超珍しいとのこと。普段は全然飲まないらしい。
飲み会は早めに切り上げた。
俺の体調を考慮してとのことで、また会う約束をして二次会はなしにした。
「んじゃ、アリナの介護よろしくね~」
鶴がアリナを俺に渡した。アリナは顔を赤らめぼんやりとしていた。足取りも危うく、肩に手を回さないと立っていられない状態だった。
「おい、俺に任されても困るんだが。どうすんだよこの酔っぱらい」
「アリナのアパートまで連れてってあげな~。私たちは適当に飲んで帰るから」
鶴は白奈と真琴の肩に手を回して誘拐するように歩き始めた。赤草先生はクスクス笑って手をひらひら振り、何も言わずに去っていった。
「アリナ、帰れるか。タクシーのとこまで行くぞ」
「むり」
「無理じゃねぇ、帰るんだよ。とりあえずタクシーに乗せるから」
「んー……」
放置したらその場で眠ってしまいそうなくらい夢うつつな状態だった。
仙台はタクシーだらけだからすぐに見つけられる。店からすぐのところには3台止まっていて、まるで俺たちを待っているかのようだ。
「アリナ。おいアリナ。タクシー乗るぞ」
「うん、うん……」
こいつはダメだ。
俺は仕方なくアリナと一緒にタクシーに乗った。アリナになんとか住所を言わせ、タクシーに向かってもらった。アリナはぐったりと俺の肩に頭をのせて目を閉じる。介護は大変だなと思ったが、俺は3年間誰かに介護されていたのだと考えると文句を言える立場でなかった。アリナにはお世話になっているから恩返しということにしておこう。
タクシー代を払い、再びアリナの腕を肩に回す。
「アリナ。部屋の番号は」
「……202」
「2階ってことだよな?」
「にかいってなに……」
アパートが合ってるか不安になる。しかし部屋の鍵は合っていたから正解だった。
アルコールの匂いで部屋の匂いなんかわからない。スマホのライトで照らし、壁のスイッチを押して部屋を明るくした。アリナの部屋は質素で、本棚やパソコンくらいが趣味のものに見えた。窓際には洗濯ハンガーがあってアリナの下着が吊るされていた。
「ほら、部屋着いたぞ。寝かせるからな。その拍子にゲロ吐いたりするなよ」
アリナをごろんと布団に寝かせる。髪を背中で踏んづけそうだったからそうならないようわけてやってから寝かせた。
立ち上がろうとしたとき、袖を掴まれていることに気づいた。そっと払おうとするもがっちり掴んでいる。
「水」
「水が飲みたいか」
「うん、水。おねがい」
アリナはうるうるした目でそう訴えてきた。一刻も早くこのアパートから立ち去りたい。紅潮したアリナは見たことないほど色気があって俺の中の天使と悪魔が戦い始める。もちろん天使が余裕で勝つのだが、これも恩返しと自分に言い聞かせて少し残ることにした。アリナの父親は暴飲の末、吐いて窒息死した。それが頭によぎったのだ。
水の入ったコップを持ってくるとアリナは身を起こして受け取った。
こくこくと飲んで喉を動かす。とりあえずは大丈夫そうだ。
「気持ち悪くないか」
「うん、だいじょうぶ」
「次からはあんなに飲むなよ。飲みすぎてもいいことなんてねーだろ。健康になるわけでもねえしな。トマトジュース飲みすぎたおれが言ってんだから説得力あるだろ」
「つぎもいっぱい飲む」
「おい」
「いっぱい飲んだら、あなたがここに来てくれるから」
「アホ言うな。寝ろ寝ろ」
俺は何言ってんだかと思いつつ、アリナの肩をそっと押して横にさせた。気持ち悪くないはずがないだろうに。喋らずに寝ろと言い聞かせて毛布をかけてやった。
「じゃあ俺は帰るからな。漏らして水浸しにする前にしっかりトイレ行っとけよ」
「やだ。かえんないで」
「地球の平和を守る任務があるから帰んなきゃいけないんだよ。聞こえるだろ。地球の裏から悲鳴が」
「うそばっかり。私が吐いちゃって、苦しんじゃうかもしんないのよ。いっしょにいて」
「吐いたら飲め」
「あなたが飲んで。ずっと……手を握ってあげたのに。ひどい男。あなたさいてい」
ずっと手を握ってあげたのに。俺が眠っていた時のことか。
それを言われるとどうしようもない。
「じゃあ俺は玄関前で寝るから何か言ったら叫べ」
「やだ。こっちきて」
「やだじゃねーんだ。寝ろ」
「ばーか」
俺は電気を消し、玄関の前、台所の下で横になった。
同棲ってこんな感じなんだろうか。いや、同棲してる1人が固い床で寝るってとんでもない上下関係のある2人だな。
冷蔵庫の駆動音がぶーんと聞こえる。冷静になってみると寝てるアリナが傍にいるなんて異常事態だ。あのアリナがだ。学校中から求愛されてたあのスーパー美少女・日羽アリナが近くで無防備に寝ている。人生何があるか分からないって言葉は本当らしい。
「彗」
暗闇の中で俺を呼んだ。
「なんだ」
「おやすみ」
「……おやすみ」
アリナはそれから寝息を立てて寝た。
固い床が肩や腰をいじめてきて中々眠れそうになかったが1時間もすれば意識は溶けた。眠るのが最近怖かった。また何年も眠ってしまうのではないかと考えると怖くてたまらない。けれど今日は早く眠ることができた。朝、アリナと会うのが楽しみだったから。
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