第75話 日羽アリナは諦めない
「いいか、本気は出すな。あくまでウォーミングアップ程度と考えろよ」
綱を握る前にまさおに忠告した。少しばかり頭の回転がとろい彼を案じて、力の制御を誤まらぬよう釘を刺しておいたのだ。しかしいざ審判の合図で試合が始まるとバーサーカーは叫んだ。
「うわあああああああ!」
咆哮というよりはドッキリに引っかかったときの叫びだった。彼の前で綱を握っていた俺は思わず後ろを二度見した。カバみたいに口を大きく開けて変な声を出していたらそりゃ誰だって二度見するだろう。うんこでも漏らしたのかと思った。
彼は最後尾で綱を身体をぐるぐるに巻き付け、地面に足を突き立て全身の筋肉をパンクアップさせていた。巨木のような前腕が恐ろしかった。巻き込まれていたら片腕を持っていかれていただろう。
そんな彼の奮闘のおかげもあって1組は勝利した。
「……は?」
借り物競争に出場した私はいいスタートダッシュを決め、お題を一番乗りで開くことに成功した。
だが内容が難題すぎた。
〈実はハゲ〉
実は、ってなによ、実はって。おかしいでしょ。ハゲを偽っているってこと? カツラの人を探せばいいのかしら。『実は』が無ければ現国教師が美しく太陽光を反射しているから楽勝だったのに。
お題を握りしめて焦っていると私の名前が1組のブルーシートから聞こえた。
「アリナー! トマトジュースなら俺が持ってるぞー!」
誰もトマトジュースなんて求めてないわよバカ、と叫んでやろうかと思った。求めているのは「偽りの髪」なの!
私はぐるりと見渡した。
「カツラっぽい人……カツラっぽい人……」
お題を胸に抱きしめながら目的の人を目で探した。特に放送席付近。なぜなら中年以上のおじ様教師が集まっているから。いるならあそこしかいない。覚悟を決めて私は走った。
いざ、おじ様方を前にして言葉に詰まった。普通に無理。言えない。「あなた、実はハゲですか」なんて言えるわけないじゃない。失礼にもほどがあるでしょ。このお題を考えた人を私は一生恨む。
『どうしたんでしょうか。日羽アリナ選手が放送席に来ています。一体彼女は何を探しているんでしょうか?』
放送部の人がそういった。
その時わたしは閃いた。放送部のマイクを奪い、私は口を開いた。
「実は、カ、カツラの人を探していますっ!」
グラウンドにアリナの声が響いた。
そして教頭の髪が落ちた。
髪が落ちたのだ。髪の毛が1本落ちたのではない。滑るようにごっそり落ちたのだ。
何とも形容しがたい。俺も初めて見る光景だった。
すると突然、周りの音が小さくなった。そして教頭の声が俺の心に直接語りかけてきた。
『生徒のためなら──喜んで』
一斉に笑い出す全生徒。
腹を抱え、指をさし、アリナとともにゴールへと走る教頭の姿を見て生徒たちは笑った。教師たちも失笑し、体育祭は笑いに包まれた。
ひとりの勇気ある男を犠牲にして。
彼こそ教育者の鑑だ。
俺は彼の言葉を聞いた。決して進んでカツラを捨てたわけじゃない。彼の葛藤は痛いくらい伝わってきた。恥を取るか、生徒を取るか。ずっと隠し続けてきた秘密を暴露する恐怖と彼は戦ったのだ。
時間なんて無かった。アリナがマイクで話してから数秒も経過していない。その数秒間で彼は今後の人生を左右する決断をしたのだ。たったひとりの生徒のためにあれだけの決断をできるか? 俺にはできない。
教頭と時空を超えて繋がり、俺は人としてどうあるべきかを学んだ。己の理念を曲げずに教育者としてなすべきことをした彼の崇高な行動に拍手を送りたい。
「彗、どうして拍手してるんだ?」
バカ笑いしていた真琴が言った。
「彼は英雄だ」
「え?」
教頭、僕はわかっている。笑い飛ばした生徒たちは無視してください。僕が後ほど痛い目を見せてやりますから。対抗リレーで。
他クラスが競技をしている時は割と暇なもので、俺は寝っ転がって空を眺めていた。風で流せれていく雲をひたすらじっと見ているとインテリジェンス・タカゾウが覗き込むように視界に入ってきた。
「お前がスーパー美少女だったら泣いて喜んでいたのに」
「残念だがそれはおとぎ話だ。スーパー美少女という別称を付与される人間が生まれる確率と君と出会う確率を掛け合わせてみればすぐわかる話だろう。整形手術を施せば実現するかもしれないが、術を受けるための経済力を身につける頃にはもう少女と言うには――」
「それ以上喋るなら1文字につき100円払え。何しにきた」
「二渡鶴と話してみたい」
「鶴と?」
「この頭脳をもってしても彼女に学力で上回ったことがない。どのような人物か興味があるんだ。何か学べるものがあれば吸収したい」
「なるほどなぁ。放送席にいると思うぞ。生徒会も臨席してるし」
「わかった。立て、彗」
「なんでだよ」
「仲介役を担ってくれ。僕は彼女と会話したことがない」
住む世界が違う人間と話しにくい気持ちはわかる。俺も蝉みたいにウェーイウェーイと叫ぶ人種とは仲良くなれる気がしない。やつらも1週間の命であればいいのにと願うくらいだ。
仕方なくその役を受けてやることにした。
放送席に着くとやはり鶴はいた。テントの下で日光を浴びずに涼んでいる。まったくいいご身分だ。
「鶴。今いいか」
「おやおや、彗だ。大丈夫だけど」
鶴は両頬に星型のタトゥーシールを貼っていて随分と体育祭を楽しんでいるようだ。ちょっと可愛いじゃねえか。
「こちらが不動のナンバーワン、二渡鶴だ。一見足し算引き算できない系女子に見えるが中身は勉学の女神だ」
鷹蔵にそう紹介した。鶴は「ちゃんとできますぅー」と不満を口にして鷹蔵を向く。
「僕の名前は沼倉鷹蔵だ。君とは一度話してみたかった」
すると鶴が俺に近づいてきて耳元で囁いた。
「別に男を紹介してとか頼んでないんだけど」
「そんなんじゃーよ。単純にお前の頭脳に興味があるだけだ。こいつのこと知らないか?」
「名前だけなら知ってるよ。よく私の後ろにいるし」
私の後ろ。私より成績が下という挑発的暗喩を鶴は呟いた。その声はちゃんと鷹蔵に伝わっているようだ。
「後ろか。確かにそうだ」
「他意はないよ?」
「理解している。僕もいつも君の名前を後ろから見ている」
おい世界のみんな、もう闘いは始まっているようだぜ。なんでこいつらそんなに挑発的なの。
「僕は君の知能の高さを確かめに来た。一体どんな人間に僕は敗北し続けているのかずっと気になっていたんだ」
「こんなです〜」
鶴は両人差し指を頰に突き立てて、ぶりっ子ぶった。ぶりっ子嫌いの榊木彗くんはこの時爆発的に殺意がわいた。
「なるほど。君はそういう人間だったのか」
「そうです〜きゃぴ!」
「質問をしてもいいか」
「どうぞ〜きゃぴ!」
うぜえ。頑張れ我が帰宅部の頭脳。インテリジェンス・タカゾウは伊達じゃないってところを見せてやれ。
「君は言葉を選んでいる馬鹿なのか?」
喧嘩口調なものだから嫌な空気になりそうだなぁと思ったが、意外にも鶴はニコニコしていた。
「まぁそういう時もあるかな?」
「わかった。これで失礼する」
「きゃぴ!」
お母様、これが混沌というものでしょうか。小生は今、噛み合わない日本語に狼狽しています。
玉入れの様子を眺めながら戻っていると鷹蔵が口を開いた。
「二渡鶴は馬鹿じゃない。それだけはわかった」
「なぜに?」
「さっきの僕の質問は『相手の知能レベルに合わせて言葉を選んでいるか』っていう意味の質問だ。単純なやつなら罵られていると勘違いするが、彼女は意味を理解した」
「自分のこと棚に上げすぎじゃねーの?」
「それこそ短絡的思考だ。見下しているつもりは彼女にはない。彼女は自分の言葉に制限を加えることに苦痛を感じているだけだ。だがその悩みは一握りにしかわからない。だからこそ彼女が見た目通りの女性ではないとわかるんだ」
なるほど、よくわからん。
「二渡鶴に好意を抱くかもしれない」
「は?」
鷹蔵が鶴に告白している光景を想像する。鶴が受け入れる未来が一切見えねえ。
まぁ勝手にしてくれ。俺は対抗リレーで失敗さえしなければ他はどうだっていい。
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