第74話 開戦
老いて朽ちるまで、私の憎悪は消えることなく燃え続けるだろうと思っていた。
死ぬまで──私の意識が昇華して、どこかへ旅立つその瞬間まで私は瀬戸山明──父を許せないはずだった。
その私がなぜ父の墓に訪れようと思ったのか。
電車を何本も乗り換え、父の実家近くの霊園に到着した頃にはもう午後を回っていた。
休日だからだろうか。思った以上に墓参りに来ている人がいた。ご年配の方が多く、1人で来た女子高生の私はさぞ浮いていることだろう。
母とは墓参りについて一度も話題に上がらなかった。多分母はその気はなかったと思うし、私の心境を考えて口にしなかったのだろう。私もあえて父の影が見え隠れする話題は一切しなかった。だから今回は内緒で来ているのだ。
瀬戸山家の墓はすぐ見つかった。それを前にして私は立ちすくんだ。
本当に父はここにいるの?
その疑問が胸に渦巻く。事実、父は亡くなったしこの目で見た。しかしふらっと現れてまた私たちに手を出してくるんじゃないかと日々不安を感じていた。そんなことはありえないとわかっていても、私の身体は言うことを聞いてくれなくて、いつも敏感に人の影に反応した。
父を許すことはもうできない。許すつもりもない。だからこの場に立って「死」という逃亡を遂げた父を怒鳴りつけるのかと私は思っていたのだが、おかしなことに感情は高ぶらなかった。
だからこそ混乱した。本当はもう許しているんじゃないかと。
「そんなわけないでしょ」
父の墓に向かって呟く。
「あなたがたとえ懺悔しても私たちは癒えないのよ」
無駄な言葉だった。
私がどれだけ騒いでも答えは出ない。霊となって枕元に立つこともありえない。
ならどうして私はここにいるのだ。
自問自答の末に出た答えは彗のためだった。彼を忘れたのは父の死だったから、父の死を見つめれば彼を思い出すんじゃないかと無意識下で考えたんだと思う。根拠なんてゼロだけれど。
彼がどんな人かはだいぶわかった。
でも既視感を覚えるようなことは残酷なほどワンシーンも思い出せなかった。彼の特徴的な口回しに懐かしさを感じることなんて無かった上にすべてが新鮮だった。ダメだなぁ、思い出せないなぁ、と思う日々が続いてもがんばった。
思い出さなくてもいいのでは。
そのように悪魔が囁いたこともあった。
今のままでいいじゃん。
だって生活に何の支障も無いじゃん。
たった1人の男の記憶をなくしただけじゃん。
理屈で凝り固まった私の頭では否定しづらかった。
時々、彼は悲しい表情を見せる。すぐいつもの真剣か、ふざけているかわからない表情に戻るけれど私にはわかる。私の棘のない言葉でも彼は傷ついている。彼の表情が私にとても響くのだ。
そして彼に辛い思いをさせていることが一つある。
私のノートには彼にバレンタインチョコを渡したと記述されていた。記憶には無いけれど渡したのは確実だ。
でもホワイトデーのお返しはもらっていない。それが彼に辛い思いをさせている一つだ。
彼はピエロを羽織っているけれど中身は真面目だとわかっている。その性格から想像するに、彼は今の私に渡しても意味がないと思っているか、私に余計なことで気を煩わせたくないと思っているかのどちらかだろう。もしかしたらどちらもかもしれない。
「はい、榊木です」
大会前に彼のモヤモヤを少しでも払拭できればと思って私は電話した。でもいざ彼の声を聞いて、何を言おうか全部飛んでしまった。彼の声に揺らぎが無かったからというのもあるし、父の墓の話や彼が気にしているであろう事柄を真面目に話すのは、ちょっぴり恥ずかしさがあったというのもある。
それに彼はもっと気にするかもしれない。
「もしもし。榊木ですけれど。日羽アリナさーん、聞こえてます?」
未だに彼の記憶が一欠片も思い出せていないことを伝えてもやっぱり逆効果だ。
「ごめんなさい。聞こえているわ」
「で、何の話だ?」
「そうね、忘れてしまったわ」
「なんですと?」
「明後日の体育祭、がんばりましょうね」
「お、おう。優勝するぞ」
「もちろんよ。じゃあ、また明日」
忘れてしまったとはなんだったのか。
何も無いならいいのだが、どう考えても何かあったからあんな漠然としない切り方をしたのだろう。
「何で優勝するの?」
リビングで通話していたものだから、宇銀が俺の短いやり取りを聞いてそう言った。
「部活対抗リレー」
「兄ちゃん部活入ってないじゃん」
「あーあー聞き飽きたわその台詞。しかしだな、人選は最強だ。世界を5回は滅ぼせる」
「すごーい」
絶対この子そう思ってないわ。だって話してる相手と目を合わせずスマホの画面に釘付けだもんね。兄ちゃん悲しくて五臓六腑腐り落ちそうだよ。
翌日、アリナは至って普段通りのアリナだった。昨晩の電話の件については触れず、明日の体育祭について少し話す程度で、ずっと鶴とお喋りしていた。
俺も普段通りに過ごした。授業を受け、昼食を摂り、真琴と話し、授業を受け、帰る。嵐の前の静けさというべきだろうか。とにかく実に平穏な日だった。
やはり訊いておくべきだっただろうか。言いづらいことでも言わなければならないこともある。こちらから歩み寄った方がよかったのかもしれない。
そして体育祭当日。
雲一つない晴天下、俺たち1組はブルーシートの上に座っていた。開会宣言が終わり、持ち場に戻った俺たちは最初の戦いに向けて精神を高めている最中である。
乾燥した地面に風が吹いて砂が舞い上がった。そして試すように俺の肌を撫でる。
本番だ。部活対抗リレーは午後1発目だから午前中は遊んでいればいい。そうだ、遊んでおけ。体育祭は運動能力に長けている者がここぞとばかりに輝かしいスマイルを女子に振りまきながら楽しむ場だ。せいぜい黄色い声で耳をやられておけ。
「彗くん。僕たち勝てるんでしょうか……」
バーサーカー・マサオが固い地面なのに正座をして俺にそう訊いた。
「安心しろ。もちろん勝つことも大事だが何を得るかが一番重要だ。どんな結果になっても得るものは必ずある」
「そうですね。前向きにいきます」
「それでいい。午前中の種目はどうでもいいんだ。ハムスターの戯れみたいなもんだ。温存しとけ」
そんなことを話していると綱引きのアナウンスが流れた。
『3組と5組の各学年の方は入場門にお集まりください』
綱引きのルールは変わりないが、チームは各学年混合である。1年、2年、3年のそれぞれの組をまとめたものがチームとなる。というのもこの体育祭のチームはそういった振り分けになっており、『ナンバーワンの組』を争う形式となっている。本校は5組まであるため5チームで争う。
ぶっちゃけどこの組が優勝してもビリでもどうでもいいというのが本心である。メインは対抗リレーだ。ゆえに3組のインテリジェンス・タカゾウの身を案じて俺も入場門に行った。
鷹蔵を探すのには苦労したが全員が揃う前に見つけることができた。
「よう、鷹蔵。体調は?」
「問題ない。心拍数も安定している。とても快調だ」
「それはよかった。いいか、綱引きでケガとかするなよ。俺たちは代替不可能なオンリーワンだ。気を付けてくれよ」
「心配無用だ。綱引きというのは力めば力むほど外傷を負いやすい競技だ。スタートと同時に僕は綱を触ることだけに専念する。総合的な力量を見れば僕が本気を出しても0.001くらいのパーセンテージしか占められない」
「それは雑魚すぎる」
「だから午後に支障は出ない。わざわざ激励に来てくれたことに感謝する」
一礼して彼は綱のもとへ歩いて行った。この場に凛音がいたら「がり勉君がかっこつけても女子は逃げてくだけだよ」と辛辣な言葉を投げていたに違いない。
彼の無事を祈りつつ、俺はブルーシートに戻った。
胡坐をかいて一本の線になった3組と5組を眺める。
綱引き審判のプロっぽいご年配のおじいちゃんが笛を鳴らしながら綱の位置を調整している。
調整が終わり、審判は叫んだ。
3組と5組はがっちりと綱を掴んで引っ張りあった。
獣の雄叫びのように両チームともリズムを合わせて腰を低くし、仰け反る。腕で引かず、全体重を綱に乗せるようにして相手に負けぬよう引っ張り合う。じゃりじゃりと砂の音がして、砂煙が彼らの足元で漂った。
俺は持参した双眼鏡を手に鷹蔵を探した。彼はすぐに見つかった。ジリジリと5組が優勢になりつつあり、3組の全員が歯を食いしばって奮闘する中、鷹蔵だけがまるでクーラーの効いた室内にいるかのようなリラックス顔で綱を握っているのだ。というかただただ立っているだけだった。
確かに怪我の忠告はしたがあれはもはや「存在」しているだけだ。道端に石ころがある。空に雲がある。綱引きに鷹蔵がいる。そのレベルだ。
もっと力を入れろと俺は念を送った。3組のみんなに失礼だぞ、と言ってやりたかったが双眼鏡の中の彼は目をつぶって、ひたすら瞑想にふけっていた。彼は何を考えているのだろう。虚数だろうか、極限だろうか。
結局、3組は負けた。
「大丈夫だったか」
退場してきた鷹蔵に近寄ってそう声をかけた。
「外傷等無しだ。コンディションは完璧に近い」
「だろうな。お前の顔、悟りに近かったもんな」
「僕の顔はそう見えていたのか?」
「1人だけ場違いだったからな。何考えながら綱掴んでたんだよ」
「朝飯の納豆だ。ネギを入れるべきだった」
「わけわかんねーよ」
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