第72話 プライド
練習が始まって何日か経過した頃。
新しいクラスにも馴染み始めて、コース別の授業も始まった。俺は理系人間だから物理や化学を集中的に学ぶ。難解な内容ゆえに頭が痛くなるのだが、インテリジェンス・タカゾウも理系だったため、よく理解できなかったところは彼に訊いて有難く教えてもらった。
彼の時間を割くことに申し訳ない気持ちもあったが「自分の理解を深めるためにも教える行為は非常に役立つ。脳科学的側面から紐解いていくと――」と語り出したから多分頼っていいのかもしれない。
理系人間は別の教室で授業を受けるため、自分の教室に戻ると黒板には苦手な世界史やら小難しい政経の単語で埋め尽くされている。暗記があまり得意じゃない俺にとっては、つい「うへー」と気の抜けた声が漏れてしまうほど見たくない黒板だった。
「あのー、彗、お願いが~」
「断る」
鶴が手を合わせて懇願してきたが先手必勝で断った。見当はついている。
「まだ何も言ってないんだけど」
「体育祭で生徒会の犬になる気はない。俺は俺で忙しくてな」
「えぇ~。いいじゃん。どうせ暇なんでしょ?」
「暇じゃないんだなこれが。アリナに訊いてみろ」
鶴はこっくりこっくりと寝そうなアリナに問いかける。
「アリナ~、彗って忙しくないよね~」
「暇してるわ。大丈夫よ……」
「おいおいおい眠気と戦っている君が言うかね」
彼女は連日の練習の疲労で眠そうに目をこすった。「ねむいねむい」と呟きながら机に顔を伏せる。
「あれ、寝ちゃった。本気でやってるんだね」
「まあな。俺が集めたプロフェッショナルたちもやる気満々だ。対抗リレーはマジで勝つぞ」
「うちのクラスのまさお君も出るんでしょ?」
まさおは窓際族で普段はスイーツ本を読んでいる。よく1人でいることが多く、クラスメイトたちと共に行動している光景はあまり目撃されない。はぶかれているとかそういうイジメの類ではない。単に彼は1人が好きなタイプなのだと思う。
「そうだ。いい戦力だ」
「他には誰が?」
「沼倉鷹蔵、島野栄治、早坂凛音」
「あ、凛音なら知ってる」
「鷹蔵は知らないのか? お前に唯一届きそうな学力の持ち主だと聞いてるぞ」
「名前なら知ってるけど……間違ってるよ?」
「何がだ」
「私に届くわけがない。出来が違うの、出来がね。ふふん」
調子に乗ってウザキャラになる前に俺は「あいうえおかきくけこさしす――」とひたすら平仮名を唱えることで鶴を追い払うことに成功した。勉強自慢など何一つ有益な話じゃない。ミドリガメと徒競走する方がまだマシだ。
模試が終わるとまた練習を再開した。模試の結果はまだわからないがアリナと鶴とともに答え合わせをして、まぁまぁという予測点数が出た。
体育祭まで時間はあるため俺たちはひたすら走った。始めた頃より総合タイムも連携力も格段に向上していることに皆気づき始めた。願望が現実にすり替わる。その瞬間はもう目前なのかもしれない。
体育祭1週間前という何でもない日。
昨夜、トマトジュースの飲みすぎか知らないが何気なく父親の血圧計を借りて計測したら若者にしては高いという結果が現れたことに恐怖した。普段より本数を抑えて水ばかりを飲んだ。そのせいで持続的な尿意が続き、今日はいつもより小便器に俺の体液をたくさん飲んでもらっている。申し訳ない。もっと飲んでくれ。
また尿意が来てトイレに向かった。すると廊下でインテリジェンス・タカゾウが数人の男子に囲まれているじゃないか。おやおや、これは俗にいう嫌がらせやイジメというやつじゃないか? 未だにこんな古い光景を現代で見られるのか。
「お前勝てると思ってんの?」
「もちろんだ。負ける戦はしない主義だ。ここ数日間で可能性はさらに上昇し、本番当日では最大限のパフォーマンスを発揮できる計算で我々は日々鍛錬を積み重ねている」
「なに言ってんだこいつ」
「イキってんなぁ」
「確かに僕の性能は他者よりかは劣るかもしれない。しかし総合的に見て問題にならない程度だとチームで結果が出ている。もはや代替不可能な段階に突入しているのだ。君らがどれだけほざこうが我々が出場することにかわりはない」
「ぺらぺら喋って、どうせ口だけだろ」
「本能で動きがちな君らが何を言おうが僕は動揺しない」
おやおや、雰囲気が悪くなってきたな。
助けたい気持ちもあるが俺の最優先事項は小便器に俺の体液を飲ませることであって、彼を助けることではない。自分でまき起こした事件は自分で解決してほしい、と俺は考えているため俺は普通に通り過ぎた。
「この負け犬帰宅部が――」
おやおや、聞き捨てならないな。
俺は足を止めた。
男が4人。それぞれの身長167、172、169、175。体格から見るとバスケ部、野球部、サッカー部2名と思われる。
結論、榊木彗の敵にもならない雑魚。
「やぁ。君たち。ご機嫌いかがかな」
突然の不審者来訪に4人は眉をひそめた。そりゃそうだろう。後ろに手を組んでニコニコ笑う身長180の変質者として有名な紳士が詰め寄ってきたのだから。立場が逆だったら俺もビビる。警察を呼ぶ案件だ。
「お前は確か、榊木だな?」
「そうですよ、君たちが今愚弄した帰宅部員の者です」
スマイルを顔に貼り付けたままさらっと自己紹介した。このスマイルはアリナの殺人スマイルから学んだ表情だ。
あぁこいつがあの、あれか、とか口ずさみ、俺を知らぬ者は、俺が誰か気づき始めたようだ。なおこの間、俺はスマイルを絶やすことなく彼らの動向を見守った。某ハンバーガーショップの店員もビックリのスマイルだ。ちなみに俺のスマイルは0円じゃない。血で払ってもらう。
「お前に言いたいことがあったんだわ。お前、日羽と付き合ってんだろ」
「付き合っていませんよ」
「じゃあ日羽に近づくなよ。それとも日羽の弱みでも握ってんのか? だったら日羽が断り続けるのも納得できる」
「握ってませんよ。それよりわたくしめは帰宅部を愚弄したことについて話したいんですが」
「帰宅部の陰キャは消えろ」
おうおう言ってくれるじゃないのあんた。
段々と腹が立ってきた。しかし力を解放すればこの街全体が吹き飛びかねない。
1人が俺の胸を押した。俺のおっぱいを触ったのだ。
そのアクションでつい「は?」と実に紳士らしからぬ高圧的な威嚇をしてしまった。相当やべぇ顔をしていたのか、それとも予想外だったのかわからないが、俺のその威嚇に彼らは一瞬怯んだ。それもそのはず、彼らは動物なのだ。自分より大柄な者の怒りが怖いのだ。動物は理性ではなく野性に従う。
あたりには人が集まり始めていた。変人で有名な彗と4人の男がもめているといった感じだろう。
そんな時、バーサーカー・マサオが前に出てきた。
圧倒的存在。
圧倒的絶望。
圧倒的人外。
何もしていないのに既に強い。傍にいるだけで強さが伝わってくる。あまりにも大きすぎる『強さ』が空間を支配する。
俺の太ももくらいある大砲のような腕を震わせ、防弾チョッキを着こみまくっているとしか思えない分厚い胸板を大きく動かして呼吸する姿は、4人から言葉を奪った。
「け、けんかはダメですよ……」
俺にはわかる。彼も恐怖している。内向的な彼は今頑張っているのだ。
彼は自分を変えたいからリレーに参加した。彼の練習への意気込みは一番高かった。誰よりも努力していると思う。だから彼が一歩前に出て勇気ある行動に出たのは得たものがあったということだ。着実に彼は前進している。
そう思うと怒るのも馬鹿らしくなってきた。
「とりあえず憎しみは何も生まないということでここらでやめよう」
「に、逃げんのか?」
「お前が逃げることになるんだよ。まさおとぶつかり合いたいのか。俺は嫌だ」
俺だってこのバーサーカーとぶつかり合いたくねぇよ。一瞬でぺちゃんこになっちまうわ。強がる気持ちもわかるがそこは引け。さすがの俺でも暴走したまさおは止められる気がしない。
結局言葉は続かず、彼らは渋々その場を去った。ほっとして安堵のため息をついた。
「すまん、彗、まさお。僕の力不足で君らに余計な敵を作らせてしまった。彼らに社会的制裁を加えられるよう司法への更なる理解を深めようと思う」
「やめとけやめとけ。自ら敵を作ろうとするな。それに俺は何もしてない。まさおに感謝しろ」
「そうだな。彗、お前は終始何をしたいのかわからなかった。まさお、君の勇気ある行動に深く感謝する」
まさおは「そ、そんなことないです」と突風が巻き起こる勢いで両手を振って否定した。
「いや、君は称賛されるべきだ。僕が将来日本において地位の高い身分になったら今回のことを大衆の面前で語ろうと思う。君の行動はこの狭いコミュニティで留まることはない。僕が約束する」
鷹蔵はまさおと握手した。それは開拓者と原住民が仲直りしたような歴史的な握手であった。鷹蔵が「いででででで!」と言って手を放そうとさえしなければさらに美しい光景だった。
そしてハートブレイク・リオンもやってきた。
「まさお見直したわー! あはっ! あんたやればできるじゃん! それに比べてがり勉君は……はぁ情けないったらありゃしない。だからモテない」
「恋愛を価値基準にし、それに従って人格否定するならば君こそ無価値な人間だ。君は一体何度告白して何度振られているんだ。成果ゼロじゃないか。価値がゼロだ。君は言ったな。ハートブレイカー――切り捨てるように相手を振る人間になりたいと。結局恋愛がしたいんじゃなくて君はアイドルなりたいんじゃないのか? 日羽アリナのように」
「そ、そんなわけないでしょ!? むかつくなぁ!」
「日羽アリナを目指しても無駄だ。人間は他者になれない。個性とはオンリーワンだ。だから自分を磨くしかない。だから僕は将来に投資する意味合いで勉強をする」
「がり勉君……ほめてくれてるの……?」
「君の思考回路は幼児が作ったおもちゃレールのようだな」
再び喧嘩し始めたため、俺はまさおとその場を去った。喧嘩するほど仲がいいを信じることにしよう。
教室に戻り、一息つくと椅子を蹴られた。
振り返ってみると犯人はアリナの長い脚であることがわかった。
「私ってアイドルなの?」
口角を上げ、俺を試しているかのような口ぶりでアリナは言った。
「さっきの見てたのかよ」
「ええ。面白かったわ」
「なら参戦してくれよ。お前が何か言っていたら確実に早く終わっていたんだが」
「私は好感度底上げキャンペーン中なのよ。毒舌で低評価だった私を変えようとしてるの。割り込んでいたら下がっちゃうわ」
「俺はお前が毒舌を取り戻してくれることを祈ってるよ」
「そうね。あなたにとってはその私がいいのよね」
アリナはしょぼんと落ち込んだ。傷つけたと思い、俺はすぐ取り繕って言葉を返した。
「そ、そんなことねぇよ。今のままでいいだろ」
「あら、嬉しいわ。いつの日かすべて戻ったらいっぱい罵倒してあげるわね」
そう言って立ち上がり、鶴の席に向かっていった。
彼女の記憶が戻る時に俺が傍にいるかはわからない。おそらく自立しているころだろう。
お酒が飲めるようになって、同窓会の時に俺にだけ聞こえるくらいの小さな罵倒を言ってくれればそれでいい。
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