伍幕 天涯、比隣のごとし

薄明幻夢(上)

 ならば願いを叶えましょう。そう声をかければ、大通りの真ん中でひれ伏した男が顔を上げた。


 深灰シンハイ西区の目抜き通りには大勢の人間が詰めかけている。真夏の陽光に照らされて、誰もが額に汗を浮かべながら黄龍コウリュウたちを見つめていた。


 彼は唐服からふくのすそをはらい、膝を折った。いまだ呆然としている男の手をとれば願いの声が聞こえ、眉尻を下げる。


「可哀想に。お金がなくて、明日の食べ物にも事欠いているのですね」

「……分かるのですか。龍様……」

「もちろん。この身は願いを叶える龍なのですから。そうだな……どなたか、そこの店先の慶祝けいしゅく飾りをとってくれますか?」


 群衆の一人が慌てふためいて飾りを差し出した。木の棒に五色の紙を連ねた縁起物は、長年の風雨で汚れ、ところどころ破けている。黄龍はしかし、ためらいなくそれを手にとった。


『かのものの願いを叶えよ』


 静かに告げれば、みるみるうちに薄汚れた飾りが黄金の美しい一枝に変わる。黄龍は微笑み、目を丸くする男の手に枝を握らせた。


「これを売って、好きなものを揃えなさい。望むものはきっと得られるはずです」


 人々がどっと歓声をあげ、男を押しのけるようにして黄龍の元へと殺到した。願いの声が幾つも響き、龍は次々とそれを取り上げ叶えていく。


 飢えて死にそうな者には、尽きることを知らぬ万の富を。

 いわれなき暴力に怯える者には、報復するだけの力を。

 不治の病をかかえた者には、痛みを知らぬ無限の命を。


 願いがたゆたう冷たい水面に手を浸し、どこか歌うように思いながら黄龍は願いという幻を現実にする。そうすれば決まって人々は笑顔になり、あぁ龍様に願ってよかった、ここは本当に翡翠ひすい色の楽園だ、と感動しきりにいうのだった。


 そう、ここは人々に楽園と呼ばれている。黄龍はしかし、それが喜ばしいことだとは思わない。ここは楽園だ。けれどそれは、ここ以外は楽園ではないということと同義だ。


 もっと多くの人々の願いを聞く必要がある。そのためには鵬雲院ほううんいんに戻らねばならない。天に浮かぶ宮ならば、地上の願いが等しく届くはずだからだ。


 ――ならばどうして、自分はいまだ地上に留まっているのだったか。


「もう結構よ、黄龍」


 イチルの声に、黄龍は我に返った。人々の姿はまばらになっており、代わりに唐傘をさした赤髪の少女が不機嫌そうにこちらをにらんでいる。


 黄龍は苦笑いした。


「ありがとう、イチル。迎えに来てくれたんだね。ハイネばあもいるのかい?」

「……いないわ。危なっかしくて外に出せないと、昨日玄帝ゲンテイが言ってたでしょう」

「あぁそういえば、そうだったね。ここはなにせ、たいそうな人混みだから」


 顔には出さないが、玄帝こと真武シンブの契約者に対する情は相当のものだ。とはいえ、ハイネも元は人間である。せっかく地上に降りてきたのだから、なにか見たい物、欲しい物もあるだろう。


 周囲に願いの気配が残っていないことを確認し、黄龍はイチルを買い物へ誘うことにした。なぜかここ一月ひとつきほど機嫌の悪い彼女だが、ハイネの好みを正しく理解しているし、良い手土産を選んでくれるはずだ。


 そこで、イチルの唐傘がわずかに揺れた。彼女の瞳に影が差す。どこか嫌悪にも似た視線が向かう先は、黄龍ではない。


「黄龍。あなたはまた、その女を連れているのね」


 温度のない指摘に、振り返った黄龍は凍りついた。


 すぐそばに夜色の女がたたずんでいる。真武がハイネの代わりによこした従者だろう、と彼は思った。けれどすぐに、そんなはずはないと打ち消した。鵬雲院に、こんな女は存在しない。


 ひどく息が苦しくなって、黄龍は胸を押さえる。真夏の陽光の中で、女は静かに微笑んだ。寂しげな、けれど優しい笑みだった。


「大丈夫かい、シロくん。疲れているのならば、少し私と一緒に休もうじゃないか。ちょうど、いい酒が手に入ったところなんだ」


 あぁ、これは。


「……ち、がう」


 ぽつりと黄龍が呟く。無意識に集めていた水の気配が形を成し、一振りの槍として手の中に収まった。


 その得物を、彼は女の胸に突き立てる。彼女は「あ」と驚いたような顔をした。たったそれだけを残して、次の瞬間には朝霧のように儚く消える。


 ひどい吐き気がして、黄龍はその場にうずくまった。うなじを何度もこする。ザラリとした龍鱗は冷たく、警告するように鋭い痛みを発している。それを感じながら、彼は違うと呟いた。何度も否定した。


 あれは、彼女ではない。あんな笑い方なんてしない。こっちを心配してくれるわけがない。偽物。贋作がんさく。だって、そもそも彼女がここにいるはずないじゃないか。


 不甲斐ふがいない自分を見限って、あの人は行ってしまったのだ。一ヶ月前に。だからあれは幻だ。また自分は、彼女の幻を作ってしまった。欲望まみれの愚かな幻を。


 最低だ。

 最低だ、最低だ、最低だ。


 そんなもので彼女を救えるはずがないのに。


 龍鱗がひときわ強く痛み、黄龍は――シロは、きつく目を閉じる。真夏の陽光に目がくらんだ時のように、ぐらりと世界が揺れた気がした。



*****



 どうしたらよかったのだろうと、シロはずっと問い続けている。


 自分はただ、彼女を助けたかっただけなのだ。だって、彼女はあんなにも楽しそうに生きていた。


 人の話もそっちのけでつまみ食いばかりして、日差しにきらめくラムネ瓶を片手に笑って、くだらない宣伝紙チラシを押しつければ子供のように怒って、花火を映した瞳は楽しげに輝いていた。彼女はたしかに生きていた。自分なんかよりもよほど、たしかに生きていた。


 なのに彼女は、己を殺して匣庭はこにわを終わらせろという。いいや、殺すというのも正しくない。もう死んでいるんだ、と彼女はまるっきり変わらない顔で笑う。


 半人前の術士は禁術で妖魔を討つのに失敗した。だから死んだ。それでもこうして話せているのは、生きろという呪いが自分を生かしているからにすぎない。だから殺せと彼女は言う。終わらせろと彼女は言葉を重ねていう。


 できるわけがなかった。


 だって、死んでしまったら何もかもが終わりだ。死んでしまうことは不幸そのものだ。彼女の一度目の生は救われなかった。だったらせめて、二度目の今くらいは幸せに生きたっていいはずだ。


 だから助けてあげたい。そう思ったのに、助けはいらないと彼女は言う。生きることは望みではないと静かに否定する。そして自分のもとを去った。


 その埋め合わせをするように、彼女の幻影が現れるようになった。


 幻は、本物の彼女と同じように笑った。身にまとう夜の色も同じだった。眼差まなざしは優しさに満ちていた。


 けれどしょせんは幻だから、目を離したすきにつまみ食いなんてことはしない。ほとんど空になったラムネ瓶を押しつけて、すまし顔で言い訳することもない。宣伝紙を渡しても不満な顔ひとつしない。花火は静かに眺めて綺麗だなとありきたりに言うだけ。


 そんなもの、彼女ではない。


 だから否定した。槍で刺して殺した。何度も。そのたびに彼女はほんの少し驚いた顔をして、何も言わずに消えてしまう。そしてまた、今までのことなど何もなかったような顔をして現れる。シロくん、と泣きたくなるくらい穏やかな声で名前を呼んで。


 この行為に意味はない。この行為は何も産まない。肉を断つ生々しい感覚だけが手のひらにこびりついて集積する。そして龍鱗がうずき、凍てついた声でささやく。


 彼女を生かしたいのならば、願いの声を聞けばいい。

 だって、彼女からは生きたいという声がいくつも聞こえるじゃないか。彼女を生かしたいと、ずっとずっと自分は思っているじゃないか。ならば難しいことはなにもない。


 耳を澄ませろ。願いの声をたどれ。夜色の気配は深灰の北側にある。何度も確かめただろう? そう、それだ。あとは願いに手を浸せばいい。声高に叫ばれている生きたいという声を拾い上げて。



 さぁ、願いを。



「――駄目だ」


 絞り出すように否定した、己の声でシロは目を覚ました。茜色に染まる天井は見慣れた蓮安リアン邸のものだ。


 荒い息を吐きながら身を起こせば、額から湿った布がぼとりと転がり落ちる。


 開け放たれた雨戸あまどから中庭がよく見えた。こけむした岩に、古木が黒ぐろとした影を落としている。風はなく、軒先のきさきに吊るされた風鈴ふうりんが音を鳴らすこともない。


 まるで、今までの生活の続きのような世界だった。イチルか、姫子ヒメコか、ヤシロか、十無ツナシか、あるいは彼女か。誰かが今にも縁側の床をきしませて姿を見せそうだ。


 束の間、シロは期待した。けれど実際には、誰一人としてシロのもとを訪ねてくることはなかった。世界は静かで、それは死に絶えているということにほかならず、これが匣庭の幻なのだと痛感する。


 愚か者。喉を鳴らして己をあざ笑い、そうするうちにすっかり日が暮れて虚しさだけが残った。


 シロはおぼつかない足取りで中庭へ出た。夜闇は暗く、目を開けているか開けていないのかも判然としない。何度か石につまずいて地面に倒れ込んだ。そのたびに、何をしているんだろうな、とぼんやりと思う。


 体中が寒く、頭痛は止む気配がない。大人しく板間で休んでいるべきなのだ。あるいは、願いの声に従うべき。彼は思う。その彼が、自分なのか龍なのか判然としないまま、また立ち上がって闇雲に前へ進む。


 指先がごつごつとした何かに当たった。疲労感はすさまじく、だからこそ、中庭を出てずいぶんと遠くまで来れたのかもしれないと、妙な達成感とともに思った。


 顔を上げる。なんのことはない、ただの古木だ。

 自分はいまだ、中庭にいる。


「……は、はは……」シロは乾いた笑い声を上げた。「なんだ、これっぽっちしか進んでないのか……」


 十歩にも満たない距離だ。縁側からここまで。馬鹿らしい。細切れに思いながら、シロは木の根元でうずくまる。


 もういいか、とシロは思う。きっといいのだ。だって自分には何も出来ない。こうやって匣庭はこにわを作って、彼女の願いの声を聞かないようにして、痛みに耐えることはできる。でも、一体それが何になるだろう。出来損ないの幻ですら殺してしまうのに。


 シロという男は、彼女を救えない。

 けれどきっと、龍であるならば。


「……蓮安先生。どうして、あなたが死んでしまう前に僕は会えなかったんでしょう」


 そうすれば、もっと別の道もあっただろうか。ありえない仮定を口にする声さえもみっともなく震えていて、シロは心の底から己を恥じる。


 目を閉じれば、龍の気配は間近にあった。



 *****



 なりません、とハイネは厳しい声で否定した。


 深灰の邸宅は、夏の夜を迎えている。燈籠とうろうの灯りが揺れる中、彼女はまっすぐに卓向こうの男たちを見やった。冷ややかな表情のままの玄帝と、穏やかな笑みを浮かべる鴻鈞コウキン。少年と老爺ろうやの顔つきはまるで違うが、口出しをするなという言外の空気は寸分たがわず同じだ。


 それが分かっていながら、ハイネは明確に首を横に振った。なりません、ともう一度繰り返す。


「黄龍の契約者を無理矢理に用意するなんて馬鹿げています。当人の意思を尊重すべきだわ。そもそも、私達が深灰を訪ねてきたのは、黄龍を救うためであって、意に沿わぬちぎりわさせるためではないでしょう」

「その黄龍を救うためだ」


 玄帝は苛立ちを隠しもせずに返した。


ヨシ、何度も言わせるな。叔父上の魂はたしかに体に戻った。なれど今の彼はあまりにも不安定だ。その原因がニノマエ蓮安リアンという女にあるのであれば、彼女を契約者にすえてながはべらせておけばいい。自明の結論だろう」

「それのどこが自明ですか。黄龍を彼女に会わせるだけで十分でしょう。それ以上のことは彼ら自身が決めるべきです」

「愚かな。契約者かどうかを定めるのは人間ではない。天帝の意思だ」

「目に見えぬことわりよりも、大切にすべき縁があるはずよ」

「天を愚弄ぐろうするのか、吉」


 まぁまぁ、と鴻鈞が口を挟んだ。


「そう言い争わないでください。私の心も痛みます」

「お前の心など、どうでもいい」

「おやおや、玄帝は実に手厳しい」


 鴻鈞は茶を一口飲み、ハイネのほうへ顔を向けた。


「吉様のご懸念もよく理解しているつもりです。ですが、蓮安という術士はあなたが思っている以上に生に絶望している。ほうっておけばいずれ命を絶ち、黄龍の御心をますます乱すことでしょう。それはあまりにも酷だ。ですから、玄帝は契約者という選択をなさろうとしているのですよ」


 ハイネは眉をひそめた。


「我々のような第三者が契約者を選ぶのがどうか、と言っているの」

「無論、最終的に決めるのは黄龍殿ですとも。我々は提案をさしあげるだけのこと」

「言葉は正しく使いなさい。鳥籠とりかごで生け捕りにして献上することを提案とは、」

「あぁ、それはいい考えだね」


 そこで穏やかな声が響き、三人はそろって縁側に面した戸口を見やった。

 いつからそこにいたのか、穏やかな顔をした黄龍が柱に背を預けている。


「叔父上」ややあって、玄帝が案じるような面持ちで言った。「お加減は大丈夫なのですか」

「心配には及ばないよ、真武。ずいぶんと迷惑をかけたね」


 手近な椅子に腰掛けた黄龍は、「さて」と誰にともなく言った。


「蓮安を生け捕りにするという話、僕もぜひ協力しよう」


 ハイネは信じられない思いで、黄龍をまじまじと見やった。


「いいのですか、黄龍」

「もちろん」黄龍は美しく微笑んだ。「一蓮安という女性には、深灰にいる間にお世話になったからね。永遠の命を贈るというのは最上の恩返しになる」

「……それが彼女の望みである、と?」

「おかしなことを言うね? 僕は願いを叶える龍だ。彼女の生きたいという願いを聞き違えるはずがない」


 澄んだ翡翠色の目で見つめられ、ハイネはたじろいだ。まるでここ一月あまりの苦悩が嘘のように、黄龍の眼差しには迷いがない。


 穏やかで思慮深い、願いを叶える龍。あるいは人ならざるもの――ふと浮かんだ言葉に、彼女の背中にひやりとしたものが落ちる。


 黄龍は卓の上で手を組み、黙り込んだ一同を見回した。


「蓮安を捕まえるというのなら、僕の匣庭をえさに使おう。彼女は匣庭という現象にひどくこだわっているからね。ここをあえて存続させれば、彼女はいずれ僕の前に現れるはずだ。そこで願いを叶えてやればいい」

「ならば、俺は周囲の人間の露払いをいたしましょう」

「ふふ、それは心強いな。感謝するよ、真武」


 玄帝が少しばかり嬉しそうに頷いた。代わりに口をひらいたのは鴻鈞だ。相変わらずの笑みを浮かべた老爺はしかし、どこか探るように目を細めている。


「ずいぶんと変わりましたな、黄龍殿は」

「本来、僕がやるべきことをやっているだけだよ」黄龍は朗らかに返した。「それに、蓮安を生かすことはあなたの願いでもある。そうだろう?」

「――そうですな」


 鴻鈞はゆっくりとまばたきし、小袋を差し出した。


「なれば、こちらをお使いください」

「竹筒……呪墨じゅぼくか」


 中身を確認した黄龍に、鴻鈞はうなずく。


「左様。これにて適切な紋を描けば、あの娘を閉じ込めることができる。紋の中では、仮に蓮安が自死を試みたとしても生かすことができましょう。竹筒に込めしは呪われた血、すなわち生きたいという願いそのものですゆえ」

「大層な代物だ」黄龍は困ったように笑んだ。「けれど、どうだろう。僕に扱いきれる気がしないな。紋を描くには相応の知識がいるのでは?」

「御安心を。正しく術が発動するよう、私が手伝いましょう。もとより呪墨はこの身が作った術。黄龍殿はただ、竹筒が破壊されることのなきよう気を払ってくださればいい」

「……そうとまで言われれば、断るほうが非礼か。分かった。明日にでも紋を設置する場所を相談しよう」

「御意に」


 鴻鈞が頭を下げる。そこで耐えきれなくなって、ハイネは立ち上がった。椅子を引く音がやけに大きく響き、玄帝が眉をひそめる。


「吉、騒がしいぞ。つつしみを持て」

「……どうかしているわ、あなたたち」

「おい」


 玄帝のいさめる声を聞き流し、ハイネは部屋を出た。


 夜闇に燈籠がぽつぽつと灯る縁側をたどりながら、彼女は口元に手をおおった。なんだ、あれは。一体なにが起こっている。一人の人間の意思を無視して話を進める男たちが信じられなかった。けれどなにより恐ろしいと感じたのは、黄龍だ。


 優しい笑みも、穏やかな表情も、鵬雲院にいた頃と変わらない。けれど深灰で再会したばかりの黄龍ならば、あんな顔をしなかったはずだ。どこか疲れ果てた顔で、けれど人らしい優しさをたたえた表情で微笑んでいたはず。


 なのに、今の彼は、あまりにも。


「――やぁ、こんなところにいたのか。シロくん」


 女の声が響き、ハイネは縁側で小さく悲鳴を上げて立ち止まった。


 数歩と離れていないところに夜色の美しい女がたたずんでいる。誰何すいかするまでもない、匣庭の幻だ。黄龍を苦しめ続ける諸悪の根源であると、玄帝が断じたもの。


 けれどそこで、ハイネはふと思う。これが匣庭の幻であるならば、彼女は黄龍を苦しめるために現れているのだろうか。


 本当に彼を苦しめているのは、匣庭と自分たち、どちらなのだろうか。


「あなたは、」


 ハイネは震える唇を動かした。そこで、夜色の女の胸に水槍が突き立つ。


 幻は、「あ」という小さな声をあげて消えた。凍りつくハイネの老いた体をそっと抱き寄せたのは、黄龍だ。彼はハイネの顔をのぞきこみ、ほっとしたように言う。


「よかった。何も悪さをされていないみたいだね」

「……どう、して」

「うん?」


 ハイネは弱々しく黄龍の手をはらった。面食らったような青年の、およそ人らしさのない翡翠色の目を見つめて問う。


「どうして、躊躇ためらいなく殺せるんですか。彼女はあなたのための幻なのでしょう?」

「弱ったな」黄龍は水槍を空気に溶かし、両眉を下げた。「しょせんは幻だよ、ハイネばあ。いかなる形にも意味がない。匣庭のすべてはまやかしだ」

「いいえ、まやかしなどではないはずよ。私達が見て、触れて、言葉をかわして、なにか感じたことがあるのならば、全ては本物で、価値あるものになる」

「ふふ、あなたは変わらず優しいね。真武の契約者があなたで、本当によかった」

「黄龍。今は私の話をしているんじゃ、」

「幻には、意味がないんだよ」


 晴れやかな笑みとともに黄龍に否定され、ハイネは言葉に詰まった。

 目の前の男に苦悩はない。悲しみはない。罪悪感もない。

 龍は、人であることをやめてしまった。


「そうだ、ハイネ婆。君にこれを」


 黄龍はどこまでも穏やかな顔のまま、ハイネの手のひらに透明な花の飾りを落とした。なにかと視線だけで問えば、彼は「お守りだよ」と言って微笑む。


「蓮安を捕らえるとなれば、ここは騒がしくなるはずだからね。真武を呼べば事足りるだろうけれど、あなたを守るすべは多ければ多いほどいいはずだ」

「……そう、ですか」

「もちろん、こんなお守り程度であなたに恩返しできるとは思ってはいない。わざわざ深灰まで来てくれたのだから、きちんとお礼をしなくてはね。そう、たとえば今、あなたの願いを叶えることも、」

「結構です」


 水花の胸飾りを握りしめて強く否定すれば、黄龍はきょとんとした。ハイネは唇を引き結ぶ。


 耐えることだと、彼女は己に言い聞かせた。今の彼には何を言っても届かない。けれどいつかは――そこまで考えたところで、本当に、そのいつかは訪れるのだろうかと不安になる。


 彼女はゆるく首を横に振り、花飾りを握りしめた。


「……夕餉ゆうげの支度をいたしましょう。部屋でお待ちください」


 なんとか当たり障りのない言葉を口にして、ハイネは歩き始めた。


 縁側から部屋の中へ入る直前で、再び黄龍に名前を呼ばれて振り返る。ハイネの顔はずいぶんと強張っていたはずだが、当の龍はやはり、気のいい青年の表情を貼りつけて言うのだった。


「夕餉の時に、替えの唐服を持ってきてくれるかな。なぜだか分からないけれど、今着ている服が土まみれになってしまったから」

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