幕間 ■■の龍

「おやめください、叔父上!」


 悲鳴のような声を上げて、腕を掴まれた。その感触でやっと、黄龍コウリュウは現実へ引き戻される。


 夜を迎えた鵬雲院ほううんいん東屋あずまやで、荒く息を吐きながら何度も目を瞬かせる。真っ先に見えたのは石床で、ついで自分が地面へ手をついて座り込んでいることに気づいた。ハイネが選んでくれた白磁の器は粉々に砕け散り、当たり一面に茶が広がっている。


 欠片で切ったのか、指先からじわりと血が滲んで石床に染みた。ここから卓に置かれた灯籠とうろうは遠い。夏の夜闇に全ては沈み、すぐに見分けがつかなくなる。


 深灰シンハイが大火に見舞われているという報が入ったのは、つい先程のことだ。


 下界の様子をくまなく調べるため、真武シンブがハイネに報鳥しらせどりを放つよう命じていた。そこで黄龍の耳に、願いの声が届いたのだ。


 そこからは、あっという間だった。


 願いに触れた瞬間、炎の燃え盛る街に黄龍は放り込まれた。それは願いの主が眺めている光景なのだった。


 粉々に砕け散った石瓦いしがわらが、火にあぶられて赫灼かくしゃくと輝いている。慶祝の飾りに彩られた壁が、黒ぐろとした灰ごと炎に飲み込まれる。そうこうするうちに、不気味なまでに赤黒くなった柱が倒れこんできて、悲鳴を上げた。


 声の限りに助けを呼ぶけれど、炎が空気を焦がす音しか聞こえない。そうするうちに喉が乾いた。声が出せなくなった。咳き込んだところで灰が喉奥まではいり、焼けつくような熱さに悲鳴を上げて、たすけて、と、そう叫んで。


 そこでぶつんと、願いが途切れたのだ。主が死んだからだ。そうして、真武の声が聞こえた。


 自分は、願いを叶えてあげられなかったのだ。断末魔のような幻影から現実に戻れば、じわじわと血の気がひく。黄龍は額を押さえた。手のひらの下で、龍鱗の冷ややかな温度を感じる。


 願いの声はしかし、刻一刻と増えていた。生きたいという、至極単純で当たり前の声が悲鳴のように叫ばれている。あぁでも、なんてことだ。あまりにも数が多すぎる。そして生まれる度に消えていく。


 それは確かに願いだったが、怨嗟えんさそのものだった。恐ろしいと、黄龍は思う。それをいさめるように鱗が凍てついた痛みを生み、彼は己を恥じた。


 願いは尊ばれるべきもので、恐れを抱くようなものではない。


 こみ上げる吐き気を身を折ってやりすごし、黄龍は息も絶え絶えに呟いた。


「……願いを、叶えなくては」


 なんとか力を込めて立ち上がろうとすれば、真武が険しい顔でこれを制した。


「なりません、叔父上。あの地は穢れた願いが多すぎる」

「だからって、見捨てられるわけが」

「いいえ、あなたは見捨てるべきだ。あの大火、なにかが妙だ。血が流れすぎているだけではありません。得体のしれぬ妖魔の気配がするのです。万が一のことがあれば、どうするおつもりですか」


 黄龍は震える息を吐いた。真武の言葉こそ厳しいが、その眼差しには案じるような色がありありと浮かんでいる。


 彼とて、同胞の不安はよく分かっていた。妖魔の気配は確かにある。力こそ龍には及ばないが、空気全体に絡みつくような、暗がりでじっとこちらを眺めて嗤っているような、妙な不気味さも確かにあった。


 けれど、自分がこうやって迷っている間でさえ、願いの声は響いているのだ。生きたいというただひとつのむき出しの願いが、消えるそばから産まれている。そして願いがあるのならば叶えねばならない。


 人間の願いを等しく叶え続ける。それが天と交わした誓約だ。どうして自分に願いを拒否する権限などあるだろう。


 黄龍は真武の手を振り払った。彼が慌てた顔で取りすがろうとする。それよりも早く、黄龍は地についた手のひらで願いの気を掴んで声を絞り出す。


『――かの者の願いを叶えよ』


 翡翠ひすいの光が舞った。再び目を閉じれば、曖昧だった境界が零になり、現実と願いが混ざる。


 黄龍は目を凝らした。無数の願いの声は、もはや燃え盛る街の像を結ばない。真っ暗な世界から押し寄せてくるのは、黒ぐろとした濁流だ。生きたいという願望だ。


 流れ込む願いを片っ端から受け止め、黄龍は死にかけの生命をすくい上げようとする。力は十分にあった。深灰と鵬雲院の距離がいかに離れていようとも、ここまで声が強ければ、願う人間を探すことだって容易い。あぁだが、なんてことだろう。


 願いを叶えるそばから新たな願いが彼にとりすがり、それを叶えていれば治したはずの人間が再び死に瀕している。願いの声は冷たい。暗く血にまみれて淀んでいる。


 いつしか願いの声は足元にぼたぼたと溜まって、黄龍の足を止めさせようとする。怖いと黄龍は思った。そんな己を諌めるように頭痛と吐き気がひどくなり、彼は己を奮い立たせて願いの声を引き寄せる。


 願いを叶えなくてはならない。願いを叶えなくてはならない。願いを叶えなくてはならない。


 急き立てるような声は果たして自分のものなのか、全く別のなにかの声なのか。朦朧もうろうと呟きながら、彼は願いを叶えて生命を救った。それと同じ数だけ、指先から生命がこぼれて足元に死が溜まった。それでも彼は歩みを止めず、泥沼のような穢れた願いの海に沈んでいった。されど、これでいいのだと彼は言い聞かせた。それを肯定する声がなくとも、強く言い聞かせ続けた。





 深灰の大火が収まったのは、それから十日あまりたってのことだ。季節はずれの大雨が燃え盛る街に降り注いだからだった。あとに残されたのは灰燼かいじんと化した街の東側だったが、かろうじて生き残った人々は天と龍の慈悲に感謝を述べた。


 その雨が果たして、願いゆえだったのか、天の情けゆえだったのかは、定かではない。黄龍が叶え続けた願いの数は膨大で、一つ一つへ耳を傾ける余裕も、そこに混じっていたはずのささやかな願いを選別する暇もなかった。




 唯一明らかな事実があるとすれば、炎が収まる前後で黄龍が意識を失ったこと。

 そしてそこから目覚めたのち、かの龍の扱う水がけがれを負ったということである。

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