第10/17話 毒
「ふう……」
武幡は小さく息を吐くと、蛇口を、きゅっ、と捻り、流れる水を止めた。
彼は今、一階のバックヤードにあるトイレにいた。いくら、掠り傷であり、ギャンブルの規則上、治療することができない、とは言え、消毒しないまま放っておく、というのは怖かった。何かしらの感染症に罹る可能性だってある。
流水で洗うくらいのことは、しておいてもいいだろう。さすがに、この程度なら、ルール違反にはあたらないはずだ。そう判断して、3rdラウンドが始まる前に、小留戸には「尿意を催した」とだけ言って、便所にやってきた、というわけだ。
武幡は、ペーパータオルを取ると、右肩の濯いだ所を、ごしごし、と拭き、水気を取った。すでに、出血は治まっていた。今後、肌に傷跡が残ってしまうかもしれないが、心臓に風穴が開くよりは、はるかにマシだ。
彼は、紙をくしゃくしゃに丸めると、ぽい、と、足下にあったゴミ箱に入れた。その後、洗面台のあちこちに置いていた、作業場から持ち出してきた他の物も、捨てた。グリースの容器やカッターナイフ、面相筆やマスキングテープ。
武幡は、がちゃ、と扉を開け、トイレから出た。通路を歩き始める。
見張りの類いはついてきておらず、彼一人だった。しかし、逃げるつもりはなかった。もし、逃走を試みたならば、即座に「ギャンブルの続行を放棄した」と判定され、敗北が確定するからだ。ベレッタの【プライズ】、《自在暗示》により、負けた後の行動は決められている。きっと、強制的に、作業場へ移動させられるだろう。
だいいち、せっかく、一等の【ザウバークーゲル・メダル】を手に入れる機会に巡り会えたのだ。そう、やすやすと、逸するわけにはいかない。
それに、自分一人だけが逃げたら、柔代が置き去りになってしまう。小留戸は、「自分たちの目的はあくまで、南部武幡の確保」「浜田柔代をどうこうするつもりはない」と言っていたが、わずかも信用できない。少なくとも、ろくな扱いはしてくれないだろう。
そんなことを考えているうちに、作業場の出入り口に到着した。扉を開け、中に入る。すたすた、と、小留戸たちのいる机のある所まで行くと、ギャンブルを行う上での定位置についた。
3rdラウンドを開始する前に、まず、先攻・後攻を決めるためのジャンケンをすることになった。掛け声とともに、同じタイミングで、お互いに右手を出す。
小留戸は、五本の指をすべて開いていた。それに対して、こちらは、五本の指をすべて閉じていた。
(よし……負けたぞ……!)武幡は必死に、にやり、と緩みそうになる頬を引き締め、悔しそうな表情を作り続けた。(思いがけず、3rdラウンドでいきなり、後攻になることができた……これで、あの作戦を発動できる……!)
浜田柔代は、武幡がジャンケンに負けた場面を目撃し、顔を顰めた。
(まあ、こればっかりは、どうにもなりませんね……)ふるふる、と、軽く頭を左右に振ると、ネガティブな思考を追い払う。(純粋な運が試されるわけですから。そう落ち込むことではありません。……しかし……)
先手必勝、という四字熟語がある。必勝、というわけではないが、このギャンブルにおいては、明らかに、先手のほうが有利だ。運さえよければ、自分の命をいっさい危険に晒すことなく、勝つことができる。
(あと、わたしたちにできることと言えば、小留戸が外れの実包を取ることを祈るだけ……)じっ、と、彼を睨みつける。(さすがに、まだ1ターン目……当たりを選ばれてしまう確率は、約17%……初手で引かれることはない、と思いたいですが……)
しかし、1%とか5%とかならともかく、17%だ。あっさり、本物の実包を手にされてしまう可能性は、低いわけではない。
(……ご主人さまの様子は、いかがでしょうか?)
ふと、そう思い、柔代は、ちら、と武幡に視線を遣った。彼は、さきほどまでは、とても残念そうな顔をしていたが、今や、そんな表情もどこへやら、きわめて真剣な面持ちをして、じっ、とベレッタに目を向けていた。彼女は、手に持った箱を、前後左右上下に動かして、中に入れられている実包をシャッフルしていた。
柔代は、小留戸の様子も見た。彼も、ベレッタの、箱を振るところを眺めていた。いわゆるポーカーフェイスで、顔から感情を読み取ることはできない。1st・2ndラウンドでも、あのような表情をしていた。
「それでは、3rdラウンド、スタートだ」ベレッタは、こちらから見て小留戸の右隣にある机の上に、箱を、ごと、と置いた。「小留戸、実包を引いておくれ」
彼は左手を伸ばすと、箱の縁を、が、と掴んだ。間髪入れずに、ばっ、と持ち上げる。
そこで、硬直した。
まさしく、文字どおりの硬直だった。箱を掴んでいる左手も、垂れ下げている右手も、床を踏みつけている両足も、すべて、固まっている。顔を見ると、目が少しばかり瞠られており、口が四分の一ほど開かれていた。どうも、何かに驚いているようだ。
「……」
小留戸が硬直していたのは、わずか数秒の出来事だった。すぐさま、箱を、体の前に持ってくる。左手で、箱の側面と側面の間にある角を、右手で、蓋を掴んだ。そのまま持ち上げ、ぱかっ、と開く。
(いったい、小留戸は何をして……?)彼のとる行動が、あまりに予想外で、考えが追いつかない。(てっきり、いつもどおりに、穴に右手を入れるものだと思っていましたが……これでは、ギャンブルが成立しないのでは……)
小留戸は、箱の中に視線を遣った後、ふ、と表情を緩めた。「まさか、こんな手に出てくるとはね……」顔を上げ、武幡のほうを見た。「きみもなかなか、形振り構わないじゃないか、ええ?」
柔代も、武幡に目を向けた。彼は、明らかに機嫌を悪くしていた。今にも、舌打ちしそうな雰囲気を漂わせている。
彼女は、小留戸に視線を戻した。彼は、箱を、こちらから見て左隣にある机の真上に移動させると、ひっくり返した。内部から、次々に実包が落ちてきて、机にぶつかり、からんからん、と音を立てた。
その中に、一つだけ、明らかに不自然な見た目をしている物があった。抽筒板から、何かが、垂直に突き出ているのだ。
目を凝らす。それは、カッターナイフの刃だった。マスキングテープで、底面にくっつけられている。さらによく見てみると、表面には、暗い紫色をしたクリームのような物が、薄く塗られていた。
「これ」小留戸はその実包を指した。「塗られているのは、たぶん、毒の類いだろうね。もし、迂闊に、箱に手を入れていたら、今ごろ、刃で肌を傷つけて、そこから毒に侵されていただろう。たしか」こちらに視線を向けてきた。「浜田ちゃんの【プライズ】は、《毒性嘆息》と言って、溜め息を、有毒ガスにする能力だったよね? たぶん、それによって、毒性を付与されたクリームか何かが、塗られているんじゃないかなあ」
柔代は、あっ、という大声を出しそうになった。
(そう言えば──3rdラウンドが始まる前、ご主人さまはわたしに、いくつかの頼み事をされました……「お前の持っている実包を一つ、くれ」「このグリースに【プライズ】を行使して、毒性を付与してほしい」ということを。そして、わたしがそれらを終えると、ご主人さまは、トイレに行かれました……実包やグリース、あと、よくは見えませんでしたが、その他さまざまな道具を、小留戸たちに見つからないよう、こっそりポケットに入れて。
きっと、ご主人さまは、便所で、実包に細工したのでしょう──カッターナイフの刃を小さく折って、抽筒板に垂直にくっつけ、表面には猛毒のグリースを塗る、という細工を……)
きっと、ジャンケンで負け、後攻になった時、武幡は、しめた、と思ったに違いない。そう、柔代は考えた。細工した実包は、1ターン目が始まる前、当たりの実包を箱に入れる時に、どさくさに紛れて、一緒に投じる必要がある。しかし、もし、彼が先攻だったなら、まさか、それを行うわけにはいかない、自分が毒に侵されてしまう。この作戦は、相手が先攻である場合にのみ、有効なのだ。
(それにしても、小留戸……)柔代は、じろ、と彼を見た。(箱の中に、細工された実包が入っていることに、気づくだなんて……勘がいいと言うか、なんと言うか……あと少し──ただ、前ラウンドと同様にギャンブルをプレイしてくれてさえいれば、こちらの勝ちでしたのに……!)
そんな悔しさが心の中で湧き起こったが、どうにもならない。小留戸は、ベレッタのほうを向くと、「箱を、新しいのに替えておくれ」と言った。「まさか、これ一個しかない、ってわけじゃないだろう? 内部が、毒性を帯びたグリースで、べたべたに汚れてしまっている。いくら、手袋をしているとは言え、この中に手を突っ込むことは、避けたいね」
南部武幡は、小留戸が、当たりとして用いる実包が収納されているケースへ手を伸ばしているところを、仏頂面で眺めていた。
(クソ……まさか、あの実包に気づかれるだなんて……)ぎり、と軽く歯軋りをした。(当たりの実包の代わりに入れたから、箱の中にある実包の総数は、変わらない……ばれない、と思ったのに……!)
細工を施した実包は、柔代が所持していた物だ。そのため、見た目の形や色が、小留戸たちの所持している物とは、微妙に違う。しかし、一度、箱に入れてしまえば、わかりやしない、と考えていたのに。
(……待てよ?)
武幡は、ふと思いつくことがあった。「待て!」と大声を出す。
彼は、ぴた、と手の動きを止めた。こちらに視線を向けてくる。「何だい?」
「もしかして……」武幡は、びっ、と、小留戸の、こちらから見て右隣にある机の上に置いてある、底が青色であるケースを、右手で指した。「その実包、何らかの目印が付いているんじゃないのか?」
「何を言うかと思えば……」小留戸は、はっ、と、こちらを馬鹿にしたように嗤った。「きみ、ラウンドが始まる前に、いつも確認しているじゃないか。当たりの実包に、何の目印も付けられていない、ということを」
「ああ」武幡は頷いた。「そのとおりだ。たしかに、おれは、当たりの実包に、何か、目印のような物が付けられていないか、確認している。
だが──よく考えてみれば、それだけでは不足しているんだ。当たり外れを区別する方法は、『当たりの実包に目印を付ける』ということ以外に、もう一つある。『すべての外れの実包に目印を付ける』ということだ。そうすれば、目印のない実包が、当たりだとわかる」
勝負が始まってから、小留戸はおろか、他の隊員たちも、外れの実包に目印を付けるような、不審な行動はとっていない。しかし、ギャンブルがスタートする前、彼らが、作業場の南西の隅で打ち合わせをしていた時に、そのような作業を行った、と考えることもできる。
彼は、鬱陶しそうに顔を歪めた。「外れの実包に目印なんて、付けてないんだけれどなあ……」と呟く。「まあ、ぼくが言ったって、きみ、信用しないだろうからね。いいだろう、好きなだけ調べたら」
小留戸は、十枯を呼んだ。彼女に、外れの実包が入ったケースと、当たりの実包が入ったケースを持たせると、こちらに遣る。武幡は、彼女からケースを受け取ると、右隣にある机の上に置き、それらに向き直った。
二つのケースから、いくつか、実包を取り出す。まじまじ、と表面を眺めたり、こんこん、と指先で弾いてみたり、ぺたぺた、と満遍なく触ったりした。もちろん、両者が混ざってしまわないように気をつけながら、だ。
しかし、外れの実包に、目印らしい物は、どこにも付いてなかった。当たりの実包と比較してみても、特に違いはない。見た目だけで、これほど同じであるのだから、箱に入れられている状態ならば、余計に区別がつかないだろう。
数分が経過したところで、「満足したかい?」という、小留戸の声が聞こえてきた。そちらに、視線を向ける。
彼は、呆れ返ったような顔をしていた。「何も、妙な所はなかっただろう? さあ、早く、ケースを返しておくれ。ギャンブルを再開しようじゃないか」箱はすでに、ベレッタに渡していた。
これ以上調べても、何も見つかりそうにない。そう判断すると、武幡は、「……わかったよ」と返事をした。
「ただ、外れの実包と当たりの実包、それぞれを、いくつか貰うぞ。今後、何か調べたいことが、新たに出来るかもしれない。そのたびに、ケースを貸してもらうのは、あんたにとっても、面倒だろう。
別に、いいだろう? 何個か頂戴したって、総合的な戦力が逆転するわけじゃない。だいいち、柔代の拳銃は、規格が違うから、装填できない。本当に、持っているだけだ」
小留戸は数秒、沈黙した。「……ま、そうだね。わかった、実包、取りなよ」
「ありがとよ」
武幡は形式的な礼を言うと、二つのケースから、それぞれ三個、合計六個の実包を手に取った。当たりはスラックスの右ポケットに、外れは左ポケットに収める。ケースは、その後、机の奥のほうへと押しやった。
「ええと……当たりの実包を箱に入れないと、だな」
武幡がそう言ったところで、ベレッタが、箱を、こちらの右隣にある机の上に置いた。彼はケースから、当たりの実包を一つ取り出すと、そのまま手を移動させ、箱に入れた。
その後、ベレッタは、箱を持ち上げ、体の前へ移動させた。小留戸の、こちらから見て右隣にある机の上に置かれているケースから、外れの実包を五個、取り出すと、箱の中に入れる。
「それでは、シャッフルするよ」彼女はそう言うと、箱を、前後左右上下に揺るがし始めた。
その間に、十枯が近くに来て、こちらの右隣にある机の上に置かれているケース二つを持ち、小留戸のほうへと戻っていった。武幡は、なんとはなしに、彼女を目で追った。
唐突に、ふと、小留戸の様子に、小さいながらも、違和感を抱いた。
3rdラウンドまでは、彼は、特に何の感情も抱いていないような表情で、ベレッタの、箱を振る様子を見ていた。言い換えれば、これから、ある意味命が懸かっているギャンブルが始まる、というにもかかわらず、大して緊張していなさそうな印象を受けた。
しかし、今は違う。小留戸の顔は、明らかに強張っていた。じっ、と、食い入るように、揺るがされる箱を凝視している。前回までは、「凝視している」というよりは、「眺めている」という感じだったのに。
「それでは、4thラウンド、スタートだ。小留戸、実包を引いておくれ」
ベレッタは、小留戸の、こちらから見て右隣にある机の上に、箱を置いた。彼は、それを左手で持ち上げると、手元に引き寄せた。
ゴム手袋を嵌めた右手を、穴に突っ込む。ごそごそ、と、内部で動かし始めた。
(ぐ……! 頼む……外れを選んでくれ……!)武幡は思わず、そう心の中で呟いた。いったい誰に頼んでいるのか、自分でもわからない。(さすがに、もう、1ターン目からいきなり当たりを引かれることは、ないとは思うが……絶対、とは言いきれない……頼む、外れを取ってくれ……!)
小留戸はしばらくの間、右手で、ごそごそ、と、箱の内部を探り続けた。3rdラウンドまでと比べて、やけに時間がかかっている。
(まさか、2ndラウンドで棚を倒した時のように、盤外戦術を実行しようとしているんじゃ──?!)
武幡は、ばっ、ばっ、と周囲に視線を遣った。しかし、こちらに危害を加えてきそうな物は、何もなかった。
(どうやら、杞憂のようだな……)ふう、と軽く溜め息を吐いた。(まあ、案外、ただ単に、どれを引くべきか迷っているだけかもしれないな……)
武幡は、小留戸が実包を選んでいる間に、ヘルメットを頭に被った。シールド越しに、彼の様子を、じっ、と窺う。
やがて小留戸は、右手を穴から抜いた。親指、人差し指、中指で、実包を一つ、摘まんでいる。
「それでは、小留戸。実包の使用を試みておくれ」
彼は、こちらから見て右隣にある机の上に箱を置くと、近くにあった拳銃を手に取った。折ると、実包の装填を終えてから、伸ばす。それから、右手でグリップを握り、銃口を向けてきた。
その後、数秒間の沈黙があった。小留戸は、2ndラウンドにおいて、1stラウンドと同じテンポで、トリガーを引いた。そのせいで、タイミングを見計らわれて、目を眩まされ、弾が外れてしまった。それを避けるために、拳銃を構えてから実際に発砲するまで、わざと間を空けているのだろう。別に、武幡としても、一度やった作戦がまた通用するとは思っていないから、無用な心配なのだが。
最終的に彼がトリガーを引いたのは、銃口をこちらに向けてきてから、十秒ほどが経過した頃のことだった。
ばあん、という音がした。
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