#09
八月四日が来た。七月中にできるだけ英語や数学などの宿題を進めて、ついに三郷の家へ行く。
前日には荷物を用意して準備万端だったはずだった。何も問題なく家を出られるはずだった。
「ひのちゃん行かないでぇ」
一人で留守番を任された年齢が兄より早かったはずの弟が珍しくぐずりめそめそと泣き出した。なだめているが弟の寂しさは一層大きくなるらしい。出発の時間が近づいてくる。
インターホンが鳴った。足にしがみついている弟を連れて玄関まで行くと祖父が作った野菜を届けに来てくれていた。大きなダンボールにトマトやナスがたくさん入っている。
これから友達の家に泊まりに行くと伝えると祖父は野菜を持っていくように言い、小さいサイズのダンボールに野菜を移してひのでに渡した。
「そんなに要らないよ。持ってけねえから」
「いいから持ってけ。世話んなるんだろ」
「そうだけど。じいちゃん、俺さ、他にも持ってくもんあんだよ」
「にしび。兄ちゃんこれから友達んち行くんだと。約束があるんだからちゃんと守らないといけない。放してやれ」
祖父が慰めに入ってくれたその隙にひのでは家を出た。野菜も渋々持って行った。弟の泣き叫ぶ声が遠く聞こえた。
暑い中、背中にリュックを背負って両肩に荷物をかけ、両腕で野菜の入ったダンボールを持って電車に乗り知らない土地へ行く。それだけでぐったりだ。
迎えに来てくれた三郷は大荷物のひのでを見て笑っていた。初めて私服の三郷を見た。学校の制服は誰が着ても上品に感じるが今日は三郷がいつもより大人っぽく感じる。
駅からバスに乗って三郷の自宅へ向かう。ひのでの想像より広い家だった。友達の家へ遊びに来た気にはならない。玄関からしてモデルルームのように整っている。リビングにグランドピアノまである。壁にはバイオリンが何挺もかけられていた。三郷はただ歌うことが好きなだけでなく、こうして音楽に囲まれて育ったのだとひのでは初めて知った。
けれど棚の上に飾られている家族写真が目に入り、ひのでの緊張はふっと解けた。どの小さい三郷も愛らしく笑っている。目の前の彼も微笑んでいた。
最初に出迎えてくれたのは三郷の母だった。きれいな人だ。にこにこと人当たりのいい女性である。三郷は何度も「母は深川君に会いたがっている」と言っていたがその通りのようであった。たくさん質問されその勢いに冷や冷やしたものの、答えるに困るようなものはなかった。
次に会ったのは父親だ。ひのでが三郷家に到着した頃は出かけていて不在だったが三郷に家の中を案内してもらっている間に帰宅し、これまた広く手入れが行き届いている庭でバーベキューの準備を始めていた。優しそうで物静かな人物だった。大学の先生をやっていそうだとひのでは感じた。ひのでも三郷と一緒に椅子やテーブルを出して手伝った。
ちらりと見えた清潔な台所の小棚には調味料だろうか小さい瓶がきれいに並べられている。調理器具などは見えないようにしまってあるのか一切見当たらない。生活感があるのかないのかわからなかった。
三郷の母がひのでの持ってきた野菜でサラダを作り始めた。戸棚を開けてボウルとザルを出す。何もかも整理されていた。
「おじい様、農家さんなの?」
「いえ、野菜作りは趣味でやってるらしいです」
「そうなの。うちでも昔ナスを作ったことあるんだけど大きく育たなくてね。おじい様にもありがとうって伝えてね。暖、ドレッシング出してくれる?」
「はーい」
三郷は冷蔵庫から五種類のドレッシングを取り出した。「僕のおすすめはこの玉ねぎのやつ」とひのでに見せた。
最後に姿を見せたのは姉だった。ずっと部屋にいたようだ。家にいれば勉強か昼寝しかしないらしい。そういうわけで彼女の部屋の前を通る際はできるだけ静かにする暗黙の了解をひのでは三郷から聞かされた。
「誰?こんにちは」
二階から降りてキッチンへやって来た彼女の肩を越える髪は乱れていた。勉強疲れなのか寝起きなのか目をしぱしぱさせながら一本調子でひので本人に尋ねた。
客人の前でも取り繕わない姉に呆気にとられたひのでに代わって三郷が答える。
「学校の友達の深川君だよ。今日来るって話したのに」
「そうだっけ?」
「初めまして、深川です。お邪魔してます」
「暖の姉です。どうぞごゆっくり」
姉は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。大きなあくびをしながら庭へ向かった。
「うちのお姉ちゃん、誰に対しても物怖じしないんだ。ちょっと失礼だけどすごいでしょ。高二でね、頭いい学校行ってて僕は尊敬してる」
ハキハキした明るさの持ち主の母とふんわりとしたにこやかな父。二人から三郷が生まれたことには納得できた。両親の中間が三郷だ。しかし姉の雰囲気はどちらにも似ていない。正反対のようにひのでは感じた。
バーベキューは豪華だった。ひのでが肉と魚が好きだと言ったのでどちらもたくさん良いものが用意されていた。三郷の父が火の番でどんどん肉を焼きひのでの皿にも乗せていく。申し訳なく思いながらありがたく頂いた。どれも美味しい。
「ねえ、さっき冷蔵庫に高級そうなゼリー入ってた」
姉が母に言っているのをひのでは耳にした。
「深川君がお土産に持ってきてくれたの。後でいただこうね」
「そうなんだ。ありがとう」
姉は母を見ていた顔をひのでに向けて礼を言った。先ほどの気だるさがなくなっており彼女の端正な顔立ちに気がついた。もし彼女が男性だったら三郷にそっくりだったろう。
「お姉ちゃんは甘いもの大好きだよね」
「それほどでも」
「僕も好き」
鮎の串焼きを食べていた三郷が姉に話しかける。姉弟が並んだ様子をひのでは見ていた。
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