四章

第1話 そんなつもりじゃ【上】

 幸祈の部屋を飛び出し、廊下をずかずかと進んでいると、


「帆波……!」


 バンと勢いよく扉を開ける音が背後でして、幸祈のがなり声が飛んできた。一瞬、びくんと怯んだ隙に、乱暴な足音がどかどかと迫ってきて、ぐいっと腕を掴まれる。


「待てって言ってんだろ」

「離して……!」


 振り払おうとしたその手は、痛いほどにがっしりと私の腕を掴んで離れない。それどころか、簡単にぐいっと引き寄せられて、あっという間に幸祈の胸の中に閉じ込められてしまっていた。


「や……ちょっと……」


 抜け出そうとしても、幸祈の腕はがっちりと私の体を抱き締め、身じろぎすることしかできない。

 ただ、されるがまま、幸祈の胸の中に顔を埋めるしかなくて。ずるい――て声が幸祈のシャツに吸い込まれる。

 幸祈の匂いに包まれながら、幸祈の体温を全身に感じて、幸祈の鼓動に耳を澄ます。それだけで落ち着いてきてしまうから。なんで、私、怒ってたんだっけ……て分からなくなっちゃうくらいで。


「好きだ、帆波」


 トドメを刺されるように。耳元でそう囁かれたら、もう何もかもどうでもよくなる――。

 骨抜き、てやつかな。全身から力が抜けて、降参するようにだらりと両手を下ろすと、幸祈はそっと身を離し、私を見つめてきた。優しげで、それでいて、熱っぽく。どこか狂おしそうなその眼差しは、何か……彼の中で激しく荒ぶるものを感じさせて。見つめられているだけで、じんと身体の奥が熱くなってくる。

 ああ、いけない。このままじゃ……丸め込まれちゃう。

 理性が揺らいでいるのを感じる。このまま流されて幸祈の思うままにされたい、なんて衝動に自我が呑まれてしまいそう。

 ダメだ、ダメだ、て必死に抗うように。すっかり蕩けかけた心を尖らせ、なけなしのプライドを振り絞る。


「そ……そんなこと言っても、ごまかされないから」


 自分に言い聞かせるように言って、ふいっと顔を背けようとした――のだが、幸祈に顎をつかまれ、そんな抵抗さえも阻まれた。


「へ……」と目を丸くする私を、幸祈は容赦無く射るように見つめてきて、


「少し黙ってろ」


 それだけ言って、ぐっと顔を寄せてくる。

 え……ウソ……このタイミングで? キス……? こんな……強引に!?

 きゃあ、きゃあ、てうるさく騒ぐ声は頭の中で聞こえてくるのに。全身が金縛りにあったみたい動かない。まるで、理性がどこかへ行ってしまったみたいに。すっかり幸祈に身を委ねている自分がいる。


 ああ、もう……ほんとバカだ、私――て、諦めたように胸の中で呟きながら、ゆっくりと瞼を閉じる。


 そして、とうとう、ずっとずっと待ち侘びていたその感触が唇に……と胸を高鳴らせた、そのときだった。


『ほんとバカだペン、ほなみちゃん』


 え――!?

 ハッとして目を開けば、そこには幸祈の姿は綺麗さっぱり消えていた。そして、


『どれだけ強がってても、蓋を開ければただのどMだペン』


 まさか……しかなくても。この小憎たらしい声は……!

 ばっと振り返って睨みつけた先には――。


『しょーもないもん見せられて、ハンペン出るペン』


 映画館にでもあるようなバケツサイズのポップコーンを片手に壁に寄りかかり、そいつは三角形の顔に気の抜けた笑みを浮かべて私のすぐ隣に立っていた。赤ちゃんみたいなぷくぷくとした三頭身はどこへやら。白いマントを羽織り、カラシ色のジャンプスーツのような衣装を着た身体はすらりとした七頭身に変わり、その背丈は幸祈とほぼ変わらないほどに伸びていた。

 一瞬、私は凍りついたように固まって、


「きゃあ……!?」


 思わず、悲鳴を上げて飛び退く。

 な……なんで……? どう……なってるの? なんで、こんな……態度も体もデカくなってんの!?


『きゃあ、じゃないペン』とゴマ粒みたいな目で私を見つめ、ハンペンマンはポップコーンを口に放り込みながらさらりと言う。『いつになったら、ほなみちゃんは成長するんだペン』

「あ……あんたは成長しすぎでしょ!?」


 後退りつつ、びしっと指差し言うと、ハンペンマンは笑みを貼り付けたまま、ため息を吐く。


『まったく……いい加減、こうきくんに正直に言えばいいペン。私、本当は強引なくらいにグイグイ来られるほうがいいの――て』

「いやあ……!? 変なこと言わないでよ! そ……そんなんじゃないから!」

『じゃあ、今のはなんだペン? グイグイ来られて、ほなみちゃんトロトロだったペン』


 やめてぇ……! と声にならない叫びを上げて、顔を両手で覆って悶えていると、


『追いかけてほしかったんなら、そう言えばよかったんだペン。今から部屋を飛び出すから追いかけて来てね、て言えば、さすがのこうきくんも追いかけて来たペン』


 ぎくりとして、ハッと

 ああ、そう……だ。そうだった。あのあと――『また、佐田さんに相談でもすれば!?』なんて捨て台詞吐いて、幸祈の部屋を飛び出したあと――現実ほんとうの幸祈は引き止めるどころか、追いかけても来なかったんだ。あっさり、諦めちゃったみたいに……。


『結局、追いかけたところで、ほなみちゃんの怒りを煽るだけ――なんてこと、こうきくんは分かってるペン。今まで、散々、痛い目見て、身に沁みてるんだペン。それなのに、追いかけて来るわけないペン。身から出たハンペンだペン』

「身から出たハンペン……!?」


 なに、それ!? とぎょっとしてハンペンマンに振り返りつつも、確かに――とも思った。

 身から出たハンペン……はよく分からないけど。でも、幸祈が追いかけて来たとして。私はきっと、話し合いを続けようとはしなかっただろう。冷たく突き放して、もしかしたら……もっと救いようのない捨て台詞を吐いていたかもしれない。


『ほなみちゃん、分かってるペンか?』


 ふいに、ハンペンマンは声を低くし、まるで脅すような口調で口火を切った。


『今まで散々、ほなみちゃんに雑巾のような扱いを受けてきたこうきくんだペン。いきなり、他の女の子から今治タオルのような扱いをされたらコロッと落ちるペン』

「は……?」


 な……なに? 何を言い出したの? 雑巾? 今治タオル?


「ちょっと……待ってよ。私……別に、幸祈を雑巾みたいな扱いなんてしてないわよ! ちゃんと……私だって、幸祈のこと、今治タオルみたいに思ってるわよ!」


 って、今治タオルみたいに……て、どういうことなのかよく分からないけど。


『思ってるだけじゃ意味ないペン。こうきくんがそう感じないと意味ないペン。今、こうきくんは雑巾みたいな気分でいるペン』

「そんな……」

『そういうときに――だペン』急にずいっと詰め寄ってきて、ハンペンマンはおどろおどろしい声色で続ける。『ほなみちゃんとは比べ物にならないほどの包容力を備えた知的な眼鏡のクラスメイトが、そっと優しく今治タオルに触れるように接してきたら……こうきくんは、間違いなく落ちるペン。――誰だって、雑巾より今治タオルとして生きたいと思うペン!』

「な……なにを言って……」


 笑みは無機質で、目だってただのゴマ粒。それなのに、ゴゴゴ……と唸る地響きすら感じさせるような――言い知れない気迫のようなものをハンペンマンから感じて、つい、後退っていた。

 意味が……さっぱり分からない。なんなの? 急に、何の話? 幸祈が落ちるって……なんで、そんなこと言うの? ただ、ちょっと喧嘩しただけなのに。いつものことなのに。私とは比べものにならないほどの包容力を備えた知的な眼鏡のクラスメイトって――。


『ほなみちゃん……知ってるペンか? 世の浮気のほとんどは……『恋愛相談』から始まるペン』

「え……?」


 今度は何……!?

 ぎょっとする私に、ハンペンマンはズズズとさらに距離を詰めてきて、


『恋の相談をしていたら、いつのまにかバスローブ姿でベッドで抱き合っていた……なんてよくある話ペン』

「そんなの、聞いたこと……ない……けど……」

『それなのに、ほなみちゃんと来たら……頭は良いのに恋愛偏差値はハンペン以下のこうきくんに『佐田さんに相談しちゃいなよ♡』なんてアドバイスして。浮気にゴーサインを出したようなもんだペン』


 浮気に……ゴーサイン!?


「ち……違う……! 私、そんなつもりじゃ……!」

『だから、意味ないペン。そんなつもりじゃなかった……なんて、あとの祭りだペン。言い訳にもならないペンよ』


 ぴしゃりと言われて息を呑む。

 何も言い返す言葉も思いつかず、愕然とする私に、『それに……』とハンペンマンは無邪気な声に似合わぬ重々しいトーンで続けた。


『こうきくんだって、男だペン。うずまるなら、CカップよりFカップがいいペン』

「Cカップより、Fカップが……」


 そんな――とごくりと生唾を飲み込んでから、ハッとする。

 埋まる、て何……!?


「っていうか、結局、巨乳好き、て話じゃない!」


 大声上げて、くわっと目を見開けば……視界にあったのは光景で。見慣れた照明に、真っ白の天井。薄暗い中、遮光カーテンの隙間から伸びた一筋の光が、そこにまっすぐのラインを描いていた。


「夢……」


 いや、夢に決まってるけど――。

 ホッとしながらも、どっと疲れが押し寄せてくる。

 疲労というよりも、心労というやつだろう。体を起こすと、胸がずしりと重く感じた。

 ハンペンマンめ――と枕元に視線をやれば、そこにはのほほんと笑みを浮かべるが……。ひとまず、三頭身だということに安堵しつつ、


「もう……いい加減にしてよね」


 ちょんと突つくと、ハンペンマンはコロンと転げた。

 当然、起き上がることも無ければ、言い返してくるわけでもなく。倒れたまま沈黙するハンペンマンをしばらく見つめてから、はあっとため息を吐く。

 何やってるんだろ、私……。

 のっそりとベッドから降りながら、スマホを手に取る。何か通知が来てないかチェックしようとして……ハッとした。スマホの画面は真っ暗のまま。何をしてもうんともすんとも言わない。

 一晩中充電してみて、これか……。

 もうだろう――と観念し、悪あがきのように繋げっぱなしにしていた充電ケーブルを外す。


 確定だ。認めるしかない。スマホが壊れた、て……。


 がくりと項垂れ、「どうしよう……」とぽつりと呟く。

 こんなことなら……せめて、昨日、スマホの調子がおかしい、てことだけでも幸祈に言っておけば良かった。喧嘩して、捨て台詞を吐いて部屋を飛び出し、挙句に連絡もつかない……なんて。幸祈はどう思うだろう? もしかしたら、昨夜、電話をくれていたかもしれない。メッセージだって送ってくれてるかもしれない。このままだと、私……全部、無視してることになっちゃう。まるで、着拒してるみたいに……。


 そんなつもりじゃなかった……なんて、あとの祭りだペン――そんなハンペンマンの声が脳裏をよぎり、ぞくりと背筋に悪寒が走った。


 胸元でぎゅっとスマホを握り締め、「そうだ……」と思い立って顔を上げる。


「学校行く前に、幸祈に――!」


 まだ、手遅れじゃない……はず。幸祈が家を出る前に幸祈の家に行って、せめて、スマホが壊れてることだけでも伝えておこう。

 そうと決まれば、早く用意しなくちゃ。

 幸祈は電車通で、私よりずっと早く家を出る。急いで行かないと間に合わない。大慌てで一階に駆け下り、リビングに飛び込む。今、何時だろう? と壁にかけてある時計をばっと見上げれば、


「へ……?」


 思わず、惚けた声を漏らし、私はきょとんとして固まった。

 あれ? おかしい……な? まだ、私、寝ぼけてる?

 小首を傾げつつ、ぱちくりと目を瞬かせ、何度も時計を確認する。でも、やはり……時計の針は、間違いなく、そこを――十時半を指していた。


「ね……寝坊……した!?」


 しまった……て、そのときになって目覚ましもスマホに頼っていたことを思い出した。

 へにゃりと力が抜けて、その場に座り込んでいた。

 絶望の二文字が頭に浮かぶ。


 幸祈はもうとっくに学校――どころか、すでに授業中だよ!?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る