第16話 分かってない【下】

 帆波に背を向け、クローゼットの前まで来ると、ブレザーのボタンに手をかけ……ふうっと息を吐く。


 あっぶねぇえええ……!


 よくぞ堪えた。あの状況でよく食い止まった、と己を讃えたい。

 いや、まあ……抱き締めてしまった時点で、『堪えた』と言っていいのか怪しいところではあるのだが。ただ、一つだけ、言いたい――。大好きなカノジョが膝の上にぽんと落ちきてたら、そりゃあ抱き締めるだろう!? こちとら、もう何年も拷問のような葛藤の中、堪えてきたんだ。石の上にも三年、膝の上では三秒だよ。


 ああ、まだ帆波を抱き締めた感覚が――その感触が、生々しいぬくもりとともに全身に残っている感じがする。


 あんなに細身で華奢なのに、その身体はふにっと柔らかくて。抱きしめると、ものすごくしっくりと身体に馴染む感じがした。あまりに心地よくて、たまらない恍惚感に包まれて。ずっとそうしていたいと思ったし……物足りないとも思ってしまった。もっと、それを味わいたい――なんて考えがどこからともなく湧いて来て、頭の中を埋め尽くしそうだった。それでも、必死に理性を保って、腹の底で膨れ上がりそうな劣情を押さえ込み、踏み止まっていた……てのに。


 そんな俺の葛藤などつゆ知らず――帆波のやつ、相変わらず、危機感が無いというか、自覚が無いというか。いけしゃあしゃあと挑発じみたことを言って来やがって。腕相撲とか、そういうのをしよう、ていうんじゃねぇんだぞ。なんで俺を怖がるのか、て……それは俺が『男』だからだ。何されても平気――なんて軽々しく言って……実際、何されるのか分かって言ってんのかよ?


 いや――と脱いだブレザーをハンガーにかけ、ネクタイを外しながら、自嘲ぎみに苦笑していた。


 分かってるわけがねぇ。もし、分かってたら――もし、帆波が……あのとき、一瞬でも俺が頭の中で描いたことを知ったら、それこそ、『帰る』とか言って、今度こそ本当に逃げ出していただろう。


 とりあえず……早まらなくて良かった。それだけは確かなわけで。

 もう少しで、『このヘンタイマン!』とあられもない姿の帆波に思いっきり罵られるところだった――て、それはそれで唆られそうだ、と思ってしまう俺は実際、ヘンタイマンなのかもしれ無ぇけど。

 とにかく、だ。せっかく『バスローブ』のお陰で場の空気も和んで、俺のもだいぶ鎮まったわけだし。あとはなんでもなかったかのように平然と振る舞うこと……だよな。

 何か他愛のない話でも――と話題を探しながら、スマホはどこにしまったっけ……とハンガーにかけたブレザーのポケットを探る。そのとき、「そういえば……」とハッと思い出し、


「お前、生モノ、食べられるようになったのか?」


 スマホを見つけて取り出し、振り返ると、帆波はまだ少し赤みの残った顔をぽかんとさせて惚けていた。何の話? とでも言いたげだ。何もピンときてない様子。


「今朝、LIMEで誤爆してきただろ? 『さしみ』って……」


 スマホを掲げながらそう続けると、「誤爆?」と帆波の表情はなぜか曇った。

 いや……なに、その反応? 忘れてる? ってか、まさか気づいてなかった?


「親に送るのを間違って俺に送ってきた……んだろ? 『間違ってるぞ』って一応、LIMEで返して既読ついてたから安心しきってた……んだけど、まさか、見てねぇのか?」


 帆波の隣に再び腰を下ろし、LIMEを開いて、帆波とのトーク画面を表示させる。やはり、『間違ってるぞ』の横には『既読』の文字が。「やっぱ、既読ついてるな」とぼやき、帆波にも「ほら、これ……」とその画面を見せる。

 しかし、帆波の視線は俺に一心に注がれ、スマホの画面にちらりとも向けられる様子は無い。その表情は愕然として、明らかに様子が変だ。

 とりあえず、いったん、スマホはローテーブルに置き、


「帆波、どうした?」


 眉根を寄せて訊ねると、


「『間違ってるぞ』って……そういう意味?」


 まるで独り言のように、帆波は掠れた声でそう呟いた。

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