第12話 おかえり【下】

 玄関のドアを開けると、そこには見慣れたサンダルが……無かった。


「あれ……」


 思わず、惚けた声が漏れる。

 いつもなら、帆波の(というか、帆波の母親おばちゃんのらしいけど)つっかけサンダルが置いてあるそこには、見覚えのない淡いピンク色のヒール靴が揃えて置いてある。

 誰のだ? とつい、眉を顰めていた。

 母さんの……にしては、若すぎるというか、オシャレすぎるというか、らしくない。そもそも、今はパートでまだ帰って来ていないだろうし……。

 となると――と、目の前にある階段を視線で登って、二階を見上げる。


 帆波……だよな?


 もう来てるんだな。

 なんでウチに――一分も無い距離を――ヒールで来たのか謎だが……。帆波がいる、て考えるだけで、自然と口許が緩む。込み上げてくる悦びに、もう背徳感も惨めさも覚えることも無くて。素直に舞い上がれることが嬉しくて。昂ぶる気持ちに歯止めが効かなくなりそうになる。

 しかも、今日は俺の部屋で待ってるんだ。

 俺の部屋に帆波がいる――そのを想像するだけで胸が高鳴って仕方ない。

 いつものだらしない格好で――緩んだTシャツの襟元から谷間をちらつかせ、ショーパンから真っ白な太ももを見せびらかすように覗かせて――俺のベッドに寝そべっているのかと思うと……って、なんで、ベッド!?


 ハッと我に返って、周りには誰もいないというのに、ごまかすように咳払いしていた。


 いやいや……何を想像してんだ、俺は!?

 そういうのは無い、てあんなにもきっぱりと佐田さんに否定したくせに……。ちゃんと順を追って進めていく、て偉そうに宣言しといて……。頭の中では早速、やましいこと考えてんじゃねぇか――!?

 生き霊だろうか、『お主も悪よのお』と遊佐が勝ち誇ったように高笑いするのが聞こえてくるようだった。

 だめだ、だめだ、とかぶりを振って玄関に上がる。

 決めただろ。ちゃんと待つんだ。帆波の心の準備ができるまで待つ。今度こそ、勢い任せにキスとか……そういうことを迫ったりしない。

 俺は帆波を怖がらせたいんじゃ無い。守りたい、て思ったから――帰りの遅い両親を涙目で待つ彼女を……『幸祈がいるから平気だもん』なんて強がり言う彼女を、守りたい、て幼心に思ったから、傍にいたいと思うようになったんだ。

 だから、俺の部屋は――俺の隣は、帆波にとって落ち着ける場所であってほしい。そういう場所にしたい、と思うから……。


 順序だ。何事も段取りが大事……のはず。ちゃんとカレシらしく、清く正しく健全な関係を築いて……て、もうよく分かんなくなってきた。


 とにかく、まずは『初デート』だ。

 気を取り直し、階段を登る。登りつつ――スマホを取り出し、LIMEを開く。佐田さんとのトーク画面を表示させれば、そこにはいくつものリンクが張られていた。


 さすがというか、なんというか。


 あれから――電車で乗り合わせ、『オススメのカフェ』を教えてもらうことになってから――佐田さんの口からは、次から次へと全く聞いたことのない店の名前が飛び出してきた。造語なのか、フランス語なのか……俺には全く見当もつかないが、まるで魔法の呪文でも詠唱するように、聞き慣れない店名を次から次へと口にする佐田さんに圧倒され、呆然とする俺を見かねたのだろう、佐田さんは懇切丁寧に一つ一つ紹介しながら、律儀にLIMEでそれぞれのサイトのリンクを送ってくれた。

 佐田さんには感謝しかない――けども。

 廊下を歩きながら、スマホの画面にずらりと並ぶリンクを改めて眺め、今度は『結局、どこがいいのだろうか』と迷い出している自分がいる。カフェやらケーキ屋やら、ジュースバーにフローズンヨーグルト専門店なるものまで……もはや、俺にはファンタジーの世界だよ。

 とりあえず、映画――は決まりでいいよな。佐田さんにも『うん、映画は初デートには定石だよね』と太鼓判をもらえたし……。あとは、帆波との会話から興味がありそうなものを探っていくしか無い……か。

 そんなんでいいのか、と思いつつも、もう俺の部屋の前に来ていて――。

 スマホをしまい、覚悟を決めるように深呼吸する。


 なんの変哲も無い、見飽きたような部屋の扉。それなのに、この向こうに帆波が……と思うと、まるで全くの別物に見えてくる。

 思い出したように心臓が熱を帯びてざわめき出し、今にも暴れ出しそうだった。

 ちょっとでも気を緩めば、また想像をしてしまいそうで……それを断ち切るように、


「帆波、いるか――」


 一応、軽くノックして、扉を開け――ハッと息を呑んだ。


 夕陽が差し込み、淡い朱色に染まった部屋に、ぽつんと膝を抱えて座る人影があった。ベッドを背もたれ代わりに、膝を抱えた腕に顔を埋め、じっと体を丸めて座っている。


 あ――と声を出すのも躊躇うような静けさだった。

 まるで、穏やかに流れる時の流れを肌で感じるような……そんな静寂の中、「ん……」とその人影は身じろぎして、ゆっくりと顔を上げた。


 うたた寝でもしていたのか、その顔はぼうっとして、俺を見つめる眼はぼんやりとうつろで……僅かに開いた唇がやたら色っぽく見えた。

 その幼さのある甘い顔立ちは、確かに見覚えがあるのに。もうずっと昔から変わってないように思えるのに。それはあまりに思い描いていたシルエットとは程遠くて――、部屋着全開のだらしない姿しか想定していなかったから――、長い黒髪をゆるく編み込み、ふんわりとした花柄のワンピースを着たその女の子が誰か、一瞬、分からなかった。

 まるで別人……というか。ぐっと大人びて、年上にさえ思えて……綺麗だ――と思った。

 そうして見惚れていると、彼女は何度かぱちくりと目を瞬かせてから、


「ち……違うから!」ハッと我に返ったように瞠目し、慌てて甲高い声を響かせた。「別に、あんたを待ってたわけじゃなくて、私は広幸さんに会いに来ただけ……」


 言いかけ、彼女ははたりと言葉を切る。

 数秒の間があってから、ぼっと火がついたように彼女の顔が赤く染まるのが分かって――、


「何を言わせるのよ!?」

「俺!?」

「ああ、もお……!」


 苛立たしげな声を上げ、彼女は再び、腕の中に顔を埋めてしまった。やがて、「間違った……間違った……」ともにゃもにゃと呟く声が漏れ聞こえてきて、つい苦笑してしまった。


 兄貴に会いに来ただけ――か。

 もう何度も聞いてきたセリフだ。聞くたび、何度も何度も胸を抉られてきた。ずっと心を蝕み、性根まで腐らせてくるような……俺にとって呪いみたいな言葉だった。

 でも、今は……痛くも痒くもない。ああ、やっぱ帆波だな――て、ただただ、愛おしくなるだけだった。


 鞄を部屋の隅に放って、帆波に歩み寄り、隣に腰を下ろす。まるでアルマジロみたいに、一層、小さく丸まって座る彼女を横目に見ながら、


「兄貴の部屋なら隣だぞ」


 揶揄うように軽い調子でそう言うと、帆波は隣でびくんと身体を震わせ、


「し……知ってるわよ、バカ!」


 ヤケになったようにそう叫んでから、「間違った……の」と帆波はか細い声でぽつりと続けた。それから、小さく咳払いするのが聞こえて、


「こ……コーキ」


 やたらと固くロボットみたいな不自然な声色で言って、帆波はそろりと顔を上げた。

 じっと上目遣いで俺を見つめ、遠慮がちに……少し、緊張を滲ませながら……帆波ははにかむようなぎこちない笑みを浮かべ、


「おかえり――」

 

 噛み締めるようにそう言った。

 その瞬間、数式とか英単語とか、今までコツコツと詰め込んできたものが、頭の中から全て吹っ飛ぶような凄まじい衝撃を覚え……すっからかんになった頭の中で、うわああ、可愛いー! とアホのように叫ぶ声が木霊した。


 やましいことはしない、と心に決めたはずだったのに。そういうことは順を追ってゆっくり……と覚悟を固めたはずだったのに。

 いきなり、抱きしめたくてたまらなくなってしまった。

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