Ⅱ.

 轆轤は地下の部屋に独りになった。


「彼が、貴方が最も目をかけている少年ですか」

「毎回、静かに背後に立つのはやめていただこうか。ギルバート」

「すみません。職業癖なもので」


 彼は轆轤の、刀身が数ミリだけ覗いた刀の鵐目しとどめを、手でそっと押し戻した。


「そちらこそ、物騒極まりない」

「こっちも武士の習性ってやつでね」


 キン、と刀が鞘に収まる音が、二人の呼吸音に混ざって消えた。


「まだあいつらに接触してるのか。お前の主人は」


 轆轤は懐から鍵を取り出すと、壁に埋め込まれた金庫のひとつを開けた。中には、束ねられた宛名無しの封筒が角を揃えて丁寧に保管されていた。


「仕分け人にとやかく言われる筋合いはありませんが、まあそうですね。彼はなかなか子供好きらしい」

「大丈夫かぁ? ちゃんと主人の管理をしておくんだぞ。ラトルダは優秀な運び人だ。育つぞ」

「伝えておきます」


 ギルバートに封筒の束を渡しながら、これもあった、と先程ラトルダ達が運んできた手紙の中から数枚を引き抜いて、束の上に重ねて置いた。


「あと、主人からの言伝ことづてです。角砂糖は用意しておくから夏までに出てこい、と」

「あいつは俺を何だと思っているんだ」

「蟻に決まっているでしょう」

「なんて奴だ。確かに、俺は蟻の巣みてえな所に住んでる"食蟻獣アリクイ"だがな……」


 この部屋の奥には、また隠し扉がある。それは多様な分岐点を持ちながら、ダウズウェル伯爵の屋敷の裏庭に続いているのだ。専ら執事達がこの道を行き来して、食蟻獣が仕分けた手紙を受け取りに来る、と言う仕組みだ。食蟻獣が手紙を持って出向くことはまれだ。貴族の家は好かんと堅いことを言って、出不精でぶしょうを拗らせていた。


 地下に広がるこの蟻の巣には、同様にして伯爵達の家やその付近に続いている隠し扉が幾つもある。勿論、あのカーティスやドリューウェット公爵の家にも繋がっている。そして、定期的に蟻の巣の形は変わり、さらに門番がこの東の異国から来た剣の達人とあらば、外界から暴露ばれることはない。手紙は、ラトルダのように選ばれた街の子供に運ばせている。子供は、大人よりもよっぽど信用に足るし、役に立つ。


「面倒を見るなら中途半端はやめなさいと伝えておいてくれ。角砂糖は気分次第で取りにゆく、とも」

「畏まりました。主人にしかとお伝え致します。きっと喜ばれますよ。では、主人のお食事のお時間が迫っているので、失礼致します」


 テーブルに退けてあった本を片手で持ち、彼はまた読書に耽る。そのほんの数秒にも満たない間に、気付けば、執事の姿は何処にもなかった。



  †



 突然レイチェルが声をあげ、ずっと繋いでいた兄の手を離して、嬉しそうに駆け出した。彼女が駆け寄った先には、一人の紳士。


「よく来ましたね。いらっしゃい」

「グレンさん、お迎えありがとうございます」

「いいえ。ラトルダもさぞ疲れたでしょう。中で主人がお待ちです」


 彼は嬉しそうに擦り寄るレイチェルの頭を撫でながら、近寄るラトルダにその透き通るような金色の瞳を向けた。妹のレイチェルはすっかり優しいグレンに懐いて、会う度にはしゃいでいる。


 以前ダウズウェル伯爵に道を案内してから、伯爵とその執事の方々には畏れ多くもねんごろにして貰っていた。とても優しくいい人達だ。

 グレンは子供にも親切で、元気な年頃のレイチェルにもちゃんと構ってくれる。色男なジャスパーも子供のラトルダ達にとても友好的で、フランクに接してくれるし、寡黙なギルバートも、最初は子供には近寄り難い雰囲気に思えたが、彼の行動の端々から不器用な気遣いを感じ、二人はこの執事達が大好きであった。


 抱っこをせがむ彼女を軽々と抱え上げ、グレンは玄関の扉を開いて入って行く。

 ラトルダはその彼の後に続いて、広大な屋敷へと足を踏み入れた。そこは豪華絢爛、値の張りそうな内装と装飾が施された邸宅の広間だ。


「フィオナお兄さま!」


 駆け寄るレイチェルとハグを交わし、その端正な顔に聖母マリアのような愛に満ちた微笑みをのせる。ラトルダ達兄妹に、穏やかな視線を注ぐこの人こそ、屋敷の主人あるじ。とても美しい男性ひとだ。

 もう幾度か食事に招かれているが、その完全たる秀麗さには、会う度に見惚れてしまう。神がいたとすれば、そのような容姿であろうかと、ラトルダは彼の向ける慈愛に、溺れる。


「食事を用意している。ラトルダも、おいで」


 きっとラトルダは彼に手綱を握られた、ただの犬。しかし彼は、罪悪感も抵抗感も特段感じてはいなかった。

 今だってそう、彼の差し伸べる手に躊躇なく自分の手を重ねるのだから。


「今日は取り寄せたばかりのラズベリージャムとアプリコットジャムがある。好きだろう?」


 にこり。返事の代わりにラトルダがそう笑えば、彼は満足そうに頷いて、二人を自身の邸宅へと導いた。何度訪れたって、初めてこの屋敷に招かれた時のことを思い出す。日々の生活にはあまり不自由のないラトルダも所詮、街の片隅のさびれた手紙屋。元々は孤児だった事もあり、上流階級の人々とは縁遠い生活を送ると思っていた。それが今や、定期的に国で指折りの有名伯爵様の夕食に招待されている。夢のようなことだ。


 ジャスパーが引いたチェアに、フィオナはゆっくりと腰掛ける。十何人が座れるのだろうかという長いテーブル。それを挟んでフィオナの反対側に、少し恐縮しながら、ラトルダとレイチェルは慣れない様子で着席した。

 丁度、ギルバートが前菜を運んで来た。カラフルな色彩の野菜や魚介が散りばめられたサラダは、もはや芸術の域だ。どうしてタイミング良く食事を作って運んで来れるのだろう、と考えるのはもう飽きた。三人の執事はいつだって完璧だ。

 フィオナが食事を始めた。綺麗な所作でナイフとフォークを扱い、口へ運ぶ。こんなにも些細な動きさえも洗練されていて、美しい。


「ほら、ラトルダ。君は育ち盛りだろう。これも食べたらいい」

「ありがとうございます! 本当に、いつもすごく美味しいです」

「フィオナお兄さま、私も私も!」


 感動に声を震わせるラトルダと、素直にはしゃぐレイチェル。


「ちゃんと君の分も用意してある。慌てなくて良い」

「レイチェル、こら」

「ラトルダも、口の端にソースが付いてるぞ」


 交わされるのは、他愛たわいもない会話。そんな和やかな時間ときはそよぐ風の如く、緩やかに流れて行っていた。

 いつの間にか、冬晴れのすっきりとした空に、星々が浮かんでいた。微かな光を街中に降らせる、そんな静かな夜の訪れ。


「ラトルダ、君は幾つだっけ」


 伯爵の問いに、ラトルダは慎重に、「十四です」と答えた。伯爵の銀のスプーンが、デザートに運ばれてきたクレームブリュレを割った。クリームを口に運ぶ彼の隣からジャスパーが足を踏み出し、ぴしりとアイロンがけされた新聞紙が伯爵に渡される。その隣では、ギルバートが空になったデザート皿と赤ワインのボトルをカートに乗せた。


 女優の結婚。

 窃盗犯の逮捕。

 新たな発明の発表。

 政治家の過失。


 紙面に綴られた、世間に飛び交う様々なニュースが目に飛び込んでくる。それをを面白くなさそうに流し読みながら、伯爵の指が、タタンとテーブルの上で軽やかなリズムを生み出した。その旋律は不可思議な程に不気味で、漠然とした不安を煽る。ラトルダを襲う曖昧な不快感に急き立てられ、何故か咄嗟にその衝動に身を委ねた彼は伯爵に伝えようと口を開ける。


 ラトルダ。


 伯爵がそう呼んだ。否、呼んだのではなく、遮ったのだ。頭を上げて見た彼を包んでいたのは、恐怖を感じるほどの、静寂。何をも飲み込むようなそれは、一気にラトルダの周りから酸素を奪っていったかのような感覚を与える。後悔しても今更、遅い。


「ラトルダ、君は頭の良い子だ」


 轆轤と同じような事を言う彼が、ゆっくりとグラスを傾けると、グラスの中で赤ワインが艶やかな光沢を放って回った。それを、目を細めて伯爵は眺めている。


「わかるだろう?世界は、知るべきことと知らぬべきことで出来ている」


 ちらと、隣のレイチェルに目をやったが、食事を食べ終えた彼女はまたしても夢の世界へと旅立っている。頬についたクリームが、やけに目についた。


「勉学に励み、知識や友も増え、大人へと一歩踏み出しかけた多感な年頃だね」


 こく、と彼の喉が鳴って、彼の唇はしっとりと濃い紅に染まる。


「実に興味深い年頃だ。純白なままで、穢れやすい」


 ご主人様も五年前は十四ですよ、と静かに揚げ足をとるジャスパーを視線だけで黙らせ、無視して、フィオナは深く椅子に腰掛け直した。すらりと細く、長い脚が、ゆっくりと組まれる。色艶の深い笑みが唇に乗って、白い歯がのぞいた。


「ぐらぐらと軟弱な精神と体躯の上に成り立ちながらも、時に人間の本質を浮かばせる」


「その柔な心には不釣り合いな世の常を知り」


「世界を認識する代償に己を取り巻く渦を知る」


 面白い。彼はやはり、そう零す。

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