Ⅱ.

 ラトルダはそんな彼を見て、背筋に悪寒が走るのを感じた。

 優しい笑顔で食事を勧めてくれる彼ではなく、暖かいブランケットを掛けてくれる彼でもなく、慈しむように頭を撫でてくれる彼でもない。

 あんなに底の見えない瞳を宿す彼を、ラトルダは知らない。いや、知りたくなかっただけなのかもしれない。彼の悪を肯定すれば、必然的に自分の悪も認めることになる気がしたから。

 子供と言えど、結局は一人の人間。

 綺麗でありたくて綺麗になれない、醜い心の写像。


「聡い子だね、ラトルダ」


 フィオナはラトルダの心のうちを見透かすように、そう呟いた。これが誰から聞いたことだったのか、誰から教えられたことだったのか、今ではもう分からなくなってしまったが、はっきりと覚えている。彼の細い指が、ワイングラスの縁を撫でていく。


 さて、とやけに明るい声で伯爵は、椅子から立ち上がった。それは違和感をかどわかすも、ふつりと緊張が和らいで、止まっていた時が動き出したかのような感覚を呼び起こした。

 ラトルダは手の甲で、いつのまにか顳顬こめかみを伝っていた汗を拭った。


「今日はもう遅い。泊まっていきなさい」


 ラトルダが感謝を述べると、伯爵は優しげに緩く口角を上げるのであった。



  †



「あの子達は?」

「もうお休みになられましたよ」

「そうか」


 フィオナは巧緻なデザインが施された、ティーカップに似た配色のバスタブに張られた湯に浸かっていた。脱力した手に握られているのは、飲みかけのワイン。まどかで甘い石鹸の香りに包まれながら、瞼を閉じ、ジャスパーに髪を洗わせている。


「食蟻獣の言う通り、彼は聡明だな。あとジャスパー、揚げ足取りはこれきりにしろ」


 文句を垂れているが、彼女はジャスパーのシャンプーに心底気持ち良さげにしているので、迫力も締まりも全くない。


「嫌ですよ。フィオナ様の困り顔は、それはそれはそそるんですから」

「その変態気質どうにかしろ」

「これを変態と言うのでしたら、フィオナ様の執事は三人共々変態ですので、諦めてください」

「揃いも揃って……」


 ほぅっ、と猫のようにとろけた表情で、彼女は至極満足げだ。


「彼は素質がある。私の手の内で育ててしまおうか」


 薄目を開け、仰向けの顔を少しばかり傾けて、手の内でグラスを回す。


「フィオナ様の思いのままでよろしいかと」


 フィオナは緩々としたその瞳で、ジャスパーをじっと見つめた。綺麗さと色気を兼ね備えたその面差し、その涙黒子がまた愛着が湧く。艶やかな微笑をそのままに、彼の心を染め上げるは、耐え難き情愛。華奢で、雪のように白い手がおもむろにのばされ、ジャスパーの頬に添えられる。


「君は時々、私から離れていってしまいそうで。私は心底怖い」


 湯気のせいか、本当にそうなのか。彼女の黒い瞳が潤んだ気がした。

 途端、ジャスパーは濡れるにも関わらず、フィオナを大きな腕で抱きしめる。彼女はされるがままに身を委ねる。


「私は、永遠に貴方様のものです。決して、何があろうとも、天が私に死を穿うがつまで、お傍におります」


 その言葉で、彼女の体は弛緩した。



 †



「おや、腐ってる」


 グレンは一部が茶色く変色した苺を、ぼとぼととくず入れに落とした。うっかりしていた、とぼやきながら、大きく赤い粒を少しだけ残念そうに眺めている。


「先週は急用での外出も多かったから」

「果物って、食べようと思ってる矢先に、気づくと腐っていたりするんだよね」

「また買えばいい」


 ジャスパーが隣でジャムを作っている。フルーツを潰し、混ぜ込み、煮て、フィオナの大好物であるお手製のジャムができる。


「アフタヌーンティー には出して差し上げたい。昨夜も遅くまでお仕事をなさってた様だ」

「また最近は情勢も急展開を迎えてるもの。忙しさに拍車がかかっているのも納得だよ」


 産業革命が謳われる昨今、機械メーカーであるダウズウェル家は大量の案件を抱え、大忙しである。最近フィオナは蒸気機関車とやらの関連事業にご執心で、寝る間も惜しんで仕事に精を出している。執事達は、そんな主人を慮るばかりであった。





「おはようございます。フィオナ様」


 長い睫毛を揺らして覗かせた紫の瞳が、淡い朝の光と目の前で微笑む彼の姿を映し込んだ。ぼんやりと返事をしてから、一気に意識が浮上した彼女は声を上げて飛び起きた。


「ギル……。ふ、普通に起こせ」


 小鳥の囀りが遠くに聴こえる、木漏れ日の暖かい朝だ。眼前の男の、笑顔の理由を知らなければ、なんと朗らかな気持ちになれたことだろう、とフィオナは引き攣った表情を浮かべた。


「昨日は何時に寝たんですか。今日は一段と寝癖がひどい」


 まだベッドに横たわったままの彼女の上にのしかかり、彼はその艶やかな黒髪をく。彼の手が何度も往復するのは、その髪がふわりふわりと変な方向に曲がっている部分。長い脚でしっかりとフィオナの両脚を抑え込んでいるので、身動きはとれない。優しく慈しむ仕草で何度も撫でてから、くるくる指に巻きつけたりして遊んでいる。


「すぐ寝た。……仕事を済ましてから」

「頑張りすぎです」


 そう叱る反面、普段は見せないその穏やかな表情は、何度見てもフィオナは引き込まれてしまう。いつもは鉄仮面の様な無表情を貼り付けた男の、砕けた笑顔は反則である。

 宝石の様なグリーンのややシャープな瞳に、その翠と相性のいい褐色の滑らかな肌、綺麗な骨格と白い歯を覗かせる薄い唇。シルバーの髪も、手に馴染みが良く、彼の端正な顔立ちをより引き立ててくれる。


 思わず火照りそうになる頬を抑え、フィオナはむっとした表情で彼を見つめ返した。そんな表情を向けられた当の本人は、尚のこと嬉しそうに笑う。確実に揶揄っている。


「今日も綺麗だ」


 意に反して、顔に熱が集まってくるのが良く分かる。普段寡黙な彼が紡ぐ言葉はとても、美しい。そんな狡い彼は、フィオナがもう一度頭から被ろうとしたダウンケットを掴んで引き剥がし、その澄んだ翠の瞳で覗いてくる。彼骨張った大きな手が、壊れ物でも扱うかのように、ふんわりと彼女の頬を包み込んだ。彼の顔がゆっくりと近付き、彼に合わせていた焦点がぶれた。間近に彼の体温を感じる。なんて優しくて、愛おしくて、離れ難い温もり。


「忙しいとは言えど、ちゃんと休んで下さい。でないと、執事の気も休まらないんですよ」


 安心するのにどぎまぎして、嬉しいのに少し焦る。そんな複雑な感情に身動ぎすれば、彼はくす、と微笑を零して彼女の後頭部に掌を回した。厚い胸の中に包み込んでくれる抱擁が、離す気のない腕の強さが、フィオナを安心させてくれる。


 近い。

 彼の鼓動が聞こえる。自分の鼓動はどうだろうか。いつもより速いテンポが、彼にも伝わってしまっているのだろうか。

 熱い。

 彼の熱が伝わってきて、自分の熱と溶けあうのがわかる。彼もこの感覚を感じているのだろうか。


 離さないでという命令を発しそうになって、舌にまで乗ったその科白せりふごとフィオナは息を飲み込んだ。その場の衝動に突き動かされて発した陳腐ちんぷな台詞で、繋ぎ止めたくはなかった。でも、言葉に出さないのは、息が出来ない程苦しい。


「ギルは」


 やっぱり口に出せばきっと皮肉っぽくて、言わなきゃよかったと後悔するのも毎度のこと。


「ギルは、私が主人ということを抜きにして、愛していると言えるのか」


 不安なのだ、言葉に出さないと。心配なのだ、直接何度も確認してしまうほど。突然ぐるんと視界が反転して、体勢が逆になったと分かった。ベッドに仰向けになったフィオナの目の前には、顔のすぐ横に手をつく、彼の至極悲しそうな顔。


「ごめん」


 確認しなきゃ不安で、言われきゃ分からない、愛でられている時は夢中だからこそ、冷静な時は逆に怖くなる。


「欲しがりですね。まるで駄々をねる子供のようだ」


 彼の指が輪郭を伝い、フィオナの胸元を指した。


「貴女はいくら愛を注げば安心するのでしょうね。溢れそうになる想いを押し込めている俺の努力を、知って欲しいところです」


 彼の唇がフィオナの耳許にすり寄って、思考を停止させるような囁きを洩らす。


「もう分かってる」


 そう呟いて、フィオナは顔を横へと向け視線を晒せた。感情が身の内でコントロール出来ずに暴れていて、十二分な愛を注いでくれる彼に、もっととせがむ事もままならず、勝手に何の確証もない不安をのたうち回らせている。側にある彼の腕のその向こうに、鼈甲の色をした箪笥や壁がぼやけて見えた。


「いいえ、フィオナ様。貴女は分かってない」


 恐る恐る戻した視界に映ったのは、困ったように眉を寄せた彼。でも、何故か優しい微笑が口許に滲んでいて、状況にそぐわずその表情に一瞬フィオナは見惚れた。そんなことない、と反論しそうになった淡い桃色の唇は縫い付けられた。柔なその感覚は、まるで摘みたての桃に触れたよう。


「これから何度でも、いくらでも、俺が教えて差し上げます」

「やれるものなら」


 嗚呼、可愛くない。

 意地っ張りで勝気な性分が、要らん時にまで顔を出す。


「生意気なその口と挑戦的な瞳も愛おしくてしょうがない」


 彼はいつだって、私をかき乱す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る