Our Distance
とはいえ、カレーはまだ未完成だった。
あとは仕上げのガラムマサラで整えるだけだったけど、これが一番重要なところでもあった。シナモンとカルダモンを多めにブレンドさせたオリジナルのガラムマサラは、他に類のない『フタヒロマサラ』とも呼ばれていた。分量を間違えて入れ過ぎても、爽やかさと食欲が増すというのが売りで、これが無ければ僕のチキンキーマカレーは完成しない。
ひとまずは空腹を凌いでもらうために、先に作っておいたジャガイモのサモサ(一口サイズの揚げ物)をルナの待つテーブルに置いた。どうやら初めて見たようで、箸の先でつんつんと押してる姿が微笑ましい。パリっと皮が破れた時の驚いた顔がまた面白くて、僕はニヤニヤしながら「壊したねぇ?」と悪戯っぽく言ってみた。
「なーにバカなこと言ってるんですか?」
「うぇっ!? と、
「ルナちゃんが私の家から出て行ったみたいなので、心配で見に来たんですよ」
「まぁ、何もない殺風景な私の部屋じゃ、退屈でしょうがないのもわかりますけど」
「だから、僕の家まで来たのかい? ウチだって何もないけど」
「…………」
ルナが無言でカレーの鍋を指差した。まるで「ご飯があるわ」と言わんばかりに。
「
「んなっ! わけないでしょっ! ちゃんと作ってるわよねぇ、ルナちゃん?」
「…………」
ルナの返事は、とても微妙な反応に感じた。確かに、
「こんな料理で良ければ、好きなだけ食べてもらって構わないよ。でも、ここに居座るのは勘弁してくれ。僕だって仕事の時があるんだからね」
「今は、この案件だけでしょう?」
「別件の依頼が入る可能性だってあるじゃないか」
「フタヒロさん、お願いですからルナちゃんだけに集中して下さい」
「おいおい……」
「本音を言うと、私の家と交互で匿うのは賛成できません。私はマークされてる可能性もあるし、こっちの方が安全なんですよ。ヘルプで来てる見張りも、一ヶ所の方がやりやすいし」
極秘の依頼とはいえ、僕と
「匿う場所のことは後で話そう。とりあえず、サモサを二人で食べててくれ。もう少しでカレーができるから」
「はーい! ルナちゃん、楽しみだねぇ!」
「…………」
にっこりと微笑んで頷くルナ。皮の破れたサモサに箸を刺し、片手で端っこを摘まんで中を割るように箸を広げた。熱々の煙の中から、コロっとしたジャガイモが姿を見せる。
なかなか口を開いてはくれないが、ルナと僕たちの関係は良好だった。心因性の失声症ではないかと、彼女を診断した専門医は言っていた。僕たちが匿っている限りは危険が及ぶこともないはずなので、もっと打ち解けた関係が築けるまでは静観するしかなさそうだ。
良好な関係と言えば、僕と
「フタヒロさん、ルナちゃんにスマホを持たせようかと思うんですけど」
「ん? あぁ、いいんじゃないかな」
「あと、パソコン」
「うーん、外事課の予算から出せるのかい?」
一応、依頼を受けているわけだから、諸々の費用は外事課持ちでお願いしたい。僕のポケットマネーでも買えないことはないけど、ルナの調査書類を見た限りでは、その辺の家電量販店で販売しているようなパソコンだと、彼女には物足りないように思えたからだ。
「とりあえず新しいパソコンが届くまでは、僕の使っているノートパソコンで代用するかい?」
「いいんですか? エッチな動画とかバレちゃいますよ?」
「大丈夫だ。そんなものは無い」
それでも、疑いの目を向ける
新しく買ったものだというのがポイントだ。前のパソコンで収集していた諸々のデータも移行してない状態なので、ルナに見られて困るものは何も無い。もちろん、エッチな動画も含めてだ。
「フタヒロさん、エッチだと思ってたんですけどねぇ」
「それは否定しないよ。でも、
「えー? なんか不潔ぅ。嬉しくないでーす」
「もう止めよう。ルナの前だぞ」
いったんサモサを食べるのを止め、渡されたノートパソコンを立ち上げて、そのスペックを確認していたルナだったが、キーボードの叩き具合を試した程度でシャットダウンしてしまった。その様子を見ていた僕たちに向かってニコッと笑ったから、どうやら気に入ってくれたんだと思う。
「ネットは使い放題の契約で無線LANだよ。あとは、アマゾンプライムにも入ってるから、何か見たいものがあったら好きに利用して構わない。IDとパスワードはこれね」
「…………」
付箋にログイン情報を書いて、ノートパソコンの天板へ貼った。
ルナが無口なのは相変わらずだけど、肯定や否定などを含めた感情の起伏は、だいぶ理解できるようになった。とりあえず、暇つぶしのおもちゃを渡されてご機嫌なのは間違いない。
「さて、そろそろカレーもできる頃かな」
「やったね! フタヒロさんのカレーは世界一だよ!」
「…………!」
世界一とおだてられて、僕は『フタヒロマサラ』を普段より五振りは多めに撒いてしまった。鍋からスパイスの女王と呼ばれるカルダモンの香りが強く放たれ、キッチンに美味しい雰囲気が充満していく。その香りを鶏挽肉と混ぜて再び鍋の中へ閉じ込めることで、僕のチキンキーマカレーは完成へと導かれるのだ。さらにダメ押しとして、生クリームをひと回ししてから火を止めた。
「はい、お待たせ。僕は、ルナにもらった月餅も一緒に食べようかな」
「カレーと月餅って、合うんですか?」
「まぁ、僕のカレーは何にでも合うんだよ……なんてね」
「あら、それってウチにあったやつ? ルナちゃん、持ってきたの?」
「じゃあ、あとで三人で分けようか」
「私はフタヒロさんのカレーで十分です。それと、冷蔵庫にあったレアチーズケーキをもらいますね!」
「…………!」
ルナが目をキラキラさせて「私も!」と言わんばかりに元気良く手を挙げた。
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