第57話

 私は百科事典ほどもある分厚いページを捲り一曲を探す。出来れば歌いやすいものがいい。


「ご主人様。あたしと、デュエット。デュエット」


 安浦がもう一つのマイクに飛び掛かる。私はデュエットというのが解らず。


「これにする」


 適当……。


「やったー! あたしの好きな歌! しかも、ご主人様とデュエット!」


 二人の歌声が個室に溢れる。


 安浦のコロコロした歌と、私の・・・取り合えず声が流れて、個室を満たす。初めてカラオケという所で歌った歌は悪くなかった。何と言うか・・・みんなの前で歌うので、気恥しい。けれど、みんな聞いてくれるので清々しくなり、渡部の気持ちが少し解るような気がした。


 カラオケはまずまずだったな。これなら、また来ようかなとも思う。こんな楽しい時を少しでも過ごせたことに気持ちが安らいだ。今までの悪夢や混乱ばかりですっかり参っていた自分に少し栄養を与えられたかも……呉林たちも呼んだら楽しいかも。


 私と安浦を乗せて中村の自動車が、みんなの高揚した精神よろしくハイスピードで土浦駅に着く。上村を除いて……。



「ありがとうございましたー」


「中村さん。上村さん。ありがとうございます」


 安浦もとてもいい気分転換が出来て、快活な感じになっていた。


「仕事に根詰めるのもいいが、気分転換に根詰めるのもたまにはいいだろう」


 中村は出っ張った腹から声を出した。歌い過ぎで喉が痛いのだろう。


 私は大抵はパチンコや競馬で湯水のように金を使って、一人で遊ぶたちだったが、この時、いや、少し前からこんな感じの清々しい気分を感じられるようになった。


「また今度もお願いします」


 私は心からそう言った。


「うん。また一緒に行こうよ」


 こっちはいかにも普通な声の上村。


「また、仕事を頑張りましょう。ご主人様」


 私は一曲しか歌っていないが初めてだからか喉が渇いていた。安浦も行きたがり土浦駅の近くのコンビニで、また飲み物を買うことにした。私たちは弾むように歩き出し、南米に行くための活力を得たことに二人で嬉しがった……。


 飲み物を漁って上機嫌でコンビニのレジに並んでいると、


「お兄ちゃん。またお願いね」

 私の脇からサイダーを持った手が、にゅっと出てきた。また、あの浮浪者だ。上機嫌の流れで私は嫌な気分一つせずに、会計を済ましてあげようかと思い。そのサイダーを受け取った。


「ご主人様。優しーい」


 隣から安浦がにこにこしている。


 会計を済ませると、浮浪者はにっこりして、私に、


「よ。お兄ちゃんに、いいにこと教えてあげようか」


 浮浪者は目だけは笑っていないが笑顔で話しかけている。その時の老人は若々しく精悍な顔をしていた。


 私は不思議とこの浮浪者に心を許そうとする気持ちがあった……。


「夢の世界ってのがあってだな。その世界で死ぬと、元の世界に二度と戻ってこれないんだ。だから、どんなに怖くて危険な夢の世界でも死ぬなよ。今の夢の世界はそういった恐ろしい世界になっているんだ。解ったかいお兄ちゃん」


 私と安浦は驚いて浮浪者の顔を見た。


「ご主人様。何か知っているみたいですよ。この人」


「ああ。それが何であるか……」


 私はそういうと、何か食べ物も買った。


「ありがとな。これは明日の朝飯にすることにして」


 浮浪者は大切にコンビニ弁当を左手に抱え、それから、私と安浦をどこかへと案内しようとしている。


「別に取って食う訳じゃない。こっちに来い」


「どうします。ご主人様」


 安浦は少しだけ不安になったようだ。


 私は少し考えると、


「解った。ついていきます。行ってみようよ安浦」


 私と安浦はこの浮浪者についていくことにした。


 夏の午後、6時の青空は少しは涼しい気持ちにさせられる。歩く人も疎らな道を通って、浮浪者は私たちを映画館「ヘルユメ」の裏通りに案内した。


 そこには、薄汚れていて人気がないところに、小さなテントがある。地面にはゴミ一つ散乱していない。どうやら奇麗好きのようだ。かすかに人が住んでいるといった生活感が漂っていた。


「異臭がしませんね。ご主人様」


「ああ。臭くなくて助かる。でも、俺たちの知っていること以外を、知っているようだし。しかも、一連の夢のことをだ。何かいい知識が入るのかも知れない。俺たちは夢の世界を知っているようで、知らないのかもしれないからな。呉林も今は勉強中だし、霧画は行方不明。この人の知識を知っておいて、損は無いと思う」

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