第35話

 第35話


 週が明けて月曜日、僕は病院に抜糸に来ている。抜糸と言っても体に入っている糸を抜く訳じゃなくて、皮膚から飛び出している糸の結び目を除去するだけだから痛くはない筈。でもなんかちょっと緊張する。

 処置室に入りベッドに横たわると鈴木先生がふくらはぎの傷を確認し、「大丈夫そうね」と言った。「カチャ」という金属が触れる音を伴って鈴木先生がハサミを掴む。痛くないと思っていても緊張して体に力が入る。パチパチと飛び出している結び目を手際よく除去していき、やはり痛くなく、ほっと息を吐く。


「頭大丈夫?」と誤解されそうな質問をされる。裂傷の事だろうと理解して、「はい」と答えた。


「頭も診せて」と言って右側頭部の裂傷を確認してもらい、「こっちはもうすっかり大丈夫ね」と言うと僕に背を向ける様に机のパソコンに向かいなにやらタイピングをする。


「一応、今日抜糸はしたけど、まだ激しい運動はしないでね」

「はい」

 元々激しい運動をするような僕でも無いし、そこは大船に乗ったつもりでいて欲しい。自慢する事でもないけど。


「じゃあ、もう明日からは来なくていいけど、もしどこか痛んだり、調子が悪かったらまた診せにきてね」

「はい、ありがとうございました」

「あの子と仲良くね」と言って頭をぽんぽんと撫でられた。

「はい、大切にします」

「若いっていいわね」と言って優しく笑みを浮かべた。


 診察室を出て時間を確認すると既に正午を回っていた。今から自宅に戻って昼食を食べて学校に行っても6限目受けるくらいか。それならもう今日は休んじゃうか。


 僕は会計を済ませ、ロビーのソファーに座り花さんにLINEで今日は休むとのメッセージを送った。すぐに了解の旨の返信が届くのでお昼休みなんだろうかと思い、時間を確認すると丁度とのくらいだ。

 それから明日の朝、駅で待ち合わせて一緒に学校に行こうとのメッセージそ送る。これまたすぐに了解の旨の返信が届いた。


 さて、久しぶりの学校を想像して憂鬱になる。ボッチの僕が数日休んだところで誰も気にしていないだろうけれど、事故に遭って入院していたとなると多少はクラスメイトの話題にも上がっているかも知れない。それよりなにより、明日から花さんと一緒に通学するのだ。僕には誰も興味を示さないだろうけれど、変装を解いた彼女には注目が集まりそうだ。なるべくヤキモチは焼きたくないけれど、彼女を信じるしかない。でも好きなんだからヤキモチくらい焼くべきか。彼女に愛想つかされない様に今後も頑張って彼女を守って行くだけだ。僕はその為に生まれて来たんだから、うん。


 病院から出ると強烈な日差しが降り注ぐ。春はすっかり鳴りを潜め夏の訪れを感じさせる。慌ただしく過ぎ去った17歳の春。僕には様々な変化があった。環境、気持ちの変化、人間関係、そして恋人。花さんとの出会いが僕を変えた。たまたま席が隣になった地味で根暗なボッチ少女。彼女との出会いが無ければきっと僕は今まで通り偏屈でメンドクサイ奴だったのだろう。本当に些細なきっかけだったけれど、僕には圧倒的な出会いだった。この17歳の春は、今までの僕から色んな事が移ろいた春だった。

「春は嫌いなんだけど」と、ボソっと呟いて家路に就いた。



「お兄ちゃん、忘れ物無い?」

「うん、多分」


 翌朝、朱と共に駅へ向かう。妹の制服もすっかり体に馴染んだようで新入生感は幾分薄れた。

「お、花様とは駅で待ち合わせ?」

 お花様ってなんだよ。なんか変な呼び方しようとして慌てて訂正したんじゃないだろうな。

「うん」


「どっか具合悪くなったらすぐ教えてね」

「うん」

 朱が駅で友達と合流するとそのまま別れた。ホームは相変わらずの混雑で久しぶりの僕は滅入ってしまう。

 すぐに電車が入線してきて特に並ぶわけでもなくそのまま惰性で車両に乗り込むと、一人の女生徒が、「あ!」と僕を見て声を出した。この子は確か、居眠りしていた時に起こしてくれた子だ。僕を覚えていてくれたんだ。何か言いたげだけれど、お互い名前もクラスも学年も知らない者同士、会話が始まる訳でも無く軽く会釈だけして済ませた。


 電車は相変わらず不機嫌に停車し乗客を揺らす。今日の運転手はアイツか、と定期的に訪れるこの止まり方にも懐かしさを覚えた。

 ホームに降りると丁度反対側からも電車が入線してくる。花さんがやってくる方面だ。彼女はこれに乗っているのであろうか等と考えながら改札を抜けて周囲を見渡すと、既に彼女は着いていたようで僕の方にチマチマと歩いてきた。マスクも眼鏡もカツラも無い花さんは少し周囲を気にしつつ俯いている。


「おはよう、花さん」と言って彼女の本の鞄をひったくる。

「おはようございます……」

 すごく照れ臭いけれど、

「行こうか」と促した。


「手って繋ぐものなの?」

「小説ではおおむね繋ぎますけど……私にはちょっと無理そうです」

「ですよね」 僕もとは言わずに合意した。

 ちょっとほっとした。手を繋ぐのはデートの時だけで良いよね。まあ付き合ってるアピールにはなるんだろうけど、僕も花さんも堂々とそう言う事が出来るキャラじゃない。


 通学路を並んで歩いているとやはり男子生徒の視線を感じる。「あんな子いたっけ?」と言うヒソヒソ話も聞こえてくる。やっぱり目立つんだなあ。それに、男子生徒だけじゃなく女子生徒も花さんを見ている事に気付いた。女子から見ても彼女は美人なんだろうな。


 教室に入ると一斉に注目を浴びた。予想はしていたけれどその視線は思っていたよりも強烈だった。だけど視線は僕にと言うよりは花さんにで、「え? 誰?」と明らかに聞こえる。僕の事も見て。

「あれって? 田中?」と誰かが言った瞬間、「え! うそ?」とクラスがどよめきに包まれた。花さんゴメン。君を盾にして僕は、皆からの僕への感心を逸らしてしまっている。心から申し訳なく思った。


 花さんは首を限界まで下げ真っ赤になって席へと向かう。席に着くと「田中さん、すごい、どうしたの?」と数名の女生徒が花さんの周りに集まってきた。

「ははは、まあ、ちょっと……」と彼女も対応に苦慮しているようだ。次第に男子生徒も集まってきて、彼女の周りを取り囲んだ。流石にこれは花さんが可哀そうだ。


「ちょっと、君達、彼女が困っているじゃないか、あまり取り囲まないであげてよ」と間に入って言うと、

「あれ? 中西君じゃん」

 って、今さら?

「退院したんだ、よかったね」と言ってすぐに花さんの方を向く。ちょっと酷くない? 確かに存在感薄い僕だけれど、もう少しなんかお見舞いの言葉があってもいいんじゃない?

 次々と登校してくるクラスメイト達もこの騒ぎを見て何事かと集まって来る。殆どが花さん目当てで僕に気付いたのは数人だった。担任の先生が教室に入ってくるまでこの騒ぎは続いた。


 先生が出席と取る段階になってようやく僕の存在に気付いたクラスメイト達が、ああ、中西来たんだという、ああ、今日ゴミ出しの日だったね位のテンションで感心を示した。それだけ。まああまり注目されたくなかったから良かったけど。


 その後も休み時間に度に数名のクラスメイトが花さんの所に来て声をかけていたけれど、お昼休みになる頃には随分収まった。元々ボッチだった彼女には友達もいないし、それほど会話も弾む事もないのだろう。


「中庭で食べようか」

 せっかく天気も良いので花さんを外に連れ出した。教室だと一緒に食べるのはなんとなく照れ臭かったし、周りの目もある。


 中庭へ行くと朱と星ちゃんがお昼を食べていて、僕たちに気付いた朱が、

「お義姉ねえさん、コッチコッチ」と手招きした。おい、ついに口に出したな。朝、言おうとしてたのはそれだったんだろ。あまりにも気が早すぎだろ。


「おい、朱。まだそんなんじゃない」

「いいじゃん、ねえ? お義姉さん」

「ま、満更でもねーっす」

「ったく……」


 朱は今日も人気総菜パンを手に入れた様で、それを頬張りながら、

「お義姉さん、今日一日どうでした? 注目されました?」と花さんに聞いた。

「そっすね、でも今日一日乗り切れば明日には落ち着くんじゃないすかね」と答えた。

 僕もそう思う。こういうのは初日だけなんだよ。


「田中先輩、髪どこで切ってますか?」と星ちゃんが花さんの髪を見て興味深そうに聞く。

「白楽の美容院すよ」

「今度紹介してください」

「あ、私もー」

 完全に女子会になってしまった。再び僕はボッチだ。


 放課後、久しぶりに花さんとの二人きりを決め込もうと教室が捌けるまで待っているんだけど、今日は数名のクラスメイトがいつまでもダラダラと残っている。花さん目当てだろうか。許すまじ。そんな事を考えていると、

「なあ、中西と田中っていつも放課後、教室にいたよな」と数名の男子生徒が声をかけてきた。はっきり言って名前は知らない。

「うん」と一応返事をしておく。


「元々付き合ってたの?」

「付き合いだしたのは最近」

「そっかあ、田中って顔見せないし、喋んないし全然意識した事なかったもんなあ。まあお前らが付き合ってるのはみんな薄々気が付いていたけどな」と周りの同意を求めるかのように言う。うんうんと取り巻きもうなずく。


「これから田中に告白してくる奴が増えそうだな」と不安にさせるような事を言う。まあでも、それは僕でも想定している事だ。

「じゃあな」と言って去って行きようやく二人きりになった。


「なんか久しぶりだね」

「そっすね」

 僕は窓側に体を向けていつもの様に頬杖をついた。ただ、目線は花さんに向けて。

「あなたいっつもそうしてましたよね」

「最初は外を見てたんだけどね」

「気になって仕方が無かったっすよ」

「僕も気になってた。最初は外ばかりみてたけど、いつの間にか花さんを見る時間の方が増えて行ったんだよね」

「本当はもっと早く帰ろうかと思ってたんすけど、あなたがいたから帰らなかったんすよ……」

「え? そうんなんだ」

「小説なんて家でも読めるじゃないすか」

 確かに言われてみれば。


「何となく、自然に、あなたと過ごす放課後が楽しみになっていったんですよ」

「それは……僕もそう……」


「はっきり自覚したのはいつか分からないっすけど、あなたが他の女子と話す度にイライラしたっすよ。それが例え妹さんでも」

「なんか兄妹でデキちゃうくだりの話してたもんね」


「望月さんや麗華さんまであなたに話し掛けた時はもう完全に気付いたっすよ、嫉妬しているって」

「前にも言ったけど、僕には花さんしか見えてなかったから心配しなくても良かったのに」

「そっすけど……」


 彼女は俯いて僕に表情を見せないようにして、

なびかないで下さい……大好きなんです……」と言った。僕は彼女の手を両手でしっかり包み込み、


「僕は花さんの為に生きているんだよ、安心して」としっかり目を見つめて言った。


 そして、そっと口づけをした。

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