第30話

 第30話


 昇降口に着き靴に履き替えて外に出るとぽつぽつと降り始めていた。天気予報では今日の夕方から大気の状態が不安定になり雷雨が予想されるとの予報だった事を今さらながらに思い出す。5月にしては生暖かった空気が急にひんやりとしてきた感じだ。時折突風も吹く。これは豪雨の前触れ?

「花さん、傘持って来てるよね?」と僕は自分が持っている傘を彼女に見せつける様に聞いた。

「はい」

「鞄持つから急ごう」と、花さんの本の鞄をひったくって歩き出した。


 僕たちは傘をさし校門を抜けて小走りで駅へと向かう。そう言えば朝、学校の帰りにコンビニで胡椒を買ってきてくれって、姉が言っていた事を思いだす。面倒くさいなあ。駅前のコンビニで買うか。

 僕たちが速足で表通りを歩いているといよいよ雨は大粒になってきた。時折雷鳴も轟き、嵐が通り過ぎるまで学校で待機していた方が良かったのでは? と内心後悔し始める。だけど、天気予報では夕方以降ずっと大雨って予報だったし、呑気に肉じゃがのうんちくなんて語っていないでとっとと帰れば良かったと後悔しつつ、心の中で花さんをこんな目に会わせてしまった事を謝罪した。


 通学路の半ば辺りで遂に豪雨となった。これ完全にゲリラ豪雨じゃん。雨粒は激しく傘を叩き「ドー!」と言う音で包まれる。先程まで速足だったけれど、こうなると歩みを緩めないとびしょ濡れになってしまいそう。地面で跳ねた雨粒が僕たちの足元を容赦なく濡らしていく。


 僕たちは建物の陰に添うようにゆっくり進み、ようやく駅と目的のコンビニが見えて来た。


「花さん、僕、姉に頼まれた買い物をしていくからここで!」と、傘を打ち付ける雨音に負けない大きさで言うと僕が持っていた花さんの小説の鞄を彼女へ返した。

「はい、また明日!」と花さんも大声で答え駅へと歩いて行った。


 その時、僕の右の方から『ガシャン!』という音が聞こえた。何事かと思いそちらを見ると、30メートル程先で大型のバイクが転倒しているのが視界に入る。ライダーは放り出され、200kgを超える鉄の塊が『シャー』と横滑りして行く。その行く先には……


「花さん!」

 大きな声で叫ぶのだけれど豪雨の中、傘を肩に当てた彼女には届いていない様だ。

 静寂に包まれる。集中力が覚醒しバイクがスローモーションになった。まただ、この感覚、以前椅子から落っこちそうになった花さんを助けた時と同じ感覚だ。ひょっとして僕は彼女を助ける為だけに生まれて来たのだろうかと思える程、彼女のピンチに何かが覚醒する。ってそんな事はどうでもいい、走り出せ! まだ間に合う! 彼女を救え!

 

 傘もカバンも何もかもを放り出して自然と一歩目が出た。彼女までの最短距離のルートが見える。彼女までの距離と僕の走る速度とバイクが滑って行く速度と距離を瞬時に把握し、ギリギリ間に合うという結論を出した。

 少しづつ近付いてくる彼女。少しづつ近付いてくる鉄塊。また大事な人を失うのか? この手で守れ。僕はその為に生まれて来たんだろう? 8歳の時の僕とは違う。今の僕なら出来る筈だ。もう大切な人を失わない。もう何も失わない! 僕は右手を限界まで伸ばし彼女の背中に向けて放った。と、届け! 「どりゃあああ!」と叫んで僕の掌が彼女に届いた。

 前方で僕に突き飛ばされてズッコケる彼女が見えた、瞬間足を掬われる。視界が180度回転して空が見えた。真っ黒な雲だなあ。顔に大粒の雨が打ち付けるのを感じた。雨も大粒だと結構痛いなあ。ってそれよりこれ頭ヤバくね? 服もびしょびしょだし姉に怒られそうだ。あ、そうだ、胡椒。胡椒買わないと。


 側頭部に鈍い痛みが走るのだけれど、想像していたよりは全然痛くない。この程度か。僕は痛いのが大嫌いだったけど、この程度の痛みで安心する。鼻の奥がツンと痛み、視界が暗転し、意識が途切れかけた。頭を打っちゃったみたいだな。「――君!」 明日学校休めるかも。「――し君!」 なんか頭が生温かいな、なんだこれ? そういえばライダーの人は無事だろうか? いや、そうじゃなくてもっと大切な人が。「――にし君!!」 あ、そうだ花さんは大丈夫だろうか? 誰かが僕に覆いかぶさってきた。この匂いは花さんだ。この温もりも。花さん、傘ささないと濡れちゃうよ? 「中西君!」 あ、そうか……、そうだったんだ……。曖昧だった物が確信に変わり、すとんと心の中に落ちた。

 

 僕、花さんに恋をしているんだ。


 そう気付いた瞬間意識を手放した。


 ――――――――


 もう随分と母さんに会っていないなあ。最近は夢の中で母さんは夢の中でいつも僕に会いたそうにしていたなあ。母さんと会えるのだろうか。このまま母さんの所に行くんだろうか……それもいいか……


 ――――――――



 物凄く重い瞼を開く。女性の香りがする。目の前に白い服を着た女性の大きな胸がある。凄い大きいな。これを巨乳って言うのか? この服は白衣か? 病院の先生? 聴診器が見える。ここは病院か。

 ええと、僕は……花さんを助けに行って、ああ、だんだん思い出してきた。


「中西さん? 中西さん?」

 目の前の女性が話し掛けてくる。うっ、頭が痛い。

「……おっぱい先生?」

「落ち着いて、ここがどこだか分かりますか?」 

「病院……」

「名前を言えますか?」

「花さん……」

「……?」


「あなたの名前を言えますか?」

「……花さんは?」

「花さん?」

「……花さんは? 無事ですか?」

 ようやく僕の言っている事を理解したおっぱい先生が、

「ああ、あの女の子ね。大丈夫よ。あなたのおかげて擦り傷だけだったわよ」と僕に伝える。

「そっか……良かった……」

 僕は心底安心した。

「それより質問に答えて――」


 その後いくつか記憶に関する質問をされた。

 

 花さんを忘れなくてよかった。


 周囲がなにやら騒がしくなり、女性が一人ICUに入って来たようだ。


「タロさん? 大丈夫? タロさん?」

 あまり大きな声で話し掛けないで、頭に響くから。

「……姉ちゃん」

 姉はへなへなと椅子にしゃがみ込み、

「良かった……」と言って僕の手を握り締めて来た。姉に手を握られるなんて照れ臭いからやめてくれ。

「あなた丸二日間意識が無かったのよ」

「そう……」

 そんなに。じゃあ今日は何曜日なんだろう? なんて考えていたけれど、すぐに考える事を放棄した。頭はまだ全然冴えないし、痛みもある。全身熱っぽくて節々も痛い。


 その後、先程のおっぱい先生改め女医の鈴木先生から僕の症状を告げられた。側頭部を強打し裂傷したようでまだ出血があるとの事だ。その他、右ふくらはぎにバイクと接触した際に出来た切創があり10針縫ったらしい。骨には異常は無く、今後頭部の精密検査などを行い異常が無ければ通院治療になるそうだけれど、暫くは家族以外の面会は出来ないそうだ。花さんの顔が脳裏に浮かんだ。彼女に会いたい……。やっと自分の気持ちに気付いたのに……。



 その後何度か微睡み、何回目かの覚醒か分からないけれど、


「母さんの所に行くのかと思った」とぽつりと呟いた。

「え?」

 姉の代わりに見舞いに来ていた朱が驚いた様子でこちらを見た。

「このまま母さんに会えるのかと……」

「へ、変な事言わないで!」

「うん……」



「なあ、朱」

「なに? まだあんまり喋んない方が――」

「花さん大丈夫だったかな?」

「……お兄ちゃんのおかげでね」

「そっか……」


「なあ、朱」

「だからあんま喋んないで――」

「僕、花さんの事が好きみたい」

「……そんなの分ってるよ。今はとにかく癒すんだよ」

「うん……」

 その後、何回目かの眠りに落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る